最初で最後

 高校に入って三度目の全国大会。
 夏の全国大会――通称、インターハイの会場は毎年違う場所で行われる。そのため、毎年異なる会場で弓を引くことになる。今年も普段引いたことのない場所での大会だった。
 利桜は自分のベストを尽くすために、この日まで練習を積み重ねてきた。的までの距離はいつも一緒で、ただじっと弓を引く。初めて弓を手に持った時から、何度も何度も繰り返し練習してきた。簡単には上手くならなくて、いつも自分の心と頭と腕を試されていた。自分の雑念が混じれば矢は当たらず、たちまちに的を避けた。悔しい思いも、嬉しい得がたい思いも全部弓道場に思い出と一緒にあった。
 それに今年は高校最後の大会だ。悔いが残るようなことだけはしたくなかった。
 大会は個人戦から開始される。県大会を勝ち抜いた利桜は団体戦だけでなく、個人戦にも出場を決めていた。
 準備に入るとスイッチが切り替わったように利桜が静かになると誰も話しかけなくなる。というよりも、話しかける前に部員の誰もが口を噤むのだ。すっと自分と一線を置かれたように周りの景色と必要な音しか入れていない様子は少し怖いくらいで、仲の良い部員でさえ不用意には声を掛けない。利桜本人にその自覚はあまりなく、時間までシュミレーションしたり、気持ちを落ち着けたりしているだけだった。声を掛けられれば応答するし、部内での連絡事項があれば話も聞いている。もちろん他愛ない会話を振られれば会話もしていて何ら変わりない様子だ。実際、一年の頃はよく先輩と話していたりもしていた。先輩達は気にせず声を掛けられるのだが、同級生からすると試合前の利桜の雰囲気は少し近づきにくかったからか、いつの間にか誰も声を掛けなくなっていった。自然と、誰も声を掛けないというのが暗黙のルールになり、利桜にとってはそのまま集中するためのルーチンになっていった。
「いってきます」
 利桜が待機場へ移動する時間になり、弓を持って立ち上がると部員達がそれぞれに激励を込めて声をかける。利桜はそれににこやかに答えながら、その場をあとにした。
 指定された待機場まで行くと必然的に同じ組の選手達と顔を会わせることになる。中学の頃から成績を残していればそれなりに顔を合わせた回数もある選手もいるので、利桜も何人かの顔も名前も知っていた。場合によっては相手から声を掛けられることもあった。
「利桜ちゃん、今年も同じ組だね」
「そうだね。よろしく」
 中学の頃から何度か大会で顔を合わせていると、必然的に顔も名前も覚えてしまう。個人戦に出るとなおのことで、遠く離れた場所にいる知り合いが増えていた。この三年間で利桜は色んな知り合いが出来ていたので、他の組にも知り合いがいた。
 今日は男女ともに個人の予選から始まる。その日にはインターハイ個人戦の頂点が決まり、続けざまに翌日から団体戦の予選が始まる。
 待機している間、静かな部屋は一番清廉な空気が流れていた。一番静かで集中できる時間だった。
 やがて時間になり、所定の持ち場に立ち並ぶ。利桜の射順は二番目。前の人の動作に合わせながら、利桜も弓をうち起こす。
 自分の中の呼吸と合わせて、視線の先にある的へと集中を高める。ぴたり、的へと視線が定まった。いつもよりクリアに見えた気がした。
 ストンと真っ直ぐに伸びた矢は、的へと当たった。
 あちらこちらから、様々な掛け声が聞こえてきて審判のマルバツの判定が出る。もちろん、自分の学校の部員の声も聞き取れた。それを四度繰り返し、三射以上当たれば予選通過となる。
 個人戦の予選が終わり、本戦の発表がされると利桜は今日一番緩んだ顔をした。
 当たりが悪かったわけではないが、中々に混戦した個人戦は大会でよく顔をみる人が残っている。今年も同学年は似たような面子になっていた。
「利桜良かったね!」
「ありがとう」
「いつも通り冷静だね」
「まだ、全部終わってないから。午後は本戦もあるし、団体戦は明日だし、気を抜かないようにしないとかな」
「予選の結果に満足しないところが利桜らしいよ」
 やっと一息つき一見不安だったのかと気になるところだが、利桜は危なげなく四射皆中で予選を通過したので、この後も本戦が続く。気を抜くことは一秒たりともできない。自分の全部を披露しているようなもので、予選を通過出来たから終わりでも、ましてや本戦を勝ち抜いたからといって終わりというわけでもない。そういう意味で弓道は不思議な競技だ。一つ終わったからといって、次が無いわけでも、極めたと言えることもない。ずっと地続きになっていて、さらに上へと繋がっていく。
 今日の全国大会も、いつか振り返った時に気がつく通過点なのかもしれない。
「利桜、お昼食べよう」
「うん。弓引いたらお腹減っちゃったな」
「集中するとお腹減るよね」
 友人に声を掛けられ、のんびりと連れ立って歩く。この居心地の良さは中学時代にはなかった居心地の良さだ。
 中学の頃の全国大会は、もっと孤独だったように思う。いい成績を残しても、満足感は何一つ生まれなくて、褒められても、あのやり方で良かったとしか確認が出来なかった。
 それが、高校三年間で目まぐるしく変わった。環境を変えたい一心で地元を飛び出した。何も縁もゆかりも無い土地で、まっさらな自分を溶かすようにして、初めて誰も知り合いのいない場所で弓を引くつもりだった。最初は静かに弓を引けるならそれで良かったはずなのに。
 先輩に背中を押されるように初めて団体戦に出場した一年目。もっとできるよ、と先輩達の背中が教えてくれた。何もかもが新鮮で、今までの弓道とはまるで違っていた。
 仲間達に一緒に頑張ろうと支えられた二年目。先輩も同級生も近くでいつも支えてくれて、それに応えられるようになりたかった。恐らく、応えられるようなことは出来ていた。卒業間際の先輩達に、部をまとめて引っ張って欲しいというお願いだけは飲み込めず、叶えられなかったけれど、それでも「利桜のやり方で、利桜らしく部を支えて欲しい」と託された。
 仲間と一緒に進んできた道が今ここにある。それが高校最後のインターハイだ。高校三年間の集大成が迫っている。
「今日の利桜、なんかちょっと違うよね」
「そうかな」
「大会の時いつも落ち着いてるけど、より一層落ち着いてるというか……」
 友人に不思議そうに顔を覗き込まれた。じっと見つめられたが、何も声を発さない。
「気のせいだよ」
「そういうことにしておく。……でも、利桜なら絶対大丈夫だよ」
「ありがとう」
 やっぱり冷静だなあと隣の友人は苦笑した。その様子に利桜はくすりとした。

 午後の個人戦の本戦が始まる前に利桜は珍しく明日から一緒に団体戦に臨むメンバーを集めた。普段なら、時間になったら集合場所へ行き、最大限まで集中する時間を作っている。予選もそうで、誰も声を掛けようとしなかったのに、利桜の行動は意外なもので、メンバー達は一様に不思議な顔をしていた。
「このタイミングで集めるって、何かあるわけ?」
 集められたメンバーの意見をまとめるかのように部長が口を開いた。
 利桜は少しだけ困った顔をしながら頷いた。
「集まってくれてありがとう。部長の言う通り、変なタイミングになっちゃった」
「……利桜はたまにそういうとこあるよね」
 確かにとメンバーが頷き始めたので、ごめんと言えば本題へと急かされる。
「本戦行く前に私の今年の目標を言っておこうと思って」
 しっかりと前を見据えた顔をした利桜に、メンバーも先程までの和やかな雰囲気から真剣に話を聞く態度になった。当たり前だ。部としての目標は決まっていても個人個人が立てる目標まで公言する機会は意外と少ない。ましてや利桜は、そういったことをむやみやたらに発言したり、無理なことは言わないタイプだ。そんな利桜が言うとなれば、真剣に聞かざるをえない。
「前は目標なんていらないと思ってたけど、今年は高校最後だと思ったら諦められないって気付かされた。だからみんなにも知っておいて貰おうかなって」
 誰だって負けたくないことや、諦められないことの一つや二つある。利桜にとってはそれが弓道だった。この先の人生何があるかわからないけれど、父親のしていた弓道に興味を持ってからというものの、これだけは手放すことが出来ない気がするのだ。
 前から意識はしていたけれど、表立って誰かに言うのは初めてだ。
「私の目標は優勝。ただそれだけを考えてる」
「今それ言う?」
「うん。今だから言いたい。みんなと明日も元気に弓を引きたい。だから、優勝してくる」
 決意表明だと言わんばかりの宣言に、メンバーは口々に頑張れと言ってエールを送る。利桜は集合時間を気にしつつ今日二度目の「いってきます」を言った。
 順当に本線を勝ち抜いた利桜は周りの的中数を確認してから、優勝決定戦にもつれ込む相手の顔を確認した。去年も本戦で見たことのある顔だった。鉢巻きをしていたので、どこの学校に所属をしているかもすぐに思い出すことできた。同じ学年だということにも気がつき、お互いに視線が合った時に理解した。彼女も自分も気持ちは同じだ。
 優勝決定戦はもとより、本戦が始まってから、利桜の射はいつもよりも的確だった。初めから的に当たるのかが分かっているかのように矢は的に吸い込まれていく。いつもよりも中心に近い部分を狙ったかのように当たっていく様は、見ているほうも、隣で構えるほうも息を呑む光景だった。
 涼しい顔をしたまま、美しい会の型をとる姿は普段から練習で見慣れている部員でさえ、少し怖いと思うほどだ。心のうちで寄せては引く漣のような気持ちもなく、凪ぐ程度なのだろう。
 利桜の周りだけ静寂が支配していた。
 射詰は利桜が先に放つ。時折甲高い弦音を響かせていた。プレッシャーをかけるつもりは微塵もないのだろうが、隣の相手を気にすることもなくただ順繰りに弓を打起こす姿は少しずつ場を支配していた。
 勝敗が決したのは十射目に入った時だった。利桜の放った矢がストンを真ん中を的中させたのが引き金だったのか、相手の動作が僅かに狂った。ほんの少しの動作だが、両者の腕前はさほど変わらない。打ち合いになれば必然的に先に崩れたほうから、足をとられていく。そうして、大きくそれた相手の矢は、的ではなく僅かに外側にずれた。
 全てが終わり、片付けを終えた利桜は相手のもとへと駆け寄った。
 本当は駆け寄るか悩んだが、最後の最後までお互いに誠実に向き合った結果だ。どうしても会話がしたくなった。
「今日はありがとう」
「こっちこそ。……でも、すっごく悔しい」
「またどこかでやろう」
「その時はリベンジする」
 晴々とした顔で笑った彼女に利桜は「絶対に」と付け加えて笑った。
 個人戦の表彰式が終わってからというものの、消灯時間近くまで友人たちに揉みくちゃにされた利桜がスマートフォンを確認したのは寝る間際だった。暗がりの中で煌々と光るディスプレイをタップで操作してメールの受信画面を開いた。送信者には桐嶋郁弥の文字が並んでいた。
『明日も頑張って』
 あまりにも簡素な本文にメールの送り主の様子が思い浮かぶ。利桜が今日の個人戦に出ていることも知っているのに、結果を聞いてこないところが彼らしい。郁弥も利桜もお互いの戦績を聞き出すことはしない。聞いたとこであまり意味がない。それぞれが、自分なりに練習をした結果だと理解しているのもあるが、自分達が関わり合うなかでは不要な部分だった。
 だから利桜も結果を報告はしない。どうせ夏休み明けの表彰式で嫌でも知ることになるのだから、伝えるのが早いか遅いかくらいなのだ。
 明日も朝から予選があるので、メールの文面は同じように手早く簡素に打ち込んだ。
『ありがとう。みんなと頑張ってくる』
 短いけれど、今日の昼間に仲間に打ち明けた気持ちと同じ強さを込めた。時折、自分ではないどこか遠くを見ている郁弥にも伝わるように。
 自分が三年間で積み上げた大事なものだ。ここで誰かと一緒に弓を引く楽しさを教えてもらった。明日も明後日も進むんだと胸の中で決意して布団に潜り込んだ。

 * * *

 男女ともに予選トーナメントから開始となる。予選を勝ち抜けば、決勝トーナメントとなり、最後に順位決定戦へと続いていく。あっという間に結果が決まっていくのは昨日の個人戦と変わりなかった。
「これから予選だけど、やることは練習と変わらない。私たちのベストを尽くそう」
 部長の声に、全員が静かに同意した。やることはいつもと変わらない。立ち位置も、矢を放つ距離も変わらない。全員が理解していた。
 最後に顧問からいつも通りやればいいと言われた。普段からやかましく話すことがない顧問だが、大会の時ほど終わるまで口煩く何かを言うこはない。顧問に見守られながら射場入った。
 予選は全員の的中数も大事になってくる。一人だけ良くてもダメなのだ。
 利桜は大前だ。誰よりも最初に弓を引く。最初に全員を導くための士気を上げる役割を担っていた。
 いつも通りの射形を意識しながらゆっくりと体勢を整えていく。利桜の動作は部内でも比較的ゆっくりでたっぷりとした動作だ。きっちりと型をとってから矢を放つ。
 潮音崎高校の一射目。昨日からずっと的までの視界がクリアな状態が続いていた。狙い澄ましたように、矢は的に当たる。後ろには四人控えている。それぞれの準備もタイミングも頭の中に刻まれ、身体が覚えていた。
 落ちまで順番が巡ると、利桜も二射目の準備に入る。落ちは主将でもある部長が務めている。彼女のおかげで利桜は大前として力が発揮できるのだ。
 途中、誰かが失敗しても大丈夫だと言うように弓を引いた。自分が団体戦という、おそらくずっと向いていないだろうことを三年も続けたのは、周りで誰かがいつも支えてくれたから。
 団体戦でも弓を引く時は自分一人だというのに、後ろに誰かがいてくれるのは安心ができると同時に気が抜けない。気を抜いたことは一度たりともないが、自分の為だけではなくチームの為に引く弓はまた違うのだ。
 四射全て漏らすことなく皆中を決めたのは利桜と部長とただ一人二年で大会に出ている子だった。
 予選のあとは、決勝トーナメントの抽選が行われた。女子が先に行われ、その後は男子の団体の予選へと移っていく。
 潮音崎高校は男女ともに部員がいるが、インターハイの出場を決めているのは、女子だけだ。そのため、今日は男子の応援はない。県大会まではいた応援がないのも寂しさはあるが、それなりの大所帯の部なのでやたらめったら人数は連れてこれないのだ。
 それでも誰かの願いやエールは胸の中にちゃんとしまっている。決して一人きりではなかった。

 最終日。
 準々決勝戦まで進んだ潮音崎高校だったが、最終結果は四位で終了した。個人戦から連日連戦となった利桜だったが、的中率は変わることはなかった。
 全ての試合を終えた利桜はメンバーを包むように腕を伸ばした。このメンバーでやってこれたと心底思えて、気がついたら全員を集めていた。
「ありがとう」
 一言ぽつりと言えば、最初に泣き出したのは三番を努めていた二年の子だった。それにつられて泣き出した三年に利桜は「みんな泣きすぎ」と苦笑した。
「利桜さんのせいですよ」
「だって、私ここまでやってこれてすごく嬉しかったんだ。今日が終わっちゃうのが寂しいのに、さっきまで私達は同じ射場で弓を引いていた事実がすごく嬉しいし、みんなとやってこれて良かったよ」
 後輩に残す言葉にはならないが、このメンバーでやってきたことは一生変わることのない事実だ。わんわんと泣いてしまう後輩を抱きしめた。
「来年も頑張ります」
「うん。頑張れ、応援してる」
「三年はみんな後輩のこと応援してるよ」
 利桜の言葉に続けて、頑張れと言うとさらに泣き出した後輩に三年は仕方ないなあと笑った。表彰式前にひとしきり言いたいことを言い合い、落ち着くと顧問に呼び出された。
「白崎、インタビューしたいと言われてる」
「はい、わかりました」
 顧問の横に一人の男が控えていた。利桜はその顔を見るなり驚きに変わり、それから晴れ晴れとした顔で一言挨拶をした。
「お久しぶりです、山中さん」
「私のこと覚えてくださってたんですね」
「はい。よく覚えています」
 中学二年の時の全国大会で四位になった時に利桜はこの男にインタビューをされている。わざわざ優勝もしていない話題性も何一つない自分をインタビューするのは珍しかったので忘れるはずもなかった。
「名前まで覚えていただいてるとは。少しだけ今のお気持ちと、それから個人優勝したことについてお話をきかせてもらえますか」
「はい」
 利桜は少しだけ考えてから口を開いた。
「今日、みんなで出来たことが嬉しいです。それと実は個人優勝した実感があまりわかなくて、改めてインタビューされると本当に優勝したのだな、と不思議な気持ちです。さっきみんなにありがとうとお礼を言ったのですが、ここまでたくさんの方に支えられてやってこれたのだと感じています」
 誰かがいることで切磋琢磨できる。当たり前のことだけれど、その当たり前が利桜にとっては嬉しくもあり、大事な時間だった。だからこそ一番最初に出てきた言葉が「ありがとう」という感謝の言葉だった。
「そうですか。ありがとうございました。これからも頑張ってください。先生もありがとうございました」
 丁寧に頭を下げた山中を利桜は顧問と見送った。顧問が一言「お疲れ様」と言ったので、照れくさそうに笑った。

 表彰式も全て終わり、これで本当に大会が終わってしまった。あっという間の日程だったがこれが利桜にとっての夏の全てだ。表彰式終わりに取った写真はスマートフォンにちゃんと保存されている。
 寮へ戻る帰路のバスのなか、利桜は水泳部の日程を思い出し慌ててメール画面を立ち上げた。郁弥は利桜にメールを送ってくれたから、利桜も同じことがしたかった。
『こっちは終わったよ。応援してるから、頑張ってね』
 そんな風に送ったメールを見た郁弥がどんな顔をしたのかは知らないけれど、それでも空がどこへでも繋がっているのと同じように、気持ちは繋がっているのだと信じて届くようにと願った。そうして周りの寝息につられるように利桜は夢の中へと落ちていった。