大会会場へ行く朝、郁弥は夜に届いていたメールを開いた。
『こっちは終わったよ。応援してるから、頑張ってね』
利桜からのメールは多くは語らないものだった。いつも通りと言えばそうだし、自分達のやり取りはいつもこんなものばかりだ。郁弥も長々とした文面はあまり得意ではない。
利桜はみんなと頑張ってくると意気込んでいた。きっと、聞かなくとも全部の力を出したのだろう。少し前に進路指導室で会った時の利桜は、決意した人の顔をしていた。
郁弥はメールに返信することなく、ルームメイトの日和に不思議そうな顔をされつつ、一緒に部屋を出た。
郁弥にとって大会はその先へ行くための通過点だ。おまけにタイムはどんどん縮んでいる。
利桜が大事にしようとしたものを手放して手に入れた強さ。ずっと心の奥底に沈めてしまったものが、ただ静かに横たわるように光を失ったまま鎮座している。その事実を知りながらも、郁弥はひっそりと瞼を閉じて、もう一度ゆっくりとしまい込んだ。鍵は未だ見つからない。
鍵を失ったままの宝箱の中身は光を失わない。そのかわり、開けられなくなった宝箱は中身のわからない箱になってしまった。
* * *
郁弥と利桜がやっと顔を合わせたのはお盆が明けた夏休みの終わりかけだった。お互いに引退したのではと聞きたかったが、学校内で会ったとなれば勉強をしていたのではないことくらい予想がついた。それくらいお互いが、それぞれに打ち込んでいたことを知っていた。
「久しぶりって言ったら変かな」
「ううん。僕も利桜と話すの久しぶりだなって考えてた」
お互いに直射日光を避けるように校舎の陰に合わせて正門に向かって歩いていく。
「そういえば、マネージャーから聞いたんだけど、インターハイおめでとう」
「知ってたんだ。ありがとう」
郁弥が知ってるとは思わず、利桜は一瞬驚いた。そもそもルームメイトが水泳部のマネージャーで、彼女には結果を教えていたので、話題になれば自ずと話す機会もあるのだろう。
「郁弥はどうだったの?」
利桜の結果を知っているのであれば、逆にこちらも知りたくなるのは道理だった。利桜が郁弥の顔をちらりと横から覗き込むと、視線を彷徨わせてから、ゆっくりと視線が合う。あまりひけらかすのは好きではないだろうが、悪い結果では無いのは様子から読み取ることができた。
「それなりに結果出したよ」
「それなりって……」
「利桜は心配しなくても大丈夫だよ」
ふっと微笑んだかと思えば、その端っこには憂いのようなものも含まれていた。利桜が時折郁弥から感じるそれは、あまり安心出来るものではなく、手を伸ばしたところで簡単には届くはずがないことも理解していた。
掴めるようで、確かなものは何一つ掴ませてくれない。そこに隔たりを感じて、踏み込む勇気も気概も、度胸も利桜にはまだなかった。
学校を出て近くにあるコーヒーショップのチェーン店に入った。
夏休みなのもあってか、同じ学校の生徒は少しいたが、他にも休憩中のサラリーマンなどいたのであまり目立つような人数ではなかった。お互いに席についてから、どちらから切り出すのか伺っていると、郁弥から始まった。
「この間の話、してもいい?」
「うん」
利桜がアイスティーをストローから吸いながら郁弥の様子を見た。たまに見かける、利桜を通して遠くを見る目をしていた。自分の先から何かを見つめている。郁弥は自分がどんな顔をしているのか気がついていない。
「初めて利桜を見た時、すごく知っている友達のことを思い出したんだ」
「友達?」
「中学の時の友達で、僕はハルって呼んでた」
ハル、という初めて聞いた名前の郁弥の友達は今も水泳をしているらしい。全国大会で日和君が教えてくれたそうだ。
「利桜はハルに似ているんだ」
「似てるって、そのハルって人男の子だよね」
「うん。似ているってのは瞳かな」
最初に見た利桜は、郁弥にとってクラスにいた誰よりも静かで揺らがない、そして少し先を知っているかのような瞳をしていた。それが授業終わりに声を掛けられたものだから、思いもよらなくて、その時の利桜は困ってたみたいでつい手を貸してしまった。
「利桜はハルと全然違うって分かってるけど」
そう区切った郁弥は懐かしむような視線を利桜に向けた。その視線の意味が読み解けなかった利桜はただ郁弥を見つめ続けることしか出来なかった。ひやり、どこか近づいてはいけないものに近づいてしまった気がした。
「時折、あの時のことを思い出す。利桜を見てると、中学の時をなぜか思い出すんだ」
つまらないかもしれないけど聞いてくれる? そんなふうに言う郁弥に利桜は静かに頷いた。自分のことを話すのが決して上手には見えない郁弥が話したいと言うならば、大人しく聞こうと決めた。
注文したアイスティーは半分以上残っていたけれど、飲む気にはならなかった。郁弥の視線が不意に下がり利桜とは合わなくなったからだ。
「ハルは中一の間だけ一緒に泳いだチームメイトで、他にもみんないたけどハルは特別だった」
特別と言う郁弥から滲み出る感情が、利桜には感じたこともないもので、どうしてそんな友達が自分に似ているのか全く理解できなかった。
郁弥は利桜の困惑には気がつかないまま話し続けた。
「その頃の僕は兄貴の後ろを追いかけるばっかりで、別の友達――旭に怖いんだろって言われた。確かにあの頃は怖がってたかもしれない。ハルたちに出会うまでは」
ハルたちに出会った郁弥は、チームとはどんなものかを知った。仲間と泳ぐことがどんなことなのか、当時の自分にとってかけがえのないものだった。瞼を閉じれば蘇る、あの夏の鮮やかさは今でもずっと鮮明だ。
「夏の大会までみんな目的は一つだった……と思う。みんなで強くなることが一番チームの勝利に繋がると思ってたから。それと同時に僕もハルみたいに強くなりたかった。みんなの力になれるから」
強く決意した日が郁弥の脳裏に思い出される。確かにあの時自分は強くなると誓った。けれども、チームの絆が一瞬であることも知った。たった一年の間に大事だったものは自分からまた放れてしまった。兄の夏也が郁弥を思って郁弥をつき放したように、チームは郁弥の両手からするりと放れてしまった。理由や事情は違えど、郁弥の手から放れてしまったことには違いなかった。
「チームが解散するまで来年があると思っていたし、それまでに僕はハルと同じようになりたかった」
でもなれなかった、と区切った郁弥は瞼を閉じて一呼吸置いた。開きかけた宝箱の蓋をそっと閉じて、暗い海の底へ置いていく。全部を開くことができなかった箱は、再び光の影を失った。
その後、兄について行きアメリカに留学をして、今のスタイルを確立。それから利桜達の通う潮音崎高校に入った。留学してからのことを話す郁弥からハルの名前は出てこなかった。突然、出演が取りやめになったドラマの配役の話を聞いているみたいだった。
それでも利桜は少し安堵していた。
郁弥がハルと口にする度、利桜は胸の内に何とも言えない不安が募り続けていた。郁弥が大事にしていたものは理解できたから、早く手を伸ばさなければと思った。
今、手を伸ばさなければせっかく近づいたはずの距離が全部無かったことになってしまう。そんな気がしてならなくて、ただ純粋に怖かった。
「郁弥はハルと同じじゃないよ」
咄嗟に出た言葉だった。郁弥の話を聞き続けるうちにやはりと思うのだ。自分の知っている郁弥が、どのくらいの割合なのか理解できもしなかったけれど、春に出会ってからのことを忘れて欲しくないと思った。
その咄嗟の行為は水底へ落ちたまま引き返して来なそうな郁弥の手を引っ張り上げたような気持ちだった。現に今、走ったりした訳でもないのに利桜の心臓はどくどくと早鐘を打っている。自分の言葉が正解だったのか答え合わせをしてくれる人はいなかった。
郁弥とようやく視線が合う。覚束無い視線は、利桜の顔を見て驚きへと変化した。
「やっぱり利桜はハルに似ているね。僕にはないものを沢山持ってる」
「そんなことない。私は、郁弥みたいに強くなれてない。だから郁弥の言うハルとは似ていないし、強くないから、ここに来たんだよ」
利桜には、郁弥みたいに早くにチームを知ることがなかった。出来なかったから、知らないままでいいと思っていたから潮音崎に進学した。誰も知り合いのいない、静かな場所を求めて進学したはずだった。一年の春に、弓道部に入るまでは利桜も郁弥と同じだった。
「私はただ弓が引ければ良かった。でも、違うってことを部のみんなが教えてくれたよ。それは、郁弥がさっき話してくれた中学の時と同じじゃないかな」
「それでも利桜は、僕みたいにはならなかった」
利桜の手を放す人はいなかった。利桜の才能は、利桜自身の努力で花開かせたものだ。郁弥にはそれが痛いほど理解できたし、事実として校内集会の表彰で見ていた。
郁弥の周りに残った人はほとんどいないが、利桜の周りには沢山の人がいる。どうしたって、郁弥には利桜が強くて自分の足で立てて、他人も救える人にしか見えなかった。
「それでも私は決して特別じゃないし、私も郁弥も同じ高校生だよ。それに私と郁弥が出会ったのにはきっと意味があると思うな。だって、話しにくいことを郁弥は話してくれたから」
利桜はにこりとした表情を郁弥に向けた。郁弥には少しだけ眩しかった。それまでの利桜は郁弥の言葉の端に潜んでいるものを探そうとしていたけれど、途中で止めてしまったようだった。目の前の郁弥だけに集中しようとしていた。
「私も色々あったけど、この間のインターハイ出てみてねわかったことがあるんだ。なんだと思う?」
利桜に聞かれた郁弥は考えてみたが、すぐには思いつかなかった。利桜と郁弥の経験したものは異なっている。感じ方も人それぞれだ。黙ったままの郁弥は静かに首を横に振り、利桜は正解を教えてくれた。
「弓道が好きだってことがよくわかった」
「え?」
もっと仲間とか友達とかそういったフレーズが出てくるのかと予想していた郁弥は、利桜の答えが思いよらないもので呆けてしまった。目を丸く見開いた顔に利桜はぷっと吹き出した。
「好きで高校三年間続けてこれて、まだ弓が引き足りないなって感じた瞬間があったの。メンバーと一緒に出来なくなるのは寂しいけれど、私は私の弓をもっと好きになろうって思えたよ」
だから郁弥も大丈夫だよ、と表情を柔らかにして続けた。
「利桜が言うと本当に大丈夫そう気がしてくる」
「それなら良かった」
ようやく利桜はアイスティーに口をつけた。氷が溶けて半分ほどは水になっていたが、ストローでかき回してから飲み込めば味はさほど変わりなかった。
郁弥のことはまだ気がかかりだったものの、視線が合わなくなる前と変わらなくなってきていた。
「郁弥はさ、信じてくれないかもしれないけれど、人って最初はみんな特別じゃなくて、後から特別になるんだと思う。でもそれは、他人が特別って決めてるだけで、本人は全然そんな風には感じてないんだよね。だから、私は『特別』ってことには拘らなくていいかなって思うんだ」
人との関係は複雑で、少しのことで簡単に崩れたり結束が高まったりする。そんなことを繰り返しながら、いい人や悪い人を決めることがあるけれど、利桜には自分の中の特別を決めるより、誰かと同じ目線を考えてみたり、色んな角度から見てみるほうがいいと感じていた。だから、特別というレッテルを貼ったりしなくてもいい。肩肘張らないほうがいいと感じていた。
「……利桜には特別な人はいないの」
「今はいないかな。この先いるかわかんないけどね」
郁弥の質問に利桜は朗らかに返した。自分にとって特別な人という位置づけにいる人はいないし、もしこの先いるとしても郁弥がハルに特別と言ったみたいにはならないだろう。少なくとも、特別がすごい人、自分よりも優れている人とイコールには結びつかなかった。
「そっか」
ようやく微笑んだ郁弥はぬるくなったカフェラテに口をつけた。
「あと、話を聞いてくれてありがとう」
「全然。どういたしまして。私も郁弥の話聞けて良かったな」
それから二人は日が暮れるまで他愛ない会話をひとしきりして、お互いに寮の部屋に戻った時にルームメイトに不思議がられ、お互いは知らないところで同じように「変かな?」と反応していたのは、どちらも知らないことだった。