誘惑する香り

 ふと香ったそれは、審神者が本丸内を歩いている時だった。近くには何も芳香のあるものはない。それなのに、ふわりと香ったものが何か分からず、廊下の真ん中で審神者は首を傾げた。庭に咲いていた花で最近咲いたものがあったか考えたが、いつも新しい花が咲く庭では思い当たるはずもなかった。
「大将、こんなとこで立ち止まってどうしたんだ」
「えっと、なんかいい匂いがしたから、どこだろうと思ったんだけど、全然分からなくて」
 後ろから声をかけられ、審神者が厚藤四郎へ苦笑しながら答えると、厚も匂いとは何なのか、と首をかしげた。厚が廊下を歩いている最中は、審神者の言ういい匂いには出くわさなかったのだ。
「んー、何かは分からないけど、臭いよりはいいってことにしておこうかな」
「そうだな。あと、大将の手に持ってるそれ貸してくれ」
「これくらい大丈夫よ。厚これから内番でしょうに」
「そう言って、前に歌仙に怒られたばっかだろう」 
 呆れながら言う厚の声に審神者は、嗚呼と思いだす。もはや、本丸では習慣のような光景だ。どちらが主なのか知れたものじゃない。
 歌仙の名前が出てきたことで、審神者は思わず怯んだ。厚もそれを狙ったとばかりに審神者が手にしていた大量の紙束を手に取った。審神者が持っていた紙束は書物もいくつかあったのだが、かさばる大きさのものばかりで、前が見えにくくなっていた。
 この本丸で審神者はそれほど多くは語らない。
 刀剣たちに多くを指図するでもなく、語るでもなく、介入するわけでもない。不思議な距離感で接していた。そのせいか、今のように誰かに頼めば一緒にやってくれることまで、一人で片づけてしまおうとする。
 それを諌めるのが初期刀である歌仙だ。度々目撃される歌仙と審神者のやりとりはすっかりこの本丸に馴染んでいる。厚が見たことのある光景もその一つだ。
「重かったらごめんなさい」
「これくらいなんともないぜ」
 手元がすっきりとした審神者は申し訳なさそうに言う。厚は何ともないように笑ってみせた。厚は審神者が当番として決めていた手合わせまで同行してくれた。武道場まで行くと、今日の手合わせ相手だったにっかり青江が驚いた表情をして待っていた。
「へえ、珍しい組み合わせだねえ」
「おう! 待たせて申し訳ないな」
「いいよ。おかげで面白いものが見れたよ」
「青江、私は見世物小屋ではないのよ……。 その表現止めてもらえない?」
 げんなりしながら審神者が言うと、青江は言外だなあと何も聞いていない。しかも愉快そうに微笑みを浮かべた。青江の様子に審神者はもう何も言うまいと口を閉ざすことにした。
「厚、ありがとう。助かったわ」
「いつでも頼んでくれよ、手伝うからな」
 審神者は厚から再び預かった紙束を床に置いて整理を始める。このまま持っていくのでは最初と全く変わらないからだ。巻物やきちんと製本された書籍を大きさごとに並べかえ、大きいものは下に、小さいものは上にと揃える。
 審神者が鍛錬場の隅で整理をしている間に、厚と青江は手合わせを開始した。短刀と脇差。それぞれの力量は、本来の性質からいって異なるものだ。練度の近い二振とはいえ、打撃の強さは脇差が一段上である。しかも、厚の相手である青江は大脇差。そもそも大きさからいってかなりの差が出てしまう。
 それなのに審神者が指名するのはこれが初めてではなく、何かと二振を手合わせにあてていた。リーチの差など、これまでの戦績を考えると戦場ではそれほど障害になっていないせいか、彼らも普通に行うので、審神者も気にとめていなかった。
 資料を整理しながら、ふと顔をあげた時、厚のいくぜー! のかけ声が入って青江の懐へと潜り込む。その素早い動きに青江の反応が一瞬遅れ、長い髪が派手に四方へ揺れた。一歩引き下がるより先に厚が短刀の切っ先を青江の胸元へと向けた。
「俺の勝ちだな」
「本当、上手いよね」
「一兄に色々叩きこまれたからな」
 にかっと太陽みたいに眩しい笑顔で答える厚に青江は、次はどうしようかと思案しはじめる。次こそは勝ってみようと思うのだ。
 一休みに入る二振を横目に審神者は資料をようやくまとめきり立ちあがった。最初に手にした時よりも幾分かは視界もすっきりし、安定して持っていけそうだ。とん、と手で書籍の背を揃えて、鍛錬場を出ようとすると今度は審神者の横に青江がやってきた。
「君さ、頑張りすぎてない? 僕らに無理強いはしないけど、自分をもう少し労わったらどうかな。心配している刀剣も多いよ」
 厚に聞こえないくらいの小さい声で、手短に言う青江に審神者は力なくありがとうと答えた。誰にも気づかれていないと思っていたが、周りはそうでもなかったらしい。ガツンと突き刺さる青江の言葉に、審神者はもう一度しっかりせねばと背筋をぴんと伸ばした。武道場から審神者の後ろ姿を見送った青江が、そうじゃないんだけどな、と呟いたが審神者の耳には届かない。
「青江?」
「ああ、始めようか」
 厚に声を掛けられ、二振は再度白刃を交えることとなった。

 本丸の昼間は各自に割り当てられた仕事をこなすことが多く、本丸内はそれほど賑やかではない。むしろ静かなくらいである。今日もいつもと同じ静けさだと思いながら、審神者は執務室へ向かう。真っ直ぐと伸びた慣れた廊下を進み曲がり角をいくつか通り過ぎれば、本丸奥の奥に位置しているのが、審神者が仕事部屋としている執務室だ。障子を開け、書類が雑多に広げられた大机へと手にしていた書物を置いた。
 今度は電子機器を移動してきて大机に設置する。煩雑に広げられた書類は適当に一つにまとめ、電子機器の隣へ弾き、持ってきた書物の一つを開く。
 持ってくる前にお目当てのページには付箋を張り付けしていたので、すぐに開くことができた。
自給自足でアナログな生活に慣れたのか、なんとなく電子機器だけでのやりとりは落ち着かない。機器を起動させ、報告書の書式を展開する。画面にさっと表れるまっさらな報告書を見て審神者は、誰もいないことをいいことに盛大なため息を吐いた。
 報告書へ昨日の報告を入力していく。昨日はいつも通り、何もなく無事に終了している。戦績もまずまずというところだ。
 三十分程で報告書を作成し、明日の部隊編成を考える。出陣・遠征・演練と三つの部隊編成を行う。これはさきに審神者がしている業務だ。最後の確認で歌仙と燭台切を交え、最終決定としている。
大体できあがったところで、内番・その他の当番を動かす用に手書きのメモを作成しそれが終わる頃には内番に割り当てられていた刀剣たちの喧騒が廊下を伝って執務室まで届く。
審神者も流石にお昼の時間だということに気が付き、万年筆を机に置いた。
ゆっくりと立ち上がり、廊下へ出るとまた、ふわっと朝と同じ香りがした。残り香みたいだと思えど、やはり思い当たるものが分からず、左右へ首を振って、一人廊下で首を傾げた。あの香りはなんだろうか。よく知っている香りの気もするが、それがどういったものかは頭の片隅をちらっと光っただけで、審神者の首をひねるばかりだった。
食堂として使用している大広間へ足を運ぶとすでに本丸に残っている刀剣たちが机にずらりと並んで座っている。
すでに食事を始めているものも多く、審神者も堀川に呼ばれ、そのまま彼の隣に座ることにした。
本丸での昼餉は簡単なものが出される。今日の場合は特に刀剣たちの数も少なく、厨房で動ける数も少なかったことからおにぎり、味噌汁、ほうれん草のおひたしとたくあん、白菜の漬物だった。
これがさらに少なくなると審神者と残った刀剣で厨房に立つしかなくなる。余談ではあるが、審神者の手料理が物珍しいということで楽しみにしている刀剣もいるとか、いないとか。
「主さん、ご飯食べているのに上の空って感じ」
「ちょっと考えごとしてたの。厚には話したんだけど、気になっている香りがあって、それが全然分からないの」
「それってどんなの?」
「んー、上手く伝わらなかったら申し訳ないんだけど、香水みたいなものじゃなくて、こう、ふわっと香るの。お花っぽいような、でも、あんまり強くなくて」
「主さん、それってお香とかじゃない? 誰か、使ってたのいたっけなあ……」
「それなら歌仙が最近部屋でよく香を焚いてるぞ」
 堀川が顔に手をあてながら思案していると、堀川の隣にいた山姥切が答えた。
「歌仙? 私なんて最初の頃から一緒だったけど、そんなの全然知らなかった」
「確か、ここ最近凝っているらしい。遠征の帰りに寄った店で選んでたぞ」
 つい二週間前から山姥切、歌仙の他、比較的本丸の中でも練度の高い刀剣たちで長期遠征をお願いしていた。まさかそんな趣味を増やしているとは審神者は思いもしない。言われてみれば、長期で本丸を離れるのに出かける時は楽しそうだったなと、玄関先でしたやりとりを思い出す。
 しかし、今日は出陣で朝から本丸からいない上に、今日初めて気がついた香りだ。審神者が頭をひねって考えていると答えをくれたのは、またもや山姥切だった。
「今日、歌仙の部屋の前を通らなかったか?」
「……通っ……たと思うわ」
歌仙の部屋は審神者の私室の隣にある。
普段、日中にその部屋の付近まで行くことはないが、今日はその先にある書庫に入り用で向かったから一度は確実に前を通っているはずだ。
「なら、朝焚いてた残り香だろう」
「そんなしょっちゅう焚くものなの?」
「さあ。俺は知らないが小夜とか知ってるんじゃないか?」
「そっか。でも、歌仙が帰ってきたら聞いてみるわ」
 そのほうが早いことはよく分かっていた。それぞれが食事を終え、審神者が最後の一人になる。がらんとした広間で、鮭入りのおにぎりを頬張りながらゆっくりと気になっているあの香りを思い出してみた。
 審神者は特に香に詳しいわけでも、歌仙の言う雅や風流の理解に乏しい。いつも歌仙に呆れられてばかりいる。彼が唯一誉めてくれる審神者の趣味は、庭に咲き誇る花々とそれを本丸内に飾ることくらいだろう。
 食事を終える頃には、審神者も頭を切り替えて、また執務室へ戻る支度を始めるのだった。

 おやつごろに戻ってきた部隊は、意気揚々と玄関に賑やかさをもたらした。この本丸の第一部隊の帰還だ。その中にはもちろん歌仙もいた。玄関先でそれぞれが和気あいあいとしている。遅れて玄関にやってきた審神者は、部隊長だった鶴丸から今日の出陣の報告を玄関の隅で聞くこととなった。
「お疲れ様」
「おう。今日も上々だったぞ。あと、資材がいくつか手に入った。この間刀装が少ないと言ってたから使うといいんじゃないか」
「わかったわ。他のことも細かく聞きたいから、手入れのあと部屋までいいかしら」
「君の部屋まで行けばいいんだな。今日は少し時間がかかるかもしれないが」
「大丈夫よ。そこまで急ぎじゃないし、ゆっくり聞ければいいかなと思ったのよ」
 鶴丸といつものやりとりをし、くるりと向きを変えると歌仙が無言で立っていた。思わず息をのんだ審神者だったが、にこりとしながら出陣を労う。
「お疲れ様。そんな怖い顔してどうしたの」
「いや、主もそんな顔をするのだなと感心していただけだよ」
「なんか変な顔でもしてたかしら」
 怪訝そうに審神者が聞くと、歌仙はふふと笑って誤魔化す。
「君は知らなくてもいいさ」
 無表情だった時とはうって変って上機嫌に話す歌仙はさっさと本丸の中へと進んでしまう。よく分からず、審神者は首を横に傾げた。困ったことに歌仙には聞きたいことがあるのだ。
「もう、さっさと行くなんて……」
「ほら、主さんもさっさと追いかける!」
 堀川に肩をポンと押され、審神者はちらりと堀川を見やる。にこりとしている彼に負け、審神者は歌仙の背中を追いかけるように、玄関を後にした。
 審神者は歌仙の部屋へ行くまでに、脱衣所に立ち寄った。刀剣達が帰還したばかりの本丸は忙しない。案の定、土埃を払い落す刀剣たちも多くいたが、気にすることなくタオルと湯を張った桶を手にする。
 湯が冷めぬうちにと、なるべく早足で本丸内を歩けばものの数分で歌仙の部屋の前へと辿り着く。
「歌仙、いいかしら」
 障子の前で一呼吸を置いて、審神者は声をかけた。いつも歌仙が審神者の部屋の前でするように、審神者も真似てみただけだが。すっと、障子を開けて入ると戦支度を解かないまま、手には湯のみを持っていた。優雅に休憩をしていたらしい。
「思ったよりも早くやってきたね」
「そういうところ、やっぱり好きになれないわ」
 審神者の行動はお見通しだったらしい。審神者は観念して、タオルを桶へと滑らせ水分を含ませた。よく絞ってから歌仙へ差し出す
「だって、帰ってきて真っ先に僕を訪ねるのなんて君くらいしかいないじゃないか」
「軽傷でもないからって、すぐに部屋に行く癖は直らないの? 一応外に出てるんだし、湯船につかるくらいすればいいのに……」
 審神者が小言を並べると、歌仙は苦笑した。歌仙から小言を言うことは多いが、審神者からは、あれこれと滅多には言われないのだ。タオルを受け取り、土汚れを拭う。湯にくぐらせてくれたおかげでほんのりと温かいタオルが心地いい。
 審神者は歌仙が豪快に汚れを落としていく様を見ながら文系名刀とは、と幾度となく脳内で議論したことが飛び交った。もう今更な考えだった。
「それで君はどうしてここに来たんだい? 何か用があったのだろう」
 歌仙は大体汚れを落としきったところで、新しい茶を審神者に差し出しながら聞いてきた。審神者は何の為にここに来たのか、小言を言う為だけじゃない事は歌仙にはお見通しのようだ。
「気になっている香りがあって、聞きにきたの。……山姥切が歌仙じゃないかって、言うからだけど」
「なるほど、君にしては随分と考えたようだね」
 楽しげに言う歌仙はおもむろに立ち上がり、部屋の隅にある戸棚から何かを取り出した。彼の手に収まるほどの小さな木箱だった。審神者の元まで戻り、木箱のふたを開ける。
 中には小さな巾着袋が三つ丁寧に収まっていた。それぞれ、緋色・山吹色・縹色と異なる色の巾着袋だ。審神者にはそれがまるで何かは分からない。
「これ何?」
「匂い袋っていうんだ。嗅いでみるといい」
 歌仙に差し出された緋色の匂い袋を受け取り鼻に近づける。すると、ふわりと香る匂いに審神者は覚えがあった。
「この匂い……」
「きっと君が探していたのはこの匂いだろうと思ってね。それはあげるよ。箪笥の中に入れておくといい」
 審神者の手の中にある匂い袋を指差しながら歌仙は言う。
「歌仙、いつから香にこだわっていたのよ」
「この間、君から遠征を言い渡された時だよ。思ったよりも進みがよくて帰りに寄った店で見つけたんだ。朝、少し焚いてから出かけたけど、まさか君が気にしているなんて思ってもみなかったんだ」
 歌仙が目を細めて言う姿に審神者は頭の中で疑問符が飛び交った。何の意図もなく、気に入っている香を焚きしめたらしい。今日一日中、香りのことで頭の中がいっぱいだったのに歌仙はふふ、と笑って楽しそうだ。
「私がこんなに考えていたのに、全部無意味だったみたい」
 審神者が頬を膨らます。幼い子どもが見つけたおもちゃが大して面白くも無かった時のような反応だ。
拗ねているわけではないが、想像していたよりも容易く誰のものか判明した。ただ、それだけのことだ。
「でも退屈しなかっただろう?」
「ええ、そうね。おかげでこのことばかり考えてたわ。歌仙は相変わらずタチが悪い」
「僕はそんなつもりじゃなかったのだから、仕方ないよ」
「そんなの分かってるわよ」
 歌仙は茶の入った湯のみをちゃぶ台に置きながら苦笑した。審神者も頭では理解しているが、やはり先手を打ってくるこの初期刀には勝てないのだ。
「それじゃあ僕は湯殿へ行くけど、君はどうする?」
「私は執務室に戻るわ。きっと、鶴丸が戻ってきていると思うし、まだやらなければならない仕事があるので」
「次会うのは夕餉の時になりそうだね」
「そうでしょうね。鶴丸の報告が早ければ、私も夕餉のお手伝いに行けると思うから」
 待っているよ、と茶化すように言って、外した外套を手に、歌仙は部屋を出ていく。出ていく間際に残り香がふわりと鼻腔を掠める。ゆらり、部屋の隅には香が焚かれていた。審神者はそれに気がついたものの、不思議と落ち着く香りで、思いだしたかのように手にした匂い袋を袂に入れて、己の執務室へ戻ることにした。
 執務室に箪笥はない。この部屋はあくまで仕事をする為の部屋で、私物をほとんど置くことが無いため、戦績の通知を納めた箱に匂い袋を入れた。
「邪魔するぞ」
「どうそ。今日もお疲れ様」
 怪我ひとつ、それこそ戦装束にほこり一つない状態でやってきたのは鶴丸だった。審神者は近くにあった座布団を鶴丸に手渡す。この本丸では部隊長の話を聞きながら審神者が報告書をその場で書きあげる為、少し時間がかかるのだ。
 時間を要するのは日常的なので、鶴丸は湯のみを二つ持ってきてそれぞれの手元に置く。
「そういえば、君随分熱心に探し物をしていたらしいじゃないか」
「え、なんでそのこと……」
「堀川から聞いたぞ」
 楽しそうに話す鶴丸は、次の驚きとやらを探していたのだろう。使えると思ったのかもしれない。
「残念。もう、見つかったわよ」
「なんだ。折角、一緒に探してやろうかと思ったのに」
「また何かあった時には声をかけるわ。それよりも、報告してもらってもいいかしら」
「ああ」
 他愛ない会話もそこそこに今回の出陣について事細かに尋ねる。審神者が戦場に出られない代わりに部隊長が漏れの無いように覚えておく必要があるのだ。
最近でている地域は練度の高い部隊で赴いている。慣れない戦場への出陣はリスクが付きまとう。必然的に安全策を講じると、練度の高い刀剣で組んだ部隊になる。今後の出陣の参考にする為にも、よく記録を残す必要があった。時折、鶴丸が持ってきてくれた湯のみに口をつけながらも、報告書が完成したのは日も暮れた頃だった。すでに湯のみは冷え切っている。
「随分かかってしまったわね。ありがとう」
「気にするな。これも部隊長の務めだろう?」
「そう言ってくれると助かるわ」
 緊張が解けた審神者は鶴丸との会話に朗らかに相槌を打つ。報告書を政府へ送信し、電子機器の電源を抜く。ここまで終えるとようやく、今日一日の任務を終えた気分になれるのだ。
「そうだ、厨房行かないと……。まだ、確認してないことがあったんだ」
「俺も一緒に行こう」
 日暮れになったということもあったが、まだ翌日の編成の最終確認が終わっていないのだ。
鶴丸と一緒に厨房へ向かう途中、審神者は思わぬことを聞かれることとなった。
 誰もいない、しんとした廊下を歩きながら鶴丸は気になっていたことを聞いた。執務室に入った時の話しを蒸し返すわけではなかったが、一つ気になっていたことがあったのだ。
「君、何を探していたんだ?」
「ああ、さっきのことかしら。香りの元を探していたのよ。あっさり判明したんだけど」
「それで歌仙のとこに行ってたのか」
「そこまで知っているのなら、鶴丸、私に聞かなくても良かったんじゃないの」
「君から聞くから意味があるのさ」
 新しいことに興味の尽きないこの刀剣は審神者の機微に敏い一面も持ち合わせている。自らは多くは語らない審神者に鶴丸は苦笑しながらも、初期刀と会話をしている審神者を見る度に、ただの主従ではないと感じていた。
 別段、隠し事をしているつもりはないが、歌仙とするやりとりはどの刀剣達も一目置いているようで、それに気がついてからと言うものの、審神者は一層語らないのである。
「まあ、大体は山姥切から聞いたからな。歌仙がどうしたのかは想像がついたが、先程執務室に入って核心したんだ」
「……勿体ぶらなくても、私は怒らないわよ」
「おっと、焦りは禁物だぜ。歌仙の奴もようやく本腰を入れたという処だな。彼にしては随分ゆっくりな気もするが、相手は何せ君だからなあ」
「え?」
 思わず間抜けな声が出たのは仕方がないことだった。審神者は訳が分からぬまま、鶴丸の話を聞いていたわけだったが、審神者が予想していたものとは異なっていた。
 香りについて核心を突かれるものかと思っていたのだから、審神者としては事の展開について行けてない。鶴丸が愉快そうに続けようとしていたので、思わず歯止めをかけた。
「待ってちょうだい。一体何の話よ」
 制止を掛けられた鶴丸は目を丸くし、それから何とも形容しがたい苦い顔をした。
「それは君自身で気がつかないとだろう。まあ、彼も長期戦のつもりみたいだがな」
 会話が中途半端なまま、ちょうど厨房の入り口が見えてきたところで鶴丸は強引に話を切り上げてしまった。
審神者は会話の意味が分からぬまま、厨房の入り口に吊るした朱色の暖簾をくぐる。
 歌仙が、もう終わったのかいと声をかけてきたことで、審神者はようやく現実に向き合わされた気がして、先程鶴丸との会話を無視するように歌仙との話で気を紛らわすことに決めたのだ。
 審神者の様子を見て、鶴丸が苦笑したのはほんの僅か。厨房にいた燭台切に声を掛けられ、彼もまたさっきまでのことは無かったかのようにお茶らける。
 鶴丸は執務室に入った時、審神者から今まで香ったことのない香りに素早く気がついた。その正体が何かも、誰の仕業かも理解できた。それでもあえて確信めいて言わないのは、気がつかなければいけないのは、本人達でないと意味がないからだった。
 出来上がった味噌汁の香りに誘われながら、目と鼻の先にいる審神者の柔らかい笑みに、鶴丸は再び苦笑しながらも慈愛に満ちた視線で見つめるのだった。