あと一歩

 夏休みが明けるとクラスの大半が部活を引退した生徒だらけになっていた。今までの緊張感も少し緩んだような雰囲気が数日続いていた。それもほんの少しのことで、受験モードへあっという間に切り替わっていく。昼休みになっても、参考書が積まれたままの机が前よりも多くなっていた。
「利桜、お昼にしよう」
「ごめん、今日郁弥と約束してるんだ」
「しょうがないなあ。利桜って、桐嶋君と仲良いよね」
 じっと見つめられた利桜は、そうかなと続けた。利桜にとって郁弥は数いる友人の中でも、居心地が良い人ではある。けれども、それ以上でも以下でもなかった。
「だって夏休み明けたら、気づいたら名前呼びだし、何かあったの?」
 友人に言われてから利桜は納得した。そういえば、郁弥のことを名前で呼ぶようになったのは最近だった。初めて呼んでみた時にあまりにもしっくりときてしまったから、気にしていなかった。利桜にとって些細なことでも、友人にはそうは感じないらしい。
「何もないけど、少しだけ郁弥と距離は縮まったかもしれないかな。じゃあ、待たせちゃうから行くね」
 にこりとしながら利桜がはぐらかすと友人は引き止めたそうな空気を出していた。そんな様子に利桜は少しだけ苦笑しつつクラスを出る。
 昼休みの廊下は賑やかで生徒がわらわらといる。中途半端にまばらに散ったところを縫うようにして進むと、階段前のスペースで郁弥が待っていた。よく一緒にいる日和はいないらしい。
「お待たせ」
「待ってないから大丈夫」
 郁弥と待ち合わせてお昼が一緒の時は決まって食堂に行く。単純にお互い寮生だからだが、潮音崎高校の食堂は充実しているので食べに行って、今日何を食べようかなと困ることはない。
「郁弥に学校で会うの久しぶりかも」
「そうだっけ?」
「うん。授業でしか会うタイミングなかったから、郁弥の顔見たらほっとした」
 利桜は隣にいる郁弥の顔を見てにこりとした。何だかんだ顔を合わせる機会が少ないにもかかわらず、今日のお誘いは郁弥からだった。普段は利桜から誘うことが多く、連絡をもらった時に頬が緩んでしまいルームメイトに意味ありげな視線を送られた。
 久しぶりに顔を合わせて話ができるとなれば、誰だって嬉しいのではないだろうか。利桜にとってその考えはとても当たり前のことで、何ら疑問を持つことではなかった。郁弥の穏やかな横顔と時折綻ぶ顔に安心感を抱いていた。
 食堂入り口にある券売機で食券を購入し、生徒が大勢並んでいる列に加わった。潮音崎高校の生徒数はそれなりで、二人が食堂に来た時にはだいぶ長い列が形成されていた。しかし、それは普段から見慣れている光景なので文句を言うこともなく郁弥も利桜も最後尾に並ぶ。
「遠野君はいなくて良かったの?」
 利桜は、厨房にいる元気の良いおばさんに食券を渡しながら聞いた。郁弥は、少し間を置いてからぽつりと口を開く。
「僕が利桜と学食行くって言ったら、日和に僕は遠慮しておくよって言われたんだ」
「せっかくなら一緒に食べにくれば良かったのにね」
「僕もそう思う」
 日和は郁弥のルームメイトだ。同じ寮生なのだから来ればいいと思うのだが、何故だか来たがらなかったらしい。利桜は日和が郁弥と校内でよく一緒にいるのを知っているので、自分がいるせいだなとは多少思うところもある。仲の良い友人の間に割入っているような状況でもあるのだ。けれども、郁弥も利桜もそのことを気にする性分でもないし、お互いに顔見知りなのだから気軽に来ればいいと思いつつ、日和がそういったことを気にする質なのも理解していた。
 お盆に注文したものが乗っかり、生徒がぎゅうぎゅうに座っている大テーブルを避けて、窓際寄りの陽射しがカンカンと照る場所に陣取った。食堂の中は冷房が効いているはずなのに、テーブルも椅子もどことなく茹だったような熱を持っていた。
「郁弥から連絡くれるの珍しいよね」
「そうだっけ」
「うん。そろそろ私も郁弥に連絡しようかなって考えてたところだったんだ。タイミングいいよね」
 利桜は美味しそうに学食のラーメンを頬張った。郁弥と自分の考えが何となく似通っているのが何となく嬉しい。郁弥は言葉数が多くもないし、とびっきり大きな反応をしてくれるようなタイプでもない。たまに主張をしてくれる郁弥の行動についていくのが嫌いではなかった。
 以前、食堂から午後の授業の為に走って教室まで向かったことがあったので、お互いに食事をしている間は無言になりがちだ。食べる速度が遅いのではなく、二人で話し始めてしまうとのんびりまったりしてしまう。結果的に予鈴が鳴りそうになるのだが。
 黙々と食べた結果、時間の余裕ができたのでお互いに急ぐこともなく教室へと戻ることになった。昼休みの校内は賑やかとはいえ、三年のクラスが入っている階にいくと、賑やかではあるが休み時間を利用して勉強をしている姿も見受けられた。
 あと一つ階段を上がればお互いの階だ。利桜のクラスのほうが階段を上がったすぐ側にある。
「今度は日和君も一緒だといいね」
「うん。日和にも言っておくよ」
 穏やかに笑った郁弥とそんな風に言って別れた。利桜が教室に入ると予鈴のチャイムはすぐだった。

 * * *

「利桜、ちょっとそれは違うんじゃない?」
「ちょっとって?」
「桐嶋がどんな人か知らないけど、二人してそれ言うのは頭痛いんだけど」
 珍しくカフェに付き合ってくれと同じ弓道部だった元部長に言われて利桜は放課後一緒にいた。何気なく昼休みの話をすると、彼女は頭を抱えるようにしていた。
 利桜にはそんなに頭を抱えるような出来事でもなく、変なことを言ってしまっただろうかと考えていた。
「遠野が桐嶋の誘い断ったの、二人の仲を邪魔したら悪いって思ったからでしょ」
「私と郁弥の?」
 心底不思議そうな顔をした利桜は首を傾げる。普段の利桜は決して天然でも、鈍いわけでもない。むしろ人の感情の機微には聡いほうだ。気も遣えるし、人を不快にするようなタイプでもない。その利桜が、ここまで気がつかないとなると実は初恋もまだなのではと疑問になってくる。
「そもそも、利桜は桐嶋のことどう思ってるの? ほんとにただの友達?」
 利桜は目の前の友人に鋭く訊ねられた。それは度々誰かに聞かれていたことだった。付き合ってるの、とさえ聞かれた。
「どうって、友達だと思うけど……。友達じゃなかったら、なんて言えばいいのかな」
 利桜は困り顔を隠さずに答えた。誰かに聞かれれば、聞かれるほど困る質問だった。付き合ってるのか聞かれれば、自分達はそんな関係ではないのでノーと言える。だから、利桜と郁弥の関係を表すものとして友達だと言ってきた。確かにこれに間違いはなかった。
「利桜は誰とでも仲良くなれるし、部内でも男子と普通に話してたけど、桐嶋みたいな人は誰もいなくなかった? 少なくとも私は、桐嶋と一緒にいる時の利桜はいつもと違うと思うよ」
 助け舟を出すように友人は話してくれる。ルームメイト以外で利桜の色んなことを知っているのは彼女だろう。部内ではよく一緒に過ごしていた。その彼女に違って見えると言われれば、そうだろうと納得せざるを得ない。
 困惑したままの利桜は、依然として彼女の言葉を理解しようとしていた。ますます深みにズボズボと入っていってしまいそうな様子に、友人ももう少しかと続けた。
「利桜は桐嶋のこと好き?」
「そんな意地悪な質問しないでよ」
 困惑したままの珍しい様子の利桜は、さらに疑問符を顔に貼り付けたような表情をしていた。誰にも自分のことを深入りさせず、周りとの調和を優先して行動しようとする利桜を、ここまで困り顔にさせる桐嶋は罪深いなと彼女は思う。百面相している様が面白いと言ったら、利桜は否定するだろう。
 せっかく注文したチョコバナナパフェのアイスクリームが溶けてしまうのが勿体なくて、彼女は柄の長いスプーンで掬いとる。目の前の利桜が注文したかぼちゃプリンは一向に減る様子がない。
 利桜が答えに悩んでいるのは、好きの意味を考えているのだろう。言外にラブとライクのどちらかと問いていた。
 他の友人に言うなら、好きなんじゃないのと聞いたかもしれない。自分達の年代は良くも悪くも恋をきらきらしたエフェクトをかけたような話だと思っているからだ。お互いが何となくいい感じだから付き合ってみる、なんてことはよく起こりうる。
 利桜だから、回りくどいことをしているのだ。今まで浮いた話がないくらい、周りとの関係がさっぱりとしていた。男女ともに友達がいて、それなりに付き合うけれど、今一歩深入りはさせてくれない。あまりの脈のなさに諦めた男子がいたことだって知っている。
 その利桜の懐に降って湧いたように登場したのが桐嶋だった。初めて利桜の口から名前を聞いた時、すぐに帰国子女だと一時話題だった男子だと思い出すことも出来た。クラスが違うから詳しいことは知らなかったが、桐嶋は見た目だけなら目立つので、最初の頃こそ女子の間では話題にはなったが、あまり社交的ではないからか、自然と話題からも消えていった。そのせいもあってか、利桜が仲良くしていると知った時、珍しい取り合わせだと感じた。
 でも、それが変かといったら変ではなかった。初めて二人が一緒に並んでいるところを目撃した時、珍しいと思った違和感が変わった。二人が隣同士なことが自然だった。二人がどうしようもなく似通っていなくて、合わなそうだったらもう少し言い様もあったのに、何も言えなくなってしまった。
 お互いを大事そうに見ている姿は、周りから勘違いされてもおかしくないほどだった。
 だから、周りはしきりに訊ねる。付き合ってるの、と。気がついているのかいないのか、利桜は毎度否定したし、今も自分の気持ちが正確に測れなくて脳内で右往左往しているようだった。
「今までこんなに考えたことなかった」
「それなら良い機会だね」
「ほんと、こんなにいっぱい考えるなんてなかなかないよ。郁弥は優しいから、私の言うことに付き合ってくれて、たぶん気にしてくれてるの」
 利桜は少し自信がなさげに瞼を伏せた。気にしてくれているのは、利桜だからとは全く気がついていない。
「なんで気にしてくれるのか考えたことある?」
「あるけど、確証がない」
「じゃあ、利桜はなんで桐嶋のこと気にするの?」
 利桜は案外郁弥が自分に対してどう感じているかを気にしているけれど、それでは自分の気持ちの整理ができない。
 利桜と視線が合って彼女は優しく微笑んだ。怖がらなくてもいい。あと一歩踏み込めばいいだけだ。
「私が郁弥の傍にいたいと思うから、かな」
「友達なら別に不思議じゃないと思うけど、本当にそれだけ?」
 利桜の言う傍にいたいという思いは、ただの友達だからというような生易しいものではない。それなのに、穏やかさと愛情が滲む気持ちは彼女本来の周りを気遣う気質と相まって中々正しい答えに結びつかない。
「これが恋って言うわけ?」
 何度か視線を彷徨わせながら、ようやく口にした。利桜はそのまま両手で口元を覆ってしまった。
 自分ではあまり考えたことがなかったのか、言葉にして驚いていた。
「それが恋じゃなかったら、友達なの? 友達以上なのに?」
「だって、恋ってもっとときめいたり、ぎゅってなったりしないの」
「利桜の恋はそういうものじゃなかったってだけじゃない? 全員が同じわけじゃないでしょ」
 そうしてまたパフェからクリームとバナナを掬いとった。利桜はようやくかぼちゃプリンに手を付け始めたところだった。
 相変わらず困惑したままの顔をしてプリンを食べているが、味は感じられているのが不思議なくらいだ。
 利桜の恋は、一目惚れのような一時の熱の高まりでもなければ、相手と駆け引きをしてときめき感じたりするような激しいものでもない。ただ隣にいたいという、穏やかでいながらも独占欲の強い願いにも似た感情だった。
 きっとその穏やかさがお互いに心地よかったのかもしれない。
「恋がどんなものか知りたかったら、ルームメイトにでも聞いてみなさいよ。教えてくれるよ。利桜のそれもちゃんと恋だから」
「最後なんで突き放すの」
「私の仕事はしたから?」
 おどけてみせれば、利桜は酷いと言いながらも笑い飛ばしてくれた。そして一言付け加えた。
「私がどうしたいのか、もう少し考えてみるよ」
 これだから、利桜の友人でいたいと思うのだ。部活で見せてくれる真剣な眼差しも、こうして遊んでいる時に見せる無邪気な表情も、誰かを想って一生懸命な姿も全部大事にするところも良いところだ。
 この友人に訪れた春が長続きして欲しい、とは口にはしなかったが、できる限り応援していきたい。彼女はそうして満足気にパフェの最後の一口を頬張った。