選択の授業は毎週木曜日の二限目。
明日学校に行けばまた休みになる木曜日の朝。教室に落ちる日差しは春よりも暖かくなっていて、時折抜けるような爽やかな風が教室に入り込む。
短い休み時間に利桜は早めに教室に入った。いつも意外と早くに移動してきて教室にいる郁弥を見つける。
「桐嶋君、早いね」
「普通でしょ。クラスからすぐだし」
郁弥はそっぽ向いてしまう。しかし、利桜はこれだけの為に早く教室に来たのではない。
「今日テキスト寮に置いてきちゃったみたいで、授業の時に見せてもらえるかな?」
寮と学校が近いとはいえ、さすがに短時間で行って戻って来られるような距離ではない。忘れたのは前回の授業で課題が出たからに他ならないのだが、選択の授業は学年全体で組まれているので、どうしても他の人に借りることができない。
そんなわけで、利桜は授業中、隣の人に見せてもらう方法しかなく、授業中に言うのは申し訳なく少し早めに授業の教室へと来たのだった。郁弥が授業開始ギリギリに教室に入ってくるタイプではなくて良かった。
「いいよ。白崎って忘れ物しなそうに見えて、案外おっちょこちょいだね」
くすりと笑った郁弥に利桜は、こんな表情もできるのかと驚く。二人の会話の頻度は多くないので、郁弥の様々な表情を知っているわけではない。お互いはあまり気がついていないが、お互いに第一印象はややとっつきにくいほうである。
郁弥のどことなく簡単には人を寄せ付けない近寄り難い雰囲気と、利桜の真っ直ぐで凛とした雰囲気は、会話をしないと中々崩れないのだ。こればかりは、お互いに持って身につけてしまったものなので、中々変えにくい性質だった。
「桐嶋君って意外と話してくれるよね。もっと寡黙な人かと思った」
利桜は席につきながら言う。郁弥にしてみれば、利桜も意外と喋るほうだ。週一回の授業、一時間もない時間だけ隣でいるだけでは、お互いを知る機会は少なかったので、新しい発見ばかりである。
「この間はあの後また練習に戻ったの?」
「うん。お昼食べてからまた泳いできけど……それがどうかしたの」
「ううん。長く引き止めちゃったから大丈夫だったかなって。もしも誰かと一緒だったなら悪いし」
「まだ気にしてたの。あの日は誰かと一緒に泳いでたわけじゃないから。白崎こそ一人で練習してオーバーワークには気をつけたほうがいいよ」
郁弥の言葉に利桜は苦笑する。決してオーバーワークしてまで練習しようとは思っていないのだが、ルーチンのように弓を引いているほうが落ち着くので、休みの日でも触るようにしていた。
「だったら桐嶋君もほどほどにしないと」
「コントロールしてるに決まってるじゃん。兄貴にも怒られるしね」
「へえ、お兄さんいるんだ」
二つ上に兄が一人いることを話すと、利桜は羨ましそうな声を上げる。
そうこうしている内に、授業のチャイムが鳴ったので、話は打ち切りになった。
郁弥は教師が教室に入ってくる前に机を利桜のほうへと寄せる。忘れたのは仕方ないし、一番後ろの席なので、目立つこともない。
「ありがとう」
「次はちゃんと持ってきなよ」
「持ってくる」
苦笑した利桜に郁弥は呆れつつも、教師の声に合わせて教科書の指定されたページをめくる。授業が始まると騒がしかった教室はすぐに静まり、教師の声だけが響く独特の空間に早変わりした。
郁弥の隣で利桜は、顔の横に垂れた邪魔な髪の毛を耳にかけて、教科書に目を落とす。朗々と話す教師の声を聞きながら、黒板へ書き込まれるとノートへと板書をしていく。時折、教科書に視線を移すと一瞬、郁弥と視線が合う。
二人で一冊の教科書を共有しているので、必然と言えばそうなのだが、背中がこそばゆい気持ちになる。利桜は久しく友人とでさえ近い距離で授業なんて受けていなかったのだと気がついた。年を重ねるといつの間にか、教室の机の配置は二席隣同士ではなく、一列ごとにゆとりのとれた配置になったのだから、きっかけがない限りは近い距離になることはない。
「……あんまり見ないでくれる?」
「桐嶋君こそ見過ぎ」
「……そんなことない」
不満げに郁弥は小さく言うと、黒板へと視線を向けてしまった。利桜と視線が合った時、郁弥はどこか遠くを見透かすような表情をしていたのだ。利桜も思わず、郁弥をじっと見つめてしまった。意味ありげな視線に胸の奥がざわつく。
利桜を通して違う場所を見つめていた。羨望でも郷愁でもなく、ただじっと捉えて、その先を伺っている。問いかけたら簡単に答えてくれるようなタイプではなさそうだと見当がつく。
利桜もそれきり、授業に集中するべく黒板へと視線を戻した。
授業終わり、利桜は机の上に広げた物を片付けながら郁弥に声掛けた。
「桐嶋君ってお昼はいつもどうしてる?」
「食堂で食べてる」
「教科書見せてくれたお礼にお昼どうかな」
「……教科書見せただけのお礼には十分すぎるんじゃないの」
郁弥のじとりとした視線に、利桜はやっぱりそう思うよね、と落胆する。
「でも他にすぐは思いつかなくて」
「……いいよ。チャイム鳴ったらそっち行くから」
利桜の落胆した様子に観念したのか、郁弥は呆れつつも申し出に承諾した。
「桐嶋君って優しいんだね。ありがとう。じゃあ、お昼休みにね!」
ぱっと明るく答えた利桜は嬉しそうに郁弥に手を振って教室を出て行く。利桜の様子に郁弥は嵌められたのだと気がつき、やや反応が遅れたのだった。
昼休みに利桜の教室を訪れた郁弥は、教室の出入り口からきょろきょろと辺りを見渡す。
教室の後方にいた利桜は、郁弥の姿を見つけると友人達の輪から離れて郁弥の元へと近づいた。
「お待たせ」
「……遅い」
「だから、お待たせって言ったじゃん……でも、ちゃんと来てくれたんだね」
「約束したんだから当たり前」
何を食べたい?と聞きながら、利桜と郁弥は昼休みが始まって賑やかな廊下を進む。
「白崎は食堂行くことあるの?」
「たまに行くよ。あとは購買行ったり、コンビニで買ってきたりとか……」
「まさか抜け出してるんじゃないよね」
昼休みに学校を抜け出しての購入は、一応校則で禁止されているのだ。
「そんなことしてないって。朝練前にコンビニ寄って学校来るんだよ。したことない?」
「流石にしたことあるよ」
「だよね」
ぶっきらぼうに言う郁弥に利桜はくすくすと笑う。
食堂についてから食券を購入する。代金は利桜がお礼ということで支払った。利桜も郁弥も同じ日替わりランチにした。ランチを無事におばちゃんから受け取り、どこに座ろうか利桜が辺りを見回すと、郁弥があっちでいいんじゃない、と食堂の窓際の席のこと指していた。
席につくと、ようやく一息つくことができた。
「いただきます」
どちらからともなく言ってから手をつけ始めた。
「お礼なんだけど日替わりじゃなくてもさ、飲み物一本でも良かったんじゃないの?」
「でも、飲み物とご飯ならご飯のほうが嬉しくない?」
食堂の日替わりランチの金額なんてたかがしれているが、ボリューム感はある。郁弥も利桜の言っていることが分からなくもない。
「でも、教科書見せるくらい大したことじゃないと思うよ。白崎、あんまり人にほいほいモノとかあげないほうがいい」
「流石に人は選んでるよ。桐嶋君は心配しすぎ」
「それならいいんだけど」
学食のボリュームは割と多く、男子向けの量が設定されている。郁弥にとってはちょうどいいくらいのボリュームで満足できた。
「桐嶋君、まだお腹に余裕ある?」
「どうしたの」
「最後の唐揚げがお腹いっぱいで入らなくて……食べる?」
苦笑しながら言う利桜に郁弥は瞳をぱちくりとさせた。
「もらう」
利桜は順調に食べ進めていたようにも思えたけれど、普段食べる量よりは多かったらしい。郁弥は利桜のほうにあるお皿から唐揚げを一つもらう。
「悔しい、あと一個だったのに」
「そこ悔しがるところ?」
「だって、折角自分で頼んだのにもったいない」
「まあ、でも僕が食べるからいいでしょ。これでお皿も空っぽ」
「ありがとう。桐嶋君とお昼に来れて良かった。うちの学食美味しいんだけど、ものによってボリュームが読めなくて困ってたんだ」
「……学食くらいならたまに付き合うよ」
「じゃあ、たまにお誘いするね」
にこにこと笑う利桜はスマホを制服のポケットから取り出し、時間を確認する。
「大変、時間結構やばいよ!」
食器を返却口に急いで返すと、食堂のおばちゃんの声に生返事をしながら、利桜と郁弥は廊下を走り出す。食堂からお互いの教室までは校舎を挟むうえに、階段を上らなければならない。
「食べたばっかりなのに走るのきつい」
「だって、このままチャイム鳴っちゃうほうがまずいでしょ」
食べたばかりに走るのはあまりいいとは言えない。郁弥一人ならば、もう少し速度を上げても良かったが、それでは利桜の速度に合わなくなってしまう。
最後の階段を駆け上がると、お互いに可笑しそうに顔を見合わせた。廊下を全力で走ったのはいつぶりだろうか。流石にお互いに運動部ということもあり、時間に余裕もできたので、教室までの廊下は歩くことになった。
「次は絶対に走らないからね」
郁弥の言葉に、利桜は頷く。
「うん。食堂からはちょっと遠かった」
「あのさ」
利桜の教室のほうが手前なので、教室に入ろうとした矢先。郁弥の真面目な声に、まじまじと見つめ合う形になった。
「連絡先交換しない」
「うん」
お互いにスマートフォンを取り出し、連絡先を交換する。
「これなら、いつでもお昼の約束できるから連絡して」
「そうだよね。桐嶋君もいつでも連絡していいからね」
「たまにならいいよ」
「ひどい。でも、桐嶋君優しいからちゃんと返信してくれそう」
楽しそうに肩を揺らす利桜に、郁弥は何も言えなくなってしまう。利桜と話すといつの間にか彼女のペースに巻き込まれてしまうのだ。けれども、利桜の楽しそうな様子を見る度に、揺らがない瞳よりも温かい表情でほっとする。
今日のお昼も、終始楽しそうに話す姿を見て、少しだけ近くなれた気がした。教室に入る間際、利桜とまた一週間話すことがないかもしれないと思うと、自然と声が出ていた。
「チャイム鳴りそうだし、今度こそ教室入らないと間に合わなくなるよ」
「うん。桐嶋君」
「なに?」
「またね」
手をひらりと軽く上げて教室に入っていく利桜に、郁弥はチャイムがなり始めるまで立ち尽くしてしまった。
利桜が教室へ戻る間際、ほんの少しだけ見えた瞬間を郁弥は見逃さなかった。ちらりと移り変わる横顔は、人を寄せ付けにくい第一印象に変化していく。一見すると、とっつきにくそうなその表情と、お昼休みに見せていた表情は異なっている。
きっと、どちらも彼女には変わりないけれど、昼休みに見せる楽しそうに笑う表情が郁弥の脳裏に焼き付いて離れる気がしなかった。