先生の声しか響かない教室で、郁弥はこっそりと横を盗み見た。真っ直ぐと黒板に向けられた隣の人の横顔が似ていると思った。
昔の友人に。
中学のほんの少しだけの期間一緒に泳いだ友人に。
臆病だった郁弥を変えるきっかけになった旧友に隣の人は瞳がよく似ていた。
あんなに静かで揺らがなくて、真っ直ぐな瞳を郁弥は『ハル』以外知らなかった。
だから、高校三年生にもなって同じ瞳を持った人に会うとは思いもしない。ルームメイトの日和に話したら面白がるので、絶対に言わないと決めた郁弥は、隣の人と同じように視線を前の黒板へ戻す。
郁弥は週に一度だけ彼女の隣の席で授業を受ける。なぜなら、選択した授業で一緒だからだ。
郁弥が知っているのは、隣の席の彼女の名前が白崎利桜だということと、弓道部に所属していることだけ。隣の席とはいえ、クラスが異なるのでほとんど会話はしたことがない。
「桐嶋君って、水泳部だっけ?」
授業の終わり、今更な質問を利桜からされた。利桜から発せられた聞き慣れたイントネーションに郁弥は、誰かが話していたことを思い出す。利桜が関西出身ではないことや、一年の頃から大会で優秀な成績を残しているらしいこと。本人がそれを自慢げにしているところは見たこともないし、隣で一緒に授業を受けているだけでは、彼女がどんな人間かは推し量ることはできない。
投げかけられた質問に何の意図があるのだろうか。年度の一番最初の授業で自己紹介をしているので、郁弥が水泳部なことは、この授業を受けている誰もが知っていることだった。
「……そうだけど」
「水泳部に花岡君っているじゃない。友達から頼まれてて、ここに来てもらいたいんだけど、伝えてもらうのお願いしても大丈夫かな」
利桜の差し出したメモに、日時と場所が書かれていた。
「白崎から直接じゃだめなの」
「あんまり話したことないから、同じ部の桐嶋君からのほうがいいかなって思ったんだけど……。やっぱりダメだよね……」
利桜は少しだけ困ったようにはにかむ。
利桜の友人も、直接本人に言えないなら言わなければいいのにと郁弥は思う。とはいえ、目の前で嫌だとばっさり切り捨てるのも気が引けた。それでも気乗りしないことには違いない。
利桜が無理なら自分から言いに行くからと言ったところで、郁弥は普段なら絶対にしない一言を口にする。
「渡すだけなんでしょ。いいよ」
「ホントに?」
「どうせ、毎日顔合わせてるし」
「ありがとう。友達にも伝えておくね」
じゃあ、また授業の時にね、なんてさらりと言った利桜は教室を出ていく。郁弥は手渡されたメモを制服のズボンのポケットに入れた。
やっぱり少し面倒だ。
けれども、彼女の授業中の表情が郁弥の頭の中でやけに印象に残った。
放課後、部室で花岡にメモを手渡すと、妙に上擦った声で「ありがとうな」と言われる。とりあえずこれで、利桜からの頼まれごとは終わりだ。
「桐嶋、これアイツから?」
「アイツが誰か知らないけど、白崎から頼まれただけ」
花岡は特に気にした様子もなく、そっかと言う。
「白崎って、あの白崎さん?」
「日和」
郁弥の隣にいた日和が興味ありげに問いかけた。
「弓道部の子でしょ」
「それがどうかしたの」
「郁弥と知り合いなんて意外」
「選択の授業が一緒なだけ」
「ふうん」
郁弥は日和をちらりと一瞥したが、無駄に相手にする理由もないので、部活を始める準備を進めた。
今日の授業で利桜の瞳を見たせいか、中学一年の短い期間の記憶が呼び起こされる。ほんの数年前の記憶だ。それなのに、いつまでも色褪せてなんてくれやしない。
短くて、濃くて、きっといつまで経っても忘れようがない時間だ。それだけのものがあの日々には詰め込まれていた。昔一緒に泳いだ仲間は、きちんと彼へあの時の言葉を伝えてくれたのだろうか。伝えてあっても、伝えていなくとも、泳いでいればいつか分かる。
自分の言葉に確証はなくとも、郁弥が泳ぐ先で必ず答えを得ることができるだろう。そんな予感がずっと拭えない。それに、どうせ競泳にこだわり続けるなら、自分の泳ぎを追求し続けるだけだ。そうでなければ、決別した彼らに何のために言ったのか分からなくなってしまう。
プールサイドに出た郁弥はゴーグルをきゅっと押さえつけ、スターティングブロックに足を掛ける。脳裏に思い起こされるは、大会独特のホイッスル。回数を刻み、一時訪れる静寂。―短いホイッスルの音。
全身を耳にして研ぎ澄ませ、リアクションタイムゼロで入水。
着水した瞬間、完璧だと思った。実際に音はしなくとも、幾度となく練習して飛び込んでいる。意識するよりも先に身体が反応して、足はブロックを蹴る。
身体は一瞬の空中を経て、水中へと飲み込まれる。ドルフィンから、息継ぎの為に水面へと浮かび上がる。
飛び込む前からフリーを泳ぐと決めていた。クロールを繰り返し、ターンをして壁を力強く蹴る。再びクロール。泳ぎきり足を底につけた郁弥は、キャップとゴーグルを無造作に外す。
「お疲れ」
上から伸びてきた手は日和のものだった。郁弥は素直に手を伸ばし、ぐっと引き上げられた。
「珍しいじゃん」
「……泳ぎたい気分だったから」
日和はつい今しがた泳ぎ終えたフリーのことを言っているのだろう。軽く泳いだとは言い難い泳ぎに、不思議に思われたかもしれない。
けれども、彼女を見てあの頃を思い出したなんて言った日には、なんてからかわれるか、たまったものじゃない。
フリーを泳いだからといって、何かが変わる訳でもない。
ましてやタイムアタックをしたわけでもない。
ただ、身体が突き動かされるままに泳いだ。
不思議と気分は良かった。
彼女と会うのは、週一回だけと思っていた。彼女とあった二日後の土曜日のことだ。休憩がてら自販機に来た郁弥は利桜に出くわした。
「桐嶋君も休憩?」
「うん」
玄関のすぐ外に設置された自販機前に利桜はいた。
授業を受けている時の制服ではなく、袴姿だ。休日の校内で会う人は大体部活をしている。確か利桜は弓道部だったな、と郁弥はつい一ヶ月ほど前の記憶をさかのぼって思い出した。
ガコンと落ちてきたスポーツドリンクを拾い上げながら利桜は郁弥に振り返る。
「この間はメモ、渡してくれてありがとう」
「気にしなくていいよ」
「うん。そういえば、桐嶋君ってこっちの人じゃないんだね」
イントネーションの話だろう。郁弥も利桜と話していた時に同じ感想を抱いた。
校内にいる大半が地元生徒なのは当然のことで、部活推薦でわざわざ県外からやってくる生徒の割合は少ない。潮音崎だと、どうしても関西弁以外の生徒はそれだけで目立つ。三年もいれば案外染まることも多いのだが、郁弥も利桜も変わらずにいた。
「……そうだ、良かったら弓道部見ていく?」
「え?」
時間に余裕があるなら、誰でも見学できるらしい。
「弓道場すぐそこだし、プールまでの途中にあるから」
指さす先には、確かに武道場がいくつか並んでいる。そのうちの一角に弓道場があり、更に奥に行くと屋内プールがある。
「自主練だし時間あるから、いく」
郁弥も自販機でスポーツドリンクを買って、二人で弓道場に向かう。
「桐嶋君って弓道見たことある?」
「ない。初めて見る」
「それなら、ちょうどいいね。私も自主練で来てるの」
利桜が慣れた足取りで弓道場へ入っていき、郁弥も先に入った利桜に習って、靴を脱いで入る。
「ここからなら大丈夫だよ。ちょっと準備してくるね」
利桜が立てかけてある弓を取りにいくと、ふと見えた表情はついこの間見たばかりの、あの目をしていた。やはりハルに似ていると思う。ハルは男だけれど、見据えた表情が同じなんてことがこの世ではあり得るらしい。
弓道場には利桜以外は入っていく姿は他には誰もいないのに、誰も寄せ付けようとしない。ただ一人で、矢を準備して的までの距離を確認する。どうして彼女が一年の頃から大会で成績を残しているのかがわかる。
誰しも、一人で戦う人は一種独特の空気を纒うのだろう。郁弥も少なからず個人競技をしている身だ。それは理解できなくもない。
利桜の向けた視線の先はただ真っ直ぐに的だけを見ている。
すっと持ち上げられた弓が持っているよりも大きく見えた。
昼間の太陽光と、屋内の薄暗さが相まって作り出される影と日向。ちらちらと利桜の前髪あたりに光が射し込む。
利桜はずっと静寂を纏っていた。
郁弥の感覚で言うならば、全身を耳にする瞬間。
しかし、その感覚は瞬時に吹き飛ぶ。風をきり、短い音を立てたからだ。
ゆっくりと引かれた矢は手から離れ、瞬く間に的へと吸い込まれる。
決まりきったように腕は正しく降ろされた。利桜は郁弥のいる後ろを振り返り、微笑んだ。再び弓を立て掛け、放った矢を回収してから郁弥の元へと戻ってきた。
「ど真ん中だったね」
「真ん中じゃなかったらどうしようって思ったけど、ちゃんとできて良かった」
郁弥には利桜が緊張していたようにも、不安になりながら弓を引いているようにも思えなかった。
むしろ、確信を持って構えていた。そうでなければ、矢は迷いなくど真ん中へ的中することも、静かで揺るぎのない表情にもならない。迷いがある人間には、動作、仕草、表情に如実に現れる。まったく見えないということは、日頃から彼女が練習をしていることに他ならない。そして、本番でも違えない実力がある証拠でもあった。
「白崎はいつから弓道してるの?」
「たしか小学校上がる前くらいかな。親も弓道してて、小さい頃からあちこちついて行ってたの」
「そうなんだ。初めて弓道って見たけど、白崎が弓道を好きでやってるのはよくわかった」
「そんな風に見えた? まあ、好きじゃなきゃずっとなんてできないよね」
利桜の言葉は真っ直ぐで誠実だった。
好きじゃなきゃ続けられないのは、郁弥も同じだ。
「ごめん、結構な時間引き止めちゃったね。桐嶋君、時間大丈夫?」
部屋内の掛け時計を見た利桜は心配をしてくれる。元々プールから上がって長めの休憩のつもりだった。そのことを伝えれば、利桜は安堵したのか納得した。
「桐嶋君も部活頑張ってね」
「うん、ありがとう」
利桜とはそこで別れた。
外は高くなった太陽と、爽やかに吹き抜ける初夏の風が吹いていた。
いつもと変わらない、学校の景色だった。