春は巡る

 卒業式の日、利桜は弓道場にいた。誰もいない弓道場で一人、弓を引く。
 何度も何度も繰り返してきた動作は身体に染み付いていた。ゆっくりと弓を打ち起こし、すっと開いたところで一瞬止まる。ぴたりと止まった瞬間、短い風を切り矢は的へ吸い込まれるように放たれた。
 これが最後の一射だと決めていた。終わったあと見上げた空は、冬と春の空気が入り混じった、初めてここへ来た日と同じ空をしていた。
 時間に遅れないように片付けをして、教室に向かうと友人が呆れた顔をしながら、おはようと言った。
「おはよう」
「まさか利桜、弓道場いたの?」
 持っていた利桜の荷物を見たからだろう。こんな日までわざわざやらなくても、と言われたがルーチンだから外せなかった。
「ここでできるの最後だからさ」
「そっか、利桜すぐ退寮するんだっけ?」
「うん。ずっと帰ってないから、さすがに早く帰ってこいって言われちゃったんだよね」
 利桜は大学進学を機にまた引越しをする。その前にせめて少しでいいから実家に帰省して欲しいという両親のお願いを聞き入れることにした。最初に予定していた退寮の日よりはかなり早まってしまったが。
 それでも晴れ晴れとした表情の利桜に友人もそれ以上何も言わなかった。
 時間になると、担任が入ってきて、生花のコサージュが渡された。思い出すことがたくさんあって、両手には抱えきれないくらいいっぱいになっていた。
 
 卒業式が終わると、友人たちと集合写真を撮った。クラスメイトや、三年間一緒に共にした寮生、部活のメンバー。とにかく変わるがわる友人たちと撮った。
「利桜、こっちー」
 ルームメイトに呼ばれて行くと、郁弥たちがいた。
「ずっと引っ張りだこだね」
「利桜は、いつも人に囲まれてるよね」
 郁弥は笑いながら利桜の手を引く。隣に立った二人に、ルームメイトが写真撮るよと言い出す。日和はルームメイトの隣で、にこやかにしていた。
「僕たちのことどうしても撮りたいんだって」
 楽しげに笑う友人たちに、郁弥も穏やかに微笑んでいた。卒業式の立て看板の前で二人寄り添って、写真を撮ってもらった。
「みんなでも撮ろうよ」
 利桜が言い出せば、見守っていた二人もやってきて、近くにいた知り合いにスマートフォンを手渡した。
 今日一日だけでずいぶんとたくさんの写真がカメラロールに保存されていた。友人が撮ってくれたものはどんどんとトークアプリから送られてきていた。
「利桜、通知すごいね」
「いっぱい撮りすぎちゃったかな」
 苦笑しつつも楽しげな利桜を横目に帰路を進む。一緒にこの道を歩くのも最後だ。
「利桜いつ帰省するの」
「明後日には。荷物もほとんど送り返しちゃったし」
 部屋自体にも荷物がほとんどなく、あとはキャリーケースに入る分くらいの荷物しか残っていない。
「次、郁弥に会えるのは上京するときだから、ちょっと空いちゃうね」
「寂しい?」
「ううん。また会えるのが楽しみ」
 悪戯っぽく郁弥が聞いたのに、利桜はからっと答えてしまう。寂しくはないけれど、また会えるほうがよっぽど嬉しかった。
 楽しみは後ろにとっておけば、その分とっておきになるのだ。
「私ね、郁弥に出会えて良かったって、心の底から思ってる」
 郁弥に出会わなかったら、今二人で並んで歩いていることはないし、恋もしていなかったかもしれない。共有できる時間が愛おしくて、郁弥の落ち着いた声に、利桜は穏やかになれる。
「だから、これからもよろしくね」
 春にはまだ少し早い、けれども暖かくなっていく柔らかな日差しをたっぷりと含んだように利桜は微笑んだ。その表情に、初めて出会った日の揺るがなさも含まれていて、全部全部彼女なのだと受け入れた郁弥も、同じように柔らかに笑った。
 
 * * *
 
 短い帰省期間を終えて、慌ただしく上京した利桜は渋谷の街を歩いていた。元ルームメイトとの待ち合わせが渋谷にあるカフェだったからだ。数日前にしたメッセージのやりとりで、気になるねと話していたので、即決で決まったお店だった。
 東京の街並みは、高校の頃にいた街と比べて騒々しい。そういえば、郁弥も同じことを電話で言っていたなと思い出す。人が忙しなく街を闊歩していて、ぼんやりとすると人にぶつかってしまいそうなほど溢れていた。
 カフェまでの道のりを歩きながら、時々スマートフォンに示された地図を確認する。土地勘のない場所はなかなか覚えられなくて、これから大丈夫だろうかと不安を覚える。利桜が再びスマートフォンに視線を落としていると、人にぶつかりそうになってしまった。
 はっとして顔を上げて、とっさに謝ろうとしたところで視線が外せなくなってしまった。郁弥と同じくらいの背丈の男の人だった。
 真っ直ぐと向けられた青い瞳があんまりにも吸い込まれそうだった。じっと据えられた瞳が、とても静かだと物語っていた。その時何かが、利桜の頭の中で引っかかったけれど、それどころではなかった。ぶつかった人の顔をまじまじと見ている場合ではない。
「大丈夫か」
「こちらこそすみません」
 東京の人混みはやはり危ない。一言謝罪をして彼とすれ違う。利桜はその男の人が少し見ていたのを知らない。
「ハル大丈夫?」
「ああ、悪い真琴」
「東京って人多いね。さっきの子大丈夫かな」
 お互いに視線が合った時に、一瞬戸惑ってしまった。うまく人とすれ違えなかっただけだ。けれども、彼女の驚いたような表情に、遙も驚いたのだ。彼女のすっと真っ直ぐに線を伸ばしたような瞳に見覚えがあった。会ったことがないはずなのに、どこか知っているような不思議な感覚だった。
 隣を歩く真琴はなんとも感じていないようで、おそらく当事者同士しか気がついていないようだった。都会は人が多い。もしかしたら二度と会わないかもしれないだろう。自分も忘れてしまうかもしれないと思った。

 利桜はスマートフォンの地図を頼りにカフェにたどり着いた。まさか、大通りから路地に入ったところだとは思わず、こんなところにあるのだろうかと看板を探しながら店内に入った。
 友人は先に店内に入っていると連絡がきていたので、辺りを見回すとすぐに見つけることができた。
「早かったね」
「地図見ながら来たからなんとかなったよ」
 トレンチコートを脱いで利桜は席についた。お互いに上京することになっていたし、入学式前に会えて一安心だ。大学に入っても彼女とは同じ大学なので心配もない。
「さっき人にぶつかりそうになってね」
「利桜にしては珍しいね」
「スマホ見ててさ」
 そんな風に他愛ないことを話しながら、二人でメニューを眺める。お互いに四月から大学生になる姿が想像できなかった。その日はもうすぐそこまで来ているというのに。
 東京は桜の開花宣言がとっくにされていて、一部では少し桜の花が散り始めていたが、所々で見ることができた。今年はお花見ができなかったから、リベンジするなら来年だおうか。友人とそんな話に花を咲かせていると、連絡がひとつ入ってきた。連絡してきたのは、珍しく日和からだった。
「遠野君から連絡きたんだけど」
「珍しいね」
「うん。なんか遠野君、郁弥と一緒にいるらしくて、ご飯どうってきてる」
「じゃあ合流しようか」
 お互いにここに寄ったあとは適当にお店を見るつもりだった。
 日和からよくよく話を聞けば、まだスーツを用意していなかった郁弥の買い物に付き合っていたらしい。
「霜学の入学式ってうちと一緒の日だったよね」
「そうなんだけど、郁弥どうするつもりだったんだろう」
 そんな利桜の心配をよそに決めたらしいので良かったが、郁弥の大学生活に一抹の不安を覚えたのだった。
「そうだ、二人も渋谷いるんだって」
「すぐ合流できるね」
 利桜は待ち合わせ時間と場所を提案して送った。
「これから楽しみだね」
 友人の言葉に同意した。何が起こるかわからない。新しいことは決して怖いものだけではない。今まで知らなかった自分を知ったり、他人の一面に気がついたりする。
 新しい出会いを経て、自分たちは大人になっていくのだ。
 明るい光のその先へ行こう。
 真白いアルバムが瞬間的に色づいていく。そんな予感を抱えながら、自分の大事なものを抱えていこうと決意を新たにした利桜だった。