映る先は

 文化祭も過ぎ、すっかり衣替えした制服が見慣れた頃には、京都は猛烈な暑さに見舞われていた。潮音崎高校は幸いにも設備の整った学校なので、教室はクーラーが効いていて涼しい。
 しかし、一歩廊下に出れば地獄のようにむわっとした空気が出迎える。
 この学校で三年目の京都での生活を迎える利桜だが、いまだにこの土地の暑さには慣れない。それどころか年々最高気温が上がっているような気がするのは、利桜の気のせいではないだろう。
 今朝、寮の部屋でつけていたテレビからは、天気予報を伝えるお姉さんが熱中症対策を十分にしてくださいと、注意喚起を促していた。
 授業の合間に自販機で買った麦茶を飲んでいると、前の席の友人が振り向いた。また前回の課題をしていなかったのだろうかと、いらぬ心配をしていると友人の唐突な言葉に利桜はぴたりと止まる。
「利桜って、桐嶋君と付き合っとるの?」
 友人は純粋に疑問に思っている様子で、どうなのと聞いてくる。利桜はペットボトルのキャップを閉めながら、応答する。
「桐嶋君とは、ただの友達だよ。急にどうしたの?」
「文化祭の時、仲良くしてはったから、実際どうなのか聞いてみただけ」
「文化祭の時は一緒にいてくれただけ。桐嶋君が優しいからだよ」
「じゃあ、手を繋いでたのは?」
「それは、一組のやつがそういうのだったから」
 声がだんだんと尻すぼみになっていく。友人の顔を見ていられず、俯いた視界には自分の手のひらと、机の板目だけ。
 郁弥の優しさに甘えているだけだと思ってみるものの、繋いだ手のひらの感触はすぐにでも思い出せるほどで、郁弥の顔に似合わず骨張った男の子らしい手は利桜の手のひらを簡単に包み込んでみせるほどに大きかった。
「利桜?」
「……あ、ごめん」
「桐嶋君のこと好きになったら教えてね。応援してあげる」
「そんなんじゃないって言ってるのに」
 楽しそうに笑う友人に弁解するものの、利桜の言い分に貸す耳もない様子だった。
 結局、次の授業のチャイムが鳴るまでの間、二人の攻防は続いたのだった。


 一日の授業がすべて終わり、まだまだ太陽が外を照りつけるなか、利桜は部活のために弓道場へと向かう。普通教室の並ぶ校舎から校内の端に建てられた弓道場は正直遠い。毎朝の朝練は裏門から向かうので近いが、放課後はどうしても中央玄関から出て向かうことになるので遠い。
 掃除当番が休みだったので、部活へ向かう時間も必然と早くなる。あまり人のいない部室に入ると、すでに来ている部員たちがそれぞれ袴姿に着替えていた。後輩たちに挨拶をされながら三年生が使う奥のロッカーに進むと、部長がやたらに手を振っていた。
「どうしたの」
 利桜が近づくと部長が抱きついてきたので、引っ剥がしながら聞くとすでに嬉しそうにした顔をさらに溶かすばかりの勢いでにこにことしている。
「来週末、練習試合だって」
「そうなんだ」
「利桜は相変わらず、試合に興味ないんやな」
「興味なくはないけど、二年や一年のモチベーションが心配」
 インターハイ前に練習試合とはいえ、試合の空気に触れられるのはかなり貴重だ。大会前にワンクッションあるのは、有り難いことだろう。
「それは負けると思ってはるの」
「ううん、勝つよ。でも、インターハイの空気は全然別物だから。いらない心配かもしれないけどね」
 利桜は苦笑する。全国大会に何度出ようとも、緊張する時はするし、よい弓を引ける時は、時も場所も関係ない。ただその時にきちんと結果が出ただけなのだ。
「部長から上手く言っておいてよ。私はそういうの得意じゃないからさ」
「そう? 利桜は結構、得意そうに見えるよ」
 褒めても何もしないからねと、軽口を言い合いながら準備を終えて中へと入る。
「利桜はさ、団体戦好き?」
 弓の準備をしながら問う部長の声はやや硬い。
 隣同士で準備をしているので、お互いに弓に視線を落としているので表情は読み取れない。ただ、彼女の問いかけに利桜は静かに「うん」と答えた。
「利桜変わったね」
「そうかな」
「一年の頃なら、頷いてなかったよ」
 利桜が団体戦に出るようになったのは、潮音崎高校に入学してからだ。それまではずっと個人戦を主軸にしていたし、中学の頃も団体戦にはあまり興味はなかった。高校に入って全体のレベルも上がったし、練習環境に文句はなかった。大会にも出させてもらえた。しかし、それ以上に利桜は周りに押し出されるように団体戦へと出ることになった。
 今でも、個人戦のほうが自分には向いていると思う。それでも、団体戦に出るための気持ちを作れるようになったのは信頼できる仲間がいるからだ。一緒に横に並んで、次々に矢を放つ。狙うは矢の向かう先の的。
 一人だけで、自分の前にあるずっと先の的を狙うが、自分の放つ射は自分だけのものではない。仲間のためのものでもある。
 三年になってやっと理解し始めたことではあったが、仲間内であれば誰もがその変化に気がついているだろう。部長の問いかけは利桜の意思確認だけではない。全体の意識変化の問いかけでもある。
「私はここで弓を引くのが好きだよ」
 利桜の言葉に部長ははっとして隣を見やる。
 先に準備を終えた利桜は弦を張り終えて一度弓を立てかける。続々と入ってくる部員たちの邪魔にならないように移動した。利桜の一連の動きに気がついたのか、部長もその後に同じように端へとよける。
 大方の部員がそろった時、ようやく潮音崎高校弓道部は部活の開始となった。
 部長から来週末の練習試合の話があり、顧問やコーチなどの指導陣が来てそれぞれが練習を始めることとなった。
 的を狙う利桜は、いつも静かだ。道場に入ると必然的に言葉数が減るが、利桜は特に顕著で人を寄せ付けたがらない。空気がずっと言うのだ。誰も入ってはならぬ、超えてはならぬと。
動作に入ると、まっすぐに立った利桜の空気はさらに変化する。
じりじりと暑いにもかかわらず、涼しい顔で美しい会の型をとる。ぐっと開かれた弓。視線は真っ直ぐに的を見ている。視界に的は映っているが、その実どこまで本当に視界にいれているのかは、客観的に見ているのでは推し量ることはできない。
瞬く間に矢は的へと飛んでいく。
静かなまま、ただ正しく美しい動作は、端で控えている他の部員の目を引く。
自分の番が終わるとようやく表情を緩めるので、ここでようやく誰かが声をかけるとふっと柔らかく微笑んだ。
 休憩中、後輩と話していると文化祭の話になり、昼間の既視感に襲われる。
「利桜先輩、彼氏いたんですか」
「いない、いない」
 ぶんぶんと両手を振って否定をすると、数人の後輩に囲まれてしまう。どうやら、文化祭の頃から誤解を招いているらしい。
「私、文化祭の時見ましたよ。水泳部の人ですよね」
 それだけで、誰のことを指しているか理解したので、いつの間にか周りには誤解されるように見えていたのだ。
「……桐嶋君とはそんなんじゃないから。ほら、次始まるよ」
 後輩を送り出し、自分の手を握りしめた。
 否定するたびに、自分が口にしていることがどんどんとわからなくなる。違うのだとしたら、それは友人の枠に収めておける程度なのだろうか。問いかけるたびに、数ヶ月のやりとりを思い出してはふっつりと消えてしまう。手探りで草むらを掻き分け、どこかで開ける視界を探している。
 弓道と似ているような感覚もあるけれど、全く異なるし、弓道みたいに突き詰めることができるわけがないことは頭の中で理解していた。
「利桜、休憩終わるよ?」
 友人に不思議そうに見られた利桜は、今行くと言って再び弓を握りしめた。
 部活が終わると空はすっかり藍色になっていた。太陽が沈んだとはいえ、かなり蒸し暑い。手で仰いでみても効果がないほどである。首に張り付く髪の毛が恨めしいほどだ。寮の冷蔵庫に飲み物を切らしていることを思い出した利桜は、自販機に寄りつつ帰路へと向かう。弓道部で寮生の生徒はあまり多くはない。
「白崎?」
 利桜がスマートフォンに来ていたメッセージに気をとられていると、聞き慣れた声が彼女を呼ぶ。顔を上げた利桜は一瞬声を出せなかった。
「……お疲れさま。桐嶋君は部活終わり?」
「うん。そっちも練習だよね」
 信号待ちをしながら郁弥の隣へ行くと、ふわっと塩素の匂いが漂った。風もない暑い日なのに。中学の頃までは体育にプールの授業があったので、夏の体育のあとの気怠い授業はいつも、塩素の匂いがしていたのを思い出す。
 夏の日を背負っているみたいだ。
「どうしたの。白崎、上の空って感じする」
「そうかな。暑いせいかも」
 困った顔をした利桜に、郁弥は不思議そうに顔をのぞき込んでくる。いつもよりも、少しだけ近づいた顔に利桜は息を呑んだ。じっと見つめてくる郁弥は瞬き一つせず、大丈夫なのと聞いてくる。それに頷いてみせれば、そっかと目尻を下げた郁弥にほっとした。
「今日はいつもよりずっと暑い気がして。さっき、飲み物買ったの」
「水分はちゃんと摂ったほうがいいよね。僕、日和に言われてさ」
「大会も近いから体調管理しないとだよね」
 信号を渡っていくと、慣れた住宅街にさしかかる。ゆっくり歩いていくと、男子寮と女子寮の分かれ道にたどり着く。お互いに何も言わずに立ち止まると、顔を見合わせた。街灯の明かりだけは住宅街を照らすには心許なく、お互いの表情は暗くて見えにくい。
「この間、写真撮ったけどさ。もっと白崎と撮っておけば良かったかな」
「じゃあ、今撮る?」
「暗いけど撮れるの?」
「モード変えれば大丈夫だよ」
 利桜がスマートフォンのカメラを起動させる。郁弥も少し近づくと、先にシャッター音が鳴る。郁弥が目を丸くしていると、スマートフォンから顔を外した利桜がくすりと笑う。
「びっくりした?」
「当たり前だろ」
「桐嶋君のこと上手に撮れたよ」
 画面を見せた利桜に郁弥も画面をのぞき込む。おもむろに郁弥もスマートフォンのカメラを起動させて内側カメラにする。
「白崎、もっとこっち」
 どこにでもあるような住宅街。小さな明かりがついているだけの街灯が、二人の顔を照らす。蝉の鳴く声もどこか遠くて、お互いの声がよく通る。
 カシャリと無機質に鳴るシャッター音に先に吹き出したのは利桜のほうだった。声を上げて笑う利桜の姿を見ながら、再びシャッター音が鳴る。
「今、撮ったでしょ?」
「僕のことも撮ったんだから、お互い様だよ」
 それから写真を送りあう。ピロンと鳴る通知音のたびに撮りあった写真を保存していく。
「結構、時間経ってるんだね」
「早くしないと食堂閉まるかも」
 二人で写真を撮っていると時間があっという間に過ぎていく。
 時間が遅くなりすぎると、食堂の夕飯を食べ損ねてしまう可能性が出てきてしまう。実際は注意をされるくらいで済むが、言われないことに超したことはない。
 寮への分岐路で手を振って別れた。


 郁弥が寮の自室に帰ると、日和が課題に取りかかっていたらしく机に向かっていた。
「郁弥遅かったね」
 一足先に学校を出た日和はだいぶ前に帰ってきていたが、それに比べて郁弥が帰宅したのは、いつも帰ってくるには時間がかかり過ぎている。
「途中で白崎に会ったんだ」
「部活してるもんね。それで、白崎さんと話し込んでいたんだ」
「日和、そこまでわかるならいいだろ」
「ずいぶん話してたんじゃない」
「そうかも。白崎とは話しやすい」
 郁弥がバッグを置いてから、日和のほうに振り返ると「ふうん」と反応を伺う姿にそれ以上は口を噤む。
「そういえば、文化祭の時の見てる人多いみたいだよ」
「どういうこと」
「そのままの意味だよ。白崎さん本人が気にしてるかはわからないけど、割と目立つから」
 郁弥からすればすごく目立つように感じないのは、利桜が目立つ素振りがないからだろう。日和がどの視点から話しているのかは大体想像がつく。それでも郁弥は他人からの客観的な意見よりも、自分が実際に接している時の姿に慣れている。
「白崎も僕もそんなんじゃないけどね」
 言いつつも、隣にいる彼女が心地いいと思っているのも事実だ。気を許しやすいのだろうと理解はしていても、利桜も同じように感じていることはわからない。
 再び開いたカメラロールに映る姿に、数ヶ月分の距離が詰まっている。今は、この関係が続けばいい。そう思っていられるのがいつまでかは、郁弥にはまだ辿りつかない答えの先だった。