落ちた声

「利桜、ランニング?」
「うん、ちょっと走ってくる」
 部屋でランニングウェアに着替えた利桜に、ルームメイトが声をかける。夏休みに入ったこともあり、生活サイクルもいつもと少し異なっている。朝練がない代わりに、利桜は朝食前に走りに行っていた。
「朝ご飯までには戻るね」
「了解。待ってるね」
 女子寮の玄関を出て、簡単に準備運動とアップを済ませてから軽やかに走り出す。朝の閑静な住宅街は、たまに通り過ぎる近所の人がいるくらいだ。
 元々、体力づくりの一環としてランニングを取り入れていたが、休みの日にすることが多く、夏休みならば自分で調整できる時間も多いので日課にしていた。七月の中盤から休みになり、インターハイまではもう数える程度しか時間は残されていない。
 毎日茹だるような酷暑が続いている。それは今日も例外ではなく、日の出になったばかりだというのに、すでに肌がじっとりと熱い。
 ポケットの中に入れた数枚の百円玉がちゃりちゃりと鳴りながら揺れる。時折、時間を確認しながら走っていくと、住宅街の中にぽっかりと公園が現れる。距離的にはコンビニのある大通りまで出ても良かったが、そこまで行くと今度は寮まで戻るのが億劫になってしまう。
 その為、公園に寄って小休憩をするのが丁度良かった。公園にある自販機でスポーツドリンクを買う。一昨年も去年も暑かったが、今年は更に暑い。以前なら、そのまま折り返しから真っ直ぐに寮へと戻っていた道も、友人達に危ないと言われ、休憩するようになった。五分ほど水分を摂ったりストレッチをして、再び走り始める。
 アスファルトを蹴る度に跳ね返る力を利用して走っていく。真っ直ぐ進んでいき、元の道を戻っていくと再び寮の門が見えてきた。ここまで戻ってくれば、誰かに心配されることもない。
 玄関を入って部屋へ戻ると、ルームメイトはすでに朝食へ向かう準備が済んでいた。
「おかえりなさい」
「ただいま。ちょっと用意してくるね」
 利桜は急いでシャワーへ向かう。十分程度で済まして戻ると、待たせてしまっているルームメイトは何一つ文句を言わない。
「利桜、髪の毛乾かさないの?」
「だって乾かしてたら、時間切羽詰まっちゃうけど」
「でも風邪引いちゃうでしょ」
 利桜も少し考えてから了承し、ドライヤーを起動させた。ボオオと大きな音をたてるのも束の間。ルームメイトは聞こえているのかどうかわからないテレビを点けたまま、じっと待ってくれた。
「お待たせ」
「じゃあ行こうか」
 ようやく朝食を食べながら他愛ない言葉を交わす。今日のお互いの予定だとか、昨日一緒に見たドラマの感想の続きだとか。
「もうすぐインターハイだね」
 ルームメイトがぽつりと言った一言に、利桜は茶碗に向けていた視線を上げた。
「うん。私は八月入ったらすぐだけど水泳部はいつからだっけ?」
「こっちはお盆明けだからその間はしばらくいないよ」
「私も大会の間は部屋いないし、入れ替わりみたいになっちゃうね」
 ルームメイトは水泳部のマネージャーをしているので、大会にも同行していくそうだ。
 利桜は選手の立場なので、マネージャーの詳しい業務内容までは把握していない。それでも彼女が帯同していくことには意味があるし、彼女の受け持っている仕事の役割も意味を持っていることをよく知っている。
「頑張ってね」
「それは利桜もだよ」
「うん。みんなと頑張ってくる」
 晴れ晴れとした顔で言う利桜にルームメイトはそれ以上、何も言わなかった。利桜の一言が、潮音崎高校に入学して弓道部で過ごして変わったことを物語っていたからだ。
 朝食を摂り終わった後は、お互いに部活があるということもあり、一緒になって寮を出て学校へ向かう。
 徒歩十五分程度の距離にある学校までの道のりが暑くて仕方ない。アスファルトに燦々と降り注ぐ太陽光は、利桜がランニングをしていた時よりもずっと暑い。
 ハンドタオルを団扇代わりにしてみるものの全く役に立たず、鞄から仕方なく扇子を取り出す。
 扇子は一年生の時に京都へ来たばかりで、ルームメイトと浮かれて買ったものだ。淡い桃色に桜の花びらが所狭しと描かれている。絵柄の上には細かいラメが施されており、時折太陽の光に反射してきらきらと屈折を放つ。
「今日、何時まで?」
 ルームメイトに聞かれた利桜は、十五時までと答える。
「でも、少しだけ引いてくかも。あと、顧問と話もあるし」
「進路の話?」
「うん。親とも話さないとだから」
 初夏になる前から複数の大学から推薦がきていたとはいえ、すでに夏休みに入っている。絞り込んで決めなければいけない。
 ましてや、利桜はこれからインターハイに出場する。注目度も変わってくる。
 想像もつかないこの先の為にも、自分で再び道を決める岐路にやってきていた。
「帰るの遅かったら、先に夕飯食べてていいから」
「わかった」
 弓道場のほうがプールよりも手前にあるので、お互いの部活へと別れた。


 部活終わりに立ち寄った職員室から出たところで利桜はぼんやりと窓から見える景色を眺めた。顧問と話をしていたあたりから遠雷の音を聞いていたが、ついに激しい雨が降り出していた。今朝から高い入道雲が出ていたので、いつ夕立がきても可笑しくなかった。
 あいにく傘を持っていないので、雨足が弱まるまでは外に出ることができない。もちろん、弓道場で時間を潰すこともできない。夕方の時間では図書室も開いていないので、残るところは三年生だけに自習室として開放されている進路指導室だけだ。
 窓も閉め切られている廊下は、雨が降ってきていることも比例して蒸している。息苦しい中にいるよりも快適さを求めて利桜は進路指導室へと向かった。
 職員室から進路指導室は階下にあたるので向かうのにさほど時間はかからない。階段を降りる短い間に稲光と雷鳴が轟く。
 控えめに失礼しますと言いながら教室へ入ると、部活を引退していない寮生が三人ほどいるだけの静かな部屋だった。中には顔見知りもおり、寮に帰れないねと話をして勉強をしている人達から離れた場所に座る。変わらない雨足を眺めていると進路指導室の扉が開く。
 思わず振り向くと慣れなそうに入ってきた姿に、利桜はひらひらと手を振った。
「桐嶋君も帰れない人?」
「うん。日和待ってたんだけど、夕立だし長いからこっちきた」
 近づいてきた郁弥は水泳部揃いのスポーツバッグを肩から下ろして利桜の隣に座った。利桜はスマートフォンに通知が来ているのか、しきりに返信をしていた。
「連絡大丈夫?」
「うん。友達に大丈夫か聞かれたから返信してたの。弓道部、みんな帰ってるのに私だけあんまり遅いから心配したみたい」
「なんかしてたの?」
「顧問と進路の話をするのに職員室寄ってたんだよね。……桐嶋君が遠野君待ってるのって、進路関係?」
「うん。珍しく担任に呼び出されてるんだよね」
 三年生の夏に校内で進路先の大方を詰めていないのは、大体部活で成績を納めていて推薦を決めかねているか、のんびり屋か、どこでも選び放題で考えていない人くらいだ。ほとんどの生徒が受験対策に追われている。
 利桜は比較的のんびりしていたので、顧問にまで心配されているほどである。行きたい大学があるのかと聞かれると難しいもので、取捨選択を迫られていた。
「……桐嶋君は進路決めた?」
「決めたよ」
「そっか。関西? 関東?」
「東京。白崎、まだ決めてないの」
「さっき顧問と話して大体決めてきたよ」
 お互いにどこの大学とは言わない。なんとなく、この場では言い出しにくい。
 他の誰かに聞かれない場所だったら良かったが、周りには他の生徒もいる。中にはセンター試験を受ける人もいるので、推薦だからと容易に話すものでもなかった。
 窓を叩く雨の音が二人の間に響く。
 ばちばちと痛そうな音が、いやに耳に張り付いた。簡単には止みそうにない雨粒が窓を叩きつけては千々になり、落ちていく。
 利桜があんまり静かに窓の外を眺めているので、郁弥は思わず彼女のほうを見た。いつかに見た静かな瞳が、時折ぱちくりと瞬いて再びじっと見据える。今、利桜の瞳には何が映し出されているのだろうか。
「……利桜……」
 じっとしたままの利桜の反応が気になって、いつの間にか出た言葉は引っ込みがつかなくなっていた。
「…………え?」
 ぽつりとこぼれ落ちた郁弥の声に、隣にいた利桜の反応は乏しかった。じっと隣を見た利桜は小さく開けた口を閉じることができなかった。ワンテンポ遅れた反応は、ころりと落ちてしまいそうなほど真ん丸に開かれた両目が全てを物語っていた。
「えっと、急に名前で呼ばれたからびっくりしちゃった」
「白崎があんまり静かだから呼んでみただけ。嫌だった……?」
「ううん。好きに呼んでくれていいよ。私も郁弥って呼んでいい?」
 先ほどまでの静かな表情から一変して、楽しそうに声を弾ませている利桜に郁弥は頷いた。出会ってからこの数ヶ月、お互いに名字で呼んでいたのが不思議なくらい、名前で呼ばれることがしっくりときた。
「利桜はもうすぐ大会だっけ?」
「うん。大会終わったら寂しくなるなと思ってて」
「寂しい?」
 不思議そうに尋ねた郁弥には、利桜の言葉の意図が読み取りきれなかった。郁弥にとって今泳ぐことはこの先に繋がっていくことだから、通過点でしかない。その時々の成績はあれど、目指す先は世界だ。積み上げていくものだった。
 郁弥の言葉の端にある疑問を感じ取ったのか、利桜はくすりと微笑む。
「私ね、中学の時はこんなに部活が楽しいって思ったことがなかったから、ここで弓道ができて良かった。誰かと一緒に弓を引くのがすごく楽しいってみんなが教えてくれたの。だから、大会が終わってしまうのが少しだけ寂しいなって最近考えちゃって、進路もなかなか決められなかった。でも、ずっと同じ場所に立ち止まってちゃいけないんだよね」
 郁弥の顔を覗き込む利桜は、両の瞳を三日月にして優しく笑った。
 高校生活の中でたくさんのことを知って、たくさんの出会いをしたから心の底から笑えるのだ。優しく微笑む姿が夕立の薄暗い空に似つかわしくない。ここだけ太陽の真下にいるみたいに眩しかった。雨上がりに見る雲間からの光よりもずっと、ずっと眩しくて、柔らかい。
「不思議なんだけどね、近道をしようとするよりも遠回りして、景色を見渡してきたほうが、沢山経験出来て何故か役に立ったりするんだよ」
「利桜の経験談?」
「うん。少しだけ先輩の受け売りもあるけど。中学の頃はずっと自分一人で弓を引いてるつもりだったんだ。でも、本当は全然違ったんだよ」
 郁弥にも少しだけ理解できた。一人なようで自分の周りには必ず誰かがいる。それがどんな助けになるか知らないわけではなかった。
 けれども、郁弥には、利桜の言っている全てを飲み込むことはできなかった。心の奥に、ちくりと刺さったままの棘が抜けていない。刺さったまま、じくじくと時折痛みがぶり返すのだ。そうして痛みを感じて、じわりと自分の奥底を見透かされような気持ちになる。
 いつかの日に大事にしていたものを少しだけ、手放した。
 利桜が大事にしようとしている同じものを手放したから、痛みだけが残っている。曖昧に笑うことしかできず、ゆっくりと利桜の話を聞くことしかできなかった。
「……どうかした?」
「いや、なんでもない」
 利桜の声にはっとして現実に引き戻される。郁弥の無言を肯定と捉えた利桜は気にする様子もなく、再び窓に視線を戻す。ぴかぴかと稲光が雲間を走るなか、雨足が弱くなる気配はない。
 日和を待ちながら、どのくらい経ったのだろうかとスマートフォンで時間を確認すれば十五分程度しか経っておらず、なかなか戻ってこないなと思う。寮に帰る前に少しだけ寄り道をしようかと話していたが、夕立のせいで帰ることもできないし、時間はどんどんと過ぎていく。
「そういえば、遠野君なかなか来ないね」
「こっちにいることは連絡したから、そのうち来ると思う」
「でも、雨も止まないしこれ以上駄目だったら、濡れて帰るしかないかな?」
「大会近いし、風邪引いたらまずいんじゃない」
「うーん、そうだよね。困っちゃうよね」
 苦笑しつつも、郁弥が止めなかったら本当にそのまま濡れて帰ってしまいそうだ。
「郁弥は遠野君来ても雨止んでなかったらどうする?」
「日和来てから相談する」
 とはいえ、夕立なのでやたらめったら降り続くことはないだろう。長くても二時間くらいだろうか。
「郁弥も大会頑張ってね」
「どうしたの急に」
「朝、友達と水泳部も大会近いよねって話してたの思い出したんだ」
「利桜、水泳部に友達いたの?」
「ルームメイトがマネージャーなんだけど……もしかして、初めて話したかな」
「初めて聞いた」
 言ったことあったと思ってた、なんて笑う利桜に郁弥は驚いていた。利桜に初めて声を掛けられた時は、自分しか水泳部の人が思い当たらないのだと思っていたからだ。
「一年の時から一緒の部屋なんだ。それで大会のことも知ってたんだけどね。日程も競技も全然違うけど、お互いにベストを尽くしてこよう」
「うん」
 利桜の凜とした決意は、郁弥にも響いた。初めて利桜のことを意識した選択の授業の日とよく似た静かな瞳の中には確かに、集大成への決意が宿っていた。
「利桜」
「なに?」
 呼びかけて視線が合う度に、見える角度が変わっていく姿は郁弥にはないものだった。真っ直ぐに一本の芯が通っているのに、ころころと緩んでは移り変わる表情が柔らかくて、時々触れるのが戸惑われる。
 でも、そんな彼女だったからハルに似ていると思ったのかもしれない。静かで揺らがないように見える瞳が見え隠れする。それはほんの一瞬のことばかりだから、全部一緒ではないと、ちゃんと認識できた。
 全て一緒ではないからこそ、伝えてみたいと思うのかもしれない。
「大会が終わったら利桜に話したいことがある」
 利桜が少しだけ話してくれた自身のことを聞きながら、ほんの少しだけ自分のことを話してみてもいいと思った。
 深く閉じた水底に静かに置いてきた日の話を。
「うん、大会が終わったら聞かせて。それまでは、郁弥が大会でいい結果が出ますようにって応援してるね」
 穏やかなに了承した利桜と、進路指導室に日和が入ってきたのはほぼ同時のことだった。
「あれ、白崎さんもいたの?」
「遠野君、お疲れ様」
「日和長かったね」
「うん、まあね。それよりもすごい雨だよね」
「遠野君は傘持ってる? 郁弥も私も持ってなくて」
「二人とも持ってなかったの?」
 日和は驚きつつも、郁弥と同じ部活の揃いのスポーツバッグから折りたたみ傘を取り出した。
「日和持ってたの」
「うん。最近夕立多かったから、必要だと思って。それに置き傘あるから、白崎さんに一本貸すよ」
「いいの?」
「濡れて帰るわけにはいかないんじゃない」
 日和の提案に利桜は素直に傘を借りることにした。一緒に玄関まで階段を降りていく。玄関に近づくにつれて、雨の匂いが強くなっていく。昼間の熱気と校舎に籠もった湿気がまぜこぜになっていた。
 玄関まで行くと日和が傘立てから一本の傘を利桜に手渡す。
「こっち借りたら遠野君達濡れちゃわない?」
「白崎さんは女の子なんだから、僕らよりももっと濡れちゃ駄目でしょ。僕は気にしないし、郁弥も気にしないよ」
 日和の言葉に郁弥も頷く。二人は折りたたみ傘でいいと言うので、その言葉に甘えて利桜は日和から大きい傘を受け取った。
 校舎を出る頃には、ようやくと言っていいくらいに雨足が弱まってきていた。これなら、寮までの短い帰路もそれほど濡れないだろう。
 三人で並んで校舎を出て、寮へ途中まで一緒に帰った空はゆっくりと雲間から光が落ちてこようとしていた。