智慧と烏丸くん

春先とは思えない、うだるような暑さで目を覚ました。枕もとの時計を見ればとっくにお昼を過ぎているらしく、短い針が3という数字をさしていた。私は、二度寝をしたのかしら…?なんとなく朝に李奈が起こしに来てくれたようなおぼろげな記憶があった。そのあとはもう覚えていない。ということは、私は珍しく睡魔に負けて寝ていたのだろう。寝すぎた所為で頭は働かなかったが、体は正直なようでグゥと控えめにではあったが空腹を訴えていた。下に行けばなにか食べ物が用意されているのではないだろうか。今日の料理当番は誰だったかしら、そう頭の隅で思い出しながら寝起き特有の気だるい体を動かし着ていた上着を脱いでから部屋からでた。

「…なにもないのね。」

階段をおりながら、異様な静けさだとは思ったがまさか誰もいないとは思わなかった。そしてあると思ったご飯もない。はぁ、と口から漏れた自分のため息だけが耳についた。もういっその事夕飯まで待とうか、そう思ったが、たしかあそこの棚に誰かのカップ麺があったはずだと思い出し棚を開ける。そこにあったカップ麺は「でかまる」と書いてあるものだった。なぜだろう、もさもさしたイケメンと称されている後輩を思い出した。そういえば彼は今何をしているのだろうか。

「…とり、まる。」

一度も呼んだことのない呼び方で無意味に彼の名前を呟く。なんとなく、なんとなくだが照れくさくなった。……もし本人の前で言ったとしたらどんな顔をするのだろうか。

「からすま。きょうすけ。」

名前を呟きながら京介の照れたところを見た事がないなと思った。あの子が照れることはあるのだろうか。

「…とりまる。」

「なんすか、智慧さん。」

突然背後から聞こえた声にびくりと肩を震わせる。さっきまで、誰も、いなかった、のに…。サァっと血の気が引いた。まったく玄関が開く音に気が付かなかった。聞かれていたらどうしよう。なにか良い言い訳を必死に考えが混乱した頭ではうまくまとまるはずなどなかった。

「智慧さん。」

「お、おかえりなさい。京介。」

「…とりまる、って呼ばないんですか?」

「…っ!聞いてたの、ね…。別にあれは、特に意味はないのよ。」

そう、意味などないのだ。ただ、響きが似ているなと思ったから。呼んだことない呼び方に興味が湧いたから。そう。たったそれだけ。深い意味なんて、きっとない。

「智慧さん。」

「なあに?」

「こっち向いてください。」

「……嫌よ。眼帯してないし、トリガーだって持ってないわ。」

「…智慧さん。」

「……そんな声で呼んでもだめよ。見せたくないわ。」

寂しそうな、けれどもどこか有無を言わせぬ声色で京介は私の名前を呼んだ。眼帯がない、傷を見せたくない、なんて正直に白状すれば建前だ。本当は振り向きたくない。だって、今振り向いたらーーーー。

「智慧さん。」

「きょう、す、け…っ!」

一瞬の隙をつかれ、グルリと反転させられる。背後には棚、正面には京介。逃げ道の方には京介の腕。そして、私の両足の間には涼介の足があった。しまった、これでは逃げられない。狼狽える私を他所に京介はいつもの涼しげな表情だ。

「…顔真っ赤っすね、智慧さん。」

「〜っ!!!」

京介の言葉に羞恥で声にならない悲鳴をあげる。だから嫌だって言ったのに……!顔を手で隠そうとすれば京介は退路を塞いでいない手で器用に私の両腕を纏め上げた。

「隠しちゃダメですよ。」

「京介、離して。」

「嫌です。」

「離しなさ、い……っ!?」

そう言うと同時に、ズイっと京介が顔を近づけてきたので思わず目をつぶった。すると、京介は何を思ったのか、チュッと啄むようにキスをした。ああああ、もう!!馬鹿……!

「なに、してるの……!」

「いや、つい。」

「『いや、つい』じゃないでしょう!?誰か見てたら、どう、ん…っ!」

どうするのと続くはずだった私の言葉は、再び京介の唇に塞がれ発せられることはなかった。ああ、もう、頭がパンクしそうだ。目の前にいるのはいったい誰だ。烏丸京介はこんなひとだっただろうか。

「誰もいませんから大丈夫ですよ。」

「そういう問題じゃ……!」

「みんな出かけてるんで、まだ帰ってきませんよ。俺と智慧さんだけです。」

「陽太郎がいるかもしれないでしょう?」

「陽太郎もいないんで大丈夫です。」

2人きりですよ、と囁いた京介の瞳は獣のようにギラついている。まるで、戦闘中のようだと的はずれな事を考えるくらいには現実逃避をしたかった。

「智慧さん。」

「…年上を、からかうものじゃないわよ。」

「からかってません。俺は本気です。」

「本気って…、」

ああ、もう、どうしてそんな事言うのよ。いつも桐絵にしているように『嘘です』って言いなさいよ。そうしたら『やりすぎよ』って注意するだけですむのよ。本気だなんて言われたらどうしていいかわからない。ただただ、ギラついた京介の瞳に私の思考が麻痺しているような気がした。






午後3時の言い訳
(みんな季節外れの暑さのせいよ)
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