勇気を出した結果


東都水族館、スタッフルーム。
鈴は、壁にかけられたカレンダーを見つめ、大きくため息をついた。
そして、手に持ったスマホの画面を見てさらにため息。
このふたつを繰り返し続けていた。

「ちょっと、いい加減それやめなさい。」
「先輩…」
「全く…連絡先をゲットしなさいっていったのに…」

渡しただけなんて。と続けると、鈴を呆れたような表情で見つめてくる。
その視線に耐えることが出来ず、もう一ため息をついて鈴は机に突っ伏す。

「(あれから、2週間…もう、2週間…)」

2週間前、鈴は以前から気になっていた男性に自身の連絡先を渡すことに成功した。
そして、翌日、興奮冷めやらぬまま、先輩にそのことを話し…指摘されたのだった。

『それって、相手から連絡がこない限りもう動けなくなったってことよね?』と。

交換ではなく、一方的に連絡先を渡しただけでは次には進めない。
冷静に考えればすぐわかることに鈴は気が付くことが出来なかったのだ。
連絡が来なくとも、また水族館には訪れてくれるだろう。そんな気持ちでこの2週間、鈴はいつものようにバイトに入っていたのだが…なんと、その期間中、一度も彼を見なかった。
これは、彼の存在を知ってから初めてのことで、自分がしたことにより相手が来館しづらくなってしまったのでは?と不安になってしまった。
日に日につのる不安と後悔に押しつぶされそうになりながら、鈴は今日もアルバイトを続けていた。
自分に割り振られたスタッフルーム奥の更衣室内のロッカーには、ラッピングされた袋が入ったままになっている。中身はもちろん、ペンギンのぬいぐるみ。

「(…渡せる日が楽しみ。なんて思えたのは最初の数日間だけだったな)」

じんわり、目頭が熱くなるのがわかった。

「…今日はもう終わりでしょ。ゆっくり休みなさいね。お疲れ様。」
「………お疲れ様です」

目頭を押さえながら顔を上げて挨拶する。
ぱたん、とスタッフルームの扉が閉まったのを見届けてから、鈴は重い腰をあげて帰宅準備を始めようと更衣室へ向かった。

その時だった。
スマホのトークアプリから新規メッセージの通知音が鳴った。
鈴は、そのメッセージを確認し…スマホを落とした。



*****
遡る事数ヶ月前。
東都水族館前にその男は立っていた。

黒の組織、工作員。コードネーム、カシャッサ。
本名は当の昔に捨て、その名を知るのは唯一の肉親であり、同じ組織に属する姉、キュラソーだけである。

「(ここが、姉さんの…まだ改修前か)」

前世の記憶を持ち、姉の未来を知る彼が先行して日本の地を踏むことになったのは何の因果か。組織の仕事をこなしつつ、カシャッサは空き時間を使ってここを訪れた。
いざ中に入ってみると、大体の建物の位置や外観は記憶通りだが所々違っている。

入場前から見えていた観覧車も、どこにでもあるような形のものである。
記憶はあるが例の日の正確な日時がわからない。それがここ最近のカシャッサの悩みであった。
姉弟とはいえ、組織内での仕事は異なっており、同じ国にいることも少ない。連絡が数ヶ月単位で取れなくなることもざらであった。彼女の死に場所が分かっているため、現時点で連絡が取れなくなることに不安は感じていないが…いつ『ここ』に訪れることになるのか。その前に、彼女を救う手立てを確立する必要があるためカシャッサは入念にこの場所を確認する必要があった。
しかし、現時点では判断しきれないことが多い。

「(少なくとも、あの観覧車が新しくなるまでは…焦る必要はないのか)」

ゆっくりと動く観覧車に背を向け、帰路につこうとカシャッサが思ったその時。
周りの雑音を押しのけて、自身の耳に入ってきたその声に足を止めた。

「はい、みんなで応援しましょう!せーのっ、がんばれー!がんばれー!!」
「(…なんだ?)」
「おっと、オレンジちゃん、優勢です!ブルーくん、追い付くことが出来るかー!?」

声に導かれるように、水族館内へと入るとそのまま屋外エリアを歩く。
人だかりを見つけ隙間からその先を見ると、そこではペンギンたちによるパフォーマンスショーが行われていた。声の主は、そのイベントのスタッフのようだ。淡い金髪をまとめ、愛おしいものを見つめるようにその瞳を揺らし、ペンギンたちに魚を与え、観客に笑いかける。

「(…眩しいな。)」

そう感じたのは天気のせいか、彼女自身に対してか…
目を細め、もう一度彼女を見たカシャッサは今度こそ帰路につくため退出ゲートへと足を向けた。

…そんなことがあった数週間後、カシャッサはまた東都水族館を訪れていた。
いまだ改修の始まる様子のない観覧車へは目も向けず、まっすぐ向かうのは水族館内、ペンギンエリア。水槽前ではなく、ひとつ上段の柵前から水槽内で思い思いに過ごすペンギンたちを眺める。
水槽内の奥の扉が開く。その音に、泳いでいたペンギンたちはいっせいに岩場へと戻ってくる。そんな姿に嬉しそうに微笑む女性を見て、カシャッサはまた目を細めた。
今日も元気に観客に声をかけるその姿を目に焼き付ける。…それが、カシャッサのルーチンワークとなっていた。

闇の中に生きる自分と、光の下で微笑む彼女。
決して交わることはないと思っていたカシャッサの考えが崩れたのは、そこからさらに数週間たった日のことだった。

初めて見るクイズ形式のイベントが終わり、新たに得たペンギンの知識を水槽内で泳ぐ姿を見ながら反芻していたとき、なんと彼女からカシャッサに声をかけてきたのだった。
色白い頬がほんのりと赤く染まり、身体は小刻みに震えているように見える。マイク越しではない彼女の声はいつも以上にカシャッサの胸に響いた。

「…なにか?」

とっさに出た言葉に心の中で舌打ちする。あまりにも冷たい声が出てしまった。工作員の端くれであるにもかかわらず、素の自分で対応してしまったことに嫌悪感を抱く。そんなカシャッサに、ペンギンのぬいぐるみを差し出す彼女。断るのが面倒で受け取ろうとすると、離してくれない。それを指摘すると、さらに頬の色が赤くなった。不用意な発言をし、混乱させてしまったと思い、カシャッサはとっさにぬいぐるみ交換を提案してしまった。

「(なにを言っているんだ俺は…)」

自身の行動に驚いていると、ぬいぐるみと共に何かが書かれたメモ帳を渡され、そのまま出口へと誘導されてしまった。連絡を待つと言い逃げた彼女の後ろ姿を見ながら、どうしてこんな状況になったのか、こめかみを押さえたくなった。

「…どうするか」

カシャッサはメモ帳に書かれた連絡先を見ながら悩んでいる自分に驚いてしまった。
自分は組織の工作員…つまりは犯罪者。しかも、死に場所を決めている、未来の無い人間だ。そんな自分が、連絡を取っていい人物ではないことは彼女のことを調べなくてもわかる事だ。仮に、何か彼女から情報を手に入れるにしても、そのための下準備はかなり面倒くさいことになる。仕事でもないのに新たに仮初の姿を用意するなど…ありえないのだ。


………――ありえない、はずだった。

偽りの身分を作成し、契約した真新しいスマートフォンを握り締め、カシャッサは水族館内のカフェスペースでコーヒーを飲んでいた。窓から景色が望めるように作られたカウンタータイプの席から奥にある観覧車を眺めていたカシャッサの耳に、自分に近づいてくる何者かの足音が聞こえてきた。あの…と遠慮がちに声をかけられ、視線をそちらに移す。
そこに立っていたのは、大きな袋を抱えた…藤間鈴だった。

「ヴァールハイトさん、ですか?」
「そうだ。」
「あ、あの、連絡をいただきました。藤間鈴です。」
「…連絡が遅くなってすまなかった」
「えっ、い、いえ!こちらこそ、無理やり連絡先を押し付けてしまい、申し訳ありませんでした…」
「いや、別に…それが、交換のためのものか?」
「あ、はい…いっぱい考えたんですけど、どの子も可愛くて…苦肉の策に出てしまいました。」
「ここで開けても?」
「あっ、実は、それ…ここの水族館の商品じゃないんです。なので、お家で開けてもらえると…」
「…わざわざ別のところに向かわせてしまったのか」

手間をかけさせてしまってすまなかった。とカシャッサが頭を下げようとすると、鈴は大きく手を顔の前で横に振った。

「いえ、私がそうしたかったので、気にしないでください。…受け取っていただけますか?」
「ああ、ありがとう。…洒落た袋が用意できなくてすまないが、こちらと交換しよう。」
「こちらこそ、ありがとうございます!…あれ?これは…」

カシャッサから受け取った紙袋の中に、ぬいぐるみと共に封筒が入っていることに気づいた鈴に、カシャッサは心の中で舌打ちをする。封筒の中身は、ぬいぐるみ代としては高額すぎる金額のお札が数枚入っていた。それに気が付いた鈴が慌てて封筒をカシャッサに渡そうとする。

「こ、これは受け取れません…!」
「ぬいぐるみ代だ」
「多すぎますし、そもそも代金を請求するつもりなんて…」
「俺のは配布物だが、君が持ってきたのは商品だ。…しかも他の水族館なら交通費や入館料もあっただろう?」
「それでも、受け取れません。私は…受け取りたく、ありません。」
「受け取ってほしい。」
「…………ヴァールハイトさんは、甘いものはお好きですか?」
「は?…好んで食べるわけではないが、全く口にしないわけでもない。」
「わかりました。」

少し待っていてください。と言って鈴はカシャッサの隣の席に自分の荷物を置き、封筒を掴むとカフェのレジへと小走りで向かっていった。突然の行動に、カシャッサは鈴の後ろ姿を眺めることしかできない。
…数分後、鈴はトレーを持って戻ってきた。そして、カシャッサの前に皿を置き、自分の取っておいた席に腰かけた。

「…これは?」
「ペンギンのアイシングクッキーです。
…先程のお金を、すべてカフェのプリペイドカードにチャージしてきました。
そのカードで、クッキーと飲み物を買ってきました。…これは、ぬいぐるみ代ではなく、ヴァールハイトさんの驕りで、ふたりでお茶しているだけ、です。」
「ぬいぐるみ代ではなく、カフェで共にお茶をするためのお金として受け取ると?」
「…はい」
「君の時間をお金で買っているように聞こえるんだが」
「そ、そんなつもりじゃ…!」
「わかっている。」
「え?」
「君なりの、妥協案なんだろう?それで気が済むなら、付き合おう。」
「…カードの残高が無くなるまで?」
「さすがに一日中ここに居るわけにはいかないから、分割払いしてほしい」
「…また、会ってくださるんですか?」
「そういう話ではないのか?」
「いえ!そうしてください!!」

きらきらした笑顔で頷く鈴に、カシャッサはまた目を細めてしまう。
手帳を広げて、次のバイトのシフトを確認し始める鈴を横目に、カシャッサは目の前のクッキーに手を伸ばす。…感じた甘みは砂糖のものか、それとも……



*****
帰宅後、鈴はお風呂上りの火照った体を冷ますように手で仰ぎながら、リビングに置かれたソファーに座った。かさり、と音がして、端に置いておいた紙袋が倒れたのに気づいた鈴は、その紙袋を手に取り、中からぬいぐるみを取り出した。
限定品のそのぬいぐるみを撫で、その肌触りのよさにたまらず顔をうずめる。
…その瞬間、ふわっと香った匂いにどきっとして固まった。

「ファルシュ・ヴァールハイトさん…」

やっと知ることが出来た彼の名前を口にする。それだけで、顔に熱が集まってくるのが分かった。


同時刻、都内某所のホテルの一室で、その彼が自分の名前を口にしているとは夢にも思っていない鈴は、そのぬいぐるみを抱きしめたまま、ベッドルームへと向かうのだった。

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