その心は

「いーくや」
「なんだ……日和か」
 放送部の校内放送からスタートした文化祭は、あちこちで賑やかな声が響いている。誰も彼もが浮き足たったように校内を歩いていた。
 クラスの当番まですることのない郁弥が廊下を歩いていると、日和が後から声をかけてきた。
「僕もまだ暇なんだけどさ、どっかいかない」
「いいけど、どこに行くわけ」
「白崎さんところとか。白崎さんのクラスって何するのか郁弥知ってる?」
 日和の言葉に郁弥は眉をひそめた。
「聞いてるけど、白崎クラスにいないと思うよ。弓道部で忙しいって言ってた」
「それなら弓道部行く? 郁弥この間何かもらってたよね」
 寮の部屋で出しっ放しにしていた割引券を見ていたらしい。たしか利桜の当番は初日だったはずだ。利桜とのやりとりをスマートフォンで再度確認をすると、やはり今日で間違いなかった。
「なんで日和知ってるの」
「だって、郁弥部屋で何度も見てただろ」
 日和に言われてつい、振り向いた郁弥はどうにも隠せずに破顔した。部屋でしょっちゅう見返していたつもりもないし、机に出したままだったので、たまに視界に入りこんでいる程度だったのだ。
「確か部活関連は特別棟だったよね。白崎さん何してるのかな」
「さあ。やけに濁してたけど」
「うーん、なんか郁弥に見られたくないとかあるのかな」
 郁弥の心情を知ってか知らずか日和は話しているが、どうせ特別棟の弓道部に割り当てられた部屋へ行けば分かるのだ。
 特別棟は、普通教室が入っている普通棟とは違い、理科室や音楽室、視聴覚室など様々な用途で使用する部屋が入っている。普通棟とは真ん中にある渡り廊下を通ることで行き来することが可能だ。
 郁弥も日和も、慣れた足取りで渡り廊下を進んでいくと、賑やかな廊下の通りに差し掛かる。
「二名様ですね! お嬢様とおぼっちゃまのお一人様ずつご案内です」
 教室の前で女子生徒と男子生徒を案内する姿を見た、郁弥と日和はお互いに顔を見合わせた。見間違いでなければ、振袖袴姿の彼女は確かに利桜なのだが、いつにもなく良く通る声で案内をしている。
「次の方……って、桐嶋君……えっと、本当に来たんだね」
「券をくれたのは白崎のほうでしょ。……案内役って、あんまり白崎っぽくないけど」
 この間渋っていた理由は先ほどの案内で分かった郁弥だったが、自分も同じ案内をされるのかと思うと微妙な心境である。
「これは部長の押しに負けてというか。……桐嶋君、隣にいるのは?」
「ああ、同じ水泳部で僕のルームメイトの日和」
「どうも、僕は遠野日和。よろしくね」
「よろしく」
 それから利桜は少し待っててねと言って、教室の中に入っていく。席を確認してきたのか、中へと案内をしてくれた。
「ねえ、さっきのやってくれないの」
 郁弥の声に前を歩く利桜の肩が跳ねる。ゆっくりと振り返った利桜は、少し困ったようにはにかんだ。
「……桐嶋君は知り合いだから、ちょっとやりにくいじゃない」
 郁弥に向けられた視線は、まっすぐではなく下へと落ちている。メニューを渡してその場からそそくさと立ち去ろうとする利桜を郁弥は呼び止める。
「当番、頑張ってね」
「……ありがとう」
 ようやく笑った利桜は、廊下へと出ていく。後ろ姿だけは、いつもの背筋の伸びた利桜の姿で、彼女なりに一生懸命に取り組んでいるのだろうと検討くらいは郁弥でもついた。
「郁弥、いつの間にあんなに仲良くなってたんだ」
「別に普通じゃない」
 日和の言葉に郁弥はそっけなく答える。たまたま同じ授業を選択して、偶然にも隣の席で一緒に授業を受ける。特別なことではない話だ。
 きっかけは利桜が話し掛けてきたところから始まっている。それでも、お互いに仲良くなったと言われれば、自分達で推し量って「仲良しだね」と確かめるものでもない。
 日和はさほど気にしていないのか、メニューに視線を移してどれを注文しようかと思案している。郁弥も同じようにメニューをのぞき込む。
 和カフェと謳っているだけあって、抹茶のロールケーキなどがあるが学校の文化祭。目を引くようなものはあまりない。
「郁弥って抹茶大丈夫だったけ?」
「食べれるよ。折角だから頼もうかな」
 郁弥は日和と同じものを注文した。注文をしたものが出てくるまでの間、他愛ない会話が続く。さほど待つこともなく出てきたものを食べて、教室を出ようとしたところで利桜が二人を追いかけてきた。
「二人とも来てくれてありがとう」
「券もらったのに無駄にできないからね」
「おいしかったよ」
「それならいいんだけど」
 手を振って見送ってくれた利桜に、郁弥も日和も同じように手を振って別れた。普通棟へ戻る道すがら、日和は気になっていたことを尋ねた。
「白崎さん、袴姿似合ってたね。郁弥、言えばよかったのに」
「僕、一言もそんなこと口にしてないんだけど」
 残念そうに言う日和に、郁弥は利桜の姿を思い返す。普段は見慣れない振袖袴姿だったが確かに似合っていた。日和にそこまで気づかれているとは思いもしない。
 言うタイミングすらなかったのだ。それ以前に、出会った瞬間の驚きのほうが大きすぎて、忘れていたともいうが。
「ふうん。言ったら喜ぶんじゃない?」
 そんな日和の言葉を少しだけ頭の片隅の留めて、お互いのクラスへ戻るべく別れた。


 文化祭の二日目。利桜の目の前で友人が頭を下げていた。
「ほんとにごめん!」
「大丈夫だよ。シフト忘れてたんでしょ。私は適当に回るからいいって」
 なおもごめんと続ける友人をシフトがある部活のほうへと向かわせた。利桜はクラスのシフトも昨日のうちに済ませてしまっているので、文化祭が終わるまで完全にフリータイムだった。
 普通教室の並ぶ校舎は、どこもかしこも賑やかな声がしている。文化祭二日目の今日は、外部からも人が来るので朝から昨日以上の盛り上がりを見せていた。
 同じ弓道部の誰かと回るか、それともルームメイトはどうだったか思い返しながら廊下に出ると、隣の教室の郁弥が出てきたところだった。
「桐嶋君」
 利桜が声を掛けると郁弥はどうしたのと聞いてくる。
「今って、時間空いてるかな?」
「空いてるよ」
「友達と校内を回ろうとしてたんだけど、急にシフトでいなくなっちゃってね。もし、桐嶋君が嫌じゃなければ一緒にどうかなって……」
 控えめに言い出す利桜は郁弥の様子をうかがっている。
「いいよ、付き合う」
「遠野君は一緒じゃないの」
「日和は今日、クラスの当番があるみたい。行きたいところあるの?」
「そんなに希望はないんだけど、一組の友達のとこに行く約束してて……」
 お互いに、三年一組の教室を目指して歩き出す。校内で模擬店をしているクラスも多いが、ほとんどが外に面した場所なので、校舎内でしているものは別のものになる。郁弥のクラスは模擬店のほかに展示をしているのみなので、比較的静かだ。
 校舎の奥にある一組にたどり着くと、利桜は友人に手を振る。利桜の名を呼んだ女子生徒が離していた友人なのだろう。
「利桜来てくれたんだ」
「行くって約束したからね」
「でも、男子と来るなんて珍しいね」
 そうなの、と簡単に利桜は郁弥に説明してくれたことを話す。友人とそれほど長く話すこともせずに教室に入ろうとすると彼女に言われる。
「うちのクラス、ペアがわかるように手を繋いで回ってもらってるから、二人も手を繋いでクイズに答えていってね」
「聞いてないんだけど」
「利桜、嫌がりそうだからさ」
 ちゃんと言ってよと少し不服そうな利桜は、最終的に仕方なさそうに笑った。
郁弥は教室の扉に張り付けられた段ボールに書かれたルールを読み込む。全部で五つあるクイズに答えていけばいいもので、ペアで協力して答えるというシンプルなものだった。ただ一つ、手を繋いだまま回ることを除けば。
 つまり、これは女子同士でも男子同士でも、はたまた男女ペアでも例外はないようで、確かに教室の中でクイズに挑戦する人は手を繋いでいる。
 なぜ手を繋いで回るのかは知らないが、ルールなので利桜の手を取ると目を見開いた視線がぶつかる。
「ルールに書いてあるから。中、入るでしょ」
「入るけど、桐嶋君は嫌じゃないのかなとか……」
「僕は平気。教室の中だけだから、少し我慢してて」
 言うなり郁弥は利桜の手を引いて教室の中へと踏み込んでいく。利桜も遅れないように入ると、教室内はわかりやすく回る順番が明記してあった。
「一から順番に行くだけだね」
 二人で最初の問題に取り掛かる。机の上に並んだマッチ棒。問題は二本のマッチ棒を動かして正しい式を答えるというものだ。
「クイズっていうか、なぞなぞだね」
「僕こういうのあんまりやったことないなあ」
 二人で考えていると、利桜の片手が机の上に伸びた。
「動かしたほうがわかりそうじゃない?」
 何か閃いたのか、利桜は何度か並べられたマッチ棒を動かす。何度か動かしていると、利桜は嬉しそうに声をあげた。
「わかった」
 郁弥も手を伸ばそうとしたところで、利桜が先に二本のマッチ棒を迷いなく動かした。
「これで正解じゃない?」
 郁弥のほうを振り向いた利桜は、無邪気な笑顔だった。
 出来上がった正しい式に満足そうな様子に郁弥もつられて笑った。
 一つ目の問題をクリアすると、お互いに飴玉をもらった。
「桐嶋君は何味もらったの?」
「いちごみるく味。白崎にあげる」
 郁弥は利桜のブレザーのポケットに飴を入れる。
「甘いのだめなの?」
「僕があげたいだけ」
「じゃあ、もらっておくね」
 それから二問目、三問目とクリアしていき、最後の五問目の問題になった。教室の出入り口付近に設置された机にはプリントが一枚と、ペンが一本置いてあるだけ。
 プリントには『愛は真心で、恋は?』とだけ書かれている。なぞなぞらしい。
「どういうこと?」
 隣の利桜は首をかしげている。一番最初にやったマッチ棒クイズなど瞬発的なものは利桜のほうが得意なようだが、クロスワードなどの問題は郁弥が得意なのがさっきわかったことだった。
「真心……わかったかも」
「え?」
 郁弥はペンのキャップを外すと、繋がれていない右手でプリントに答えを記入していく。記入された文字を利桜はそのまま声にして読んだ。
「下心?」
「愛は真ん中に心があるけど、恋は下に心があるでしょ」
 プリントされた文字を指しながら答える。
「なるほど。桐嶋君すごいね」
 教室の出口でプリントを出すと、正解ですと言われて再びお菓子を渡された。最後は、少しいいものにしようとしたのか、クッキーを渡された。
「面白かったね」
「そうだね」
「桐嶋君はどこか行きたいところある?」
「白崎が行きたいところでいいよ」
「それじゃあ、だめだよ。さっきは私がリクエストしたから、今度は桐嶋君の番だよ」
 利桜の言葉に観念した郁弥は、お腹が減ったと言って、模擬店の立ち並ぶ体育館の方角へと向かうことになった。
 昨日に比べて校舎内は人の行き交う量が多い。利桜も郁弥も、人を避けたりしながら歩いていく。郁弥は模擬店の並ぶ場所まで歩いていく途中、人の視線が気になるなと感じたが隣を歩く利桜はそうでもない様子だった。
 ようやく体育館側に伸びる渡り廊下に辿りつくといくつか模擬店が出ている。利桜のクラスの模擬店もあるようだ。
「私もお腹減ってきたかも」
「匂いがするとお腹減ってくるよね」
 焼きそばを売っている模擬店に並ぶ。一番前までいくと日和がいたので、そこで初めて郁弥はここが日和のクラスの模擬店だったことを思い出す。
「郁弥、白崎さんと回ってたんだ。いくつ買う?」
「二つ。教室出たところで会ったんだよ」
「それにしても、やっぱり二人は仲良しだね」
 日和はにっこりと郁弥に言う。妙に意図的に言ってくるなと郁弥が適当に受け流そうとしたところで気がついた。三年一組の教室を出てからここまで来る間、利桜の手を繋ぎっぱなしだったことに。
 隣の利桜の顔を見れば、彼女は大分前から気がついていたのか、あまり視線を合わせようとしてくれない。我慢しててと言ったのは自分だったにも関わらず、特に離そうとも考えていなかったのだ。
「ごめん」
「気にしてないよ。一組のやつのままだったね」
 お互いに焼きそばの入ったパックを受け取りながら、繋いでいた手を離す。座る場所もないので、近くの壁に寄りかかって食べ始めた。
 嫌だったら言ってくれてよかったのに、とは利桜には言えなかった。嫌だったとしても、利桜は言わないだろう。言いたいことを全部はっきりと言うタイプではない。郁弥も彼女と同じように、全部を口に出すほうではなかった。
「文化祭って、結構あっという間だよね」
 あんなに準備したのにねと言いながら、利桜は周りの賑やかそうな様子を穏やかに見つめていた。それはどこか羨むように見えるし、自分だけは違うと言っているようにも見えた。
「少し賑やかなだけだよ。すぐに元通りになる」
「桐嶋君は文化祭苦手?」
「そんなに得意じゃない。白崎はイベント好きなの」
「みんなで何かするのはわくわくするから好きだよ。急だったけど、一緒に回ることもできたしね」
 利桜の言葉に郁弥も納得する。急だったとはいえ、利桜と回るのは嫌ではなく、いつもより楽しかった。
「僕も白崎と回れてよかった」
 ちらりと横を見れば、利桜と視線が合う。にこりと目尻を下げた利桜に、郁弥は今なら言えると思った。他の人もほとんどいない校舎の壁際。利桜にだけ聞こえればいい。
「あのさ、昨日の袴姿似合ってた」
 郁弥の脈絡もなく告げた言葉に、利桜の反応は一拍遅れる。
「……そう言ってもらえると嬉しいなあ。褒められると少し恥ずかしいね」
 照れ笑いする利桜に、引かれなくてよかったと安堵した。
「僕だって誰にでも言うわけじゃないから……」
「うん。ありがとう、桐嶋君」
 わかってるよと言いたげな利桜の声は、いつになく柔らかく聞こえた。彼女の必要以上にあれこれ言わないところをいいなと思ったのはこの時が初めてだった。
 それから、二人はあちこちの教室を見て回り、閉会の時間になるとお互いの教室に戻ることになった。
「結局ずっと付き合ってもらっちゃったね」
「それは僕も同じじゃない?」
「じゃあ、お互いさまってことかな」
 少しずつ片付けが始まった廊下を歩いていく。
 廊下の窓から見える外も、賑やかさを少しずつ無くしていくように、テントも解体されていた。
「最後にお願い、聞いてもらっていい?」
「お願い?」
「一緒に写真撮ろう」
「簡単なお願いだね」
 利桜はスマートフォンのカメラを起動させた。楽しいことは少しだけでいいから写真に納めているらしい。
「文化祭が終わろうとしている今でいいの?」
 郁弥が利桜の横に並び、少しだけしゃがんで背丈を合わせる。肩と肩が触れそうで触れない距離を保ったまま、利桜は腕を伸ばして画面に入りきるようにした。
「今だからいいんだよ」
 郁弥の問いかけに利桜はくすくすしながら、カメラのシャッターボタンを押す。二人の背後には、片付けを始めたばかりの教室が少しだけ映り込んでいる。
「桐嶋君との思い出だね」
 スマートフォンの画面を操作しながら利桜が言うと、郁弥のスマートフォンが通知を知らせる音が鳴る。
「送っておいたからね」
「ありがとう」
 にこりと嬉しそうな利桜と、はにかむ郁弥が隣同士で写る姿。思い出だとはしゃぐ利桜が、いつも見る姿よりも少しだけ幼く見えた。それが郁弥の隣だけだと知るのは、もう少し先のことだった。