見えない羽根

 もうすぐ盆の入りだとこんのすけが審神者に告げた。もうそんな時期になっていたのかと審神者は思った。再びやってきた季節。盆は此岸と彼岸の境界線が曖昧だ。この時期だけは、なんとなく審神者という職務が重たく感じる。
 時の政府で務めている審神者という職は、人々の願いのこもった物の想いを起こし、人型へと具現する職務だ。具現化された物は、刀剣男士と呼ばれる刀の付喪神だ。付喪神とはいえ、神の末席。霊力の高い刀剣や、幽霊・あやかしとの縁がある刀剣は殊に彼岸に近いだろう。
 審神者が見えないものまで見通してしまうだろう。そのことを考えると背筋が凍りそうになる。
「おや、まだここにいたのかい」
「歌仙」
 執務室までやってきたのは、歌仙兼定だった。
「僕が戻ってから随分経つのに、顔を見せにこないと思ったら」
「さっきまでこんのすけと話してたのよ」
「こんのすけと? 君があの狐と話しているのは珍しいね」
 審神者はこんのすけと必要最低限しか話さない。審神者がこんのすけの姿を見かけない限りは、どこにいるのか知らないほどだ。
「お盆の入りという話をしていたのよ。ここで迎え火をするようなことは何一つないのに」
 審神者は縁側から見えるひまわり畑に目を細める。
「あれは人の文化だからね。現世にいたころはちゃんとお迎えをしていたのかい」
「まあ、一応は。手順は祖母から聞いたからやり方も知っているけれど、今は審神者としても職務もあるし、わざわざ彼岸に近づくようなことはしないわ」
 審神者の投げやりな物言いに歌仙は悟る。
 あくまで審神者と刀剣男士は人と人ならざるもの。刀剣男士が対峙するのは、歴史修正主義者が差し向けた時間遡行軍、あるときは検非違使。やはりこれらも、人ならざるものである。
 加えて審神者は常日頃から刀剣男士たちと一緒だ。一般的な人に比べ、彼岸に寄った人といえるだろう。
審神者が初対面の刀剣男士から冷たいと評されるのは、無意識による深層心理が反映された態度もあるのだ。
歌仙が初めて審神者と出会った第一印象はそれほど悪いものではないのだが、どうにも数が増えていく本丸では様々な印象を抱かれる。これでも、かなり緩和された方ではあるのだが、本丸にきたばかりの刀剣男士にわかれと言うのはむごい話だった。
「ところで主は出かける準備はできているのかい?」
「時間決めてなかったじゃない……」
「僕が帰ってきたら、って言っただろう」
「分かってるわよ。着替えてくるから、玄関でいいかしら」
「ああ。待っているよ」
 花が綻ぶような笑みをした歌仙は部屋を出ていく。審神者も執務室から私室へと向かった。
 私室で服を取り出しながら裾を通すか通すまいか悩んでいると、障子の向こうから声がかかった。
「主入っていい?」
「ちょっと待って……」
 急いで着替えた審神者は障子を開ける。声をかけてきたのは内番姿の加州清光だった。手には何かを持っている。
「可愛い。主ってば、もっと洋装もすればいいのに」
 つい先日誰かに言われた言葉と同じことを加州に言われてしまう。
「髪やってあげるからさ、鏡用意してよ」
 加州に言われた通り審神者は鏡を机に用意し、その前におとなしく正座した。
「加州、どこで聞きつけたのよ」
「あー、まあ、みんな知ってるんだよね」
「どういうこと?」
 加州は気まずそうな声音に審神者は背筋が強ばる。前田は昨日、歌仙から聞いたとは言っていたけれど、それは歌仙と前田の付き合いだからだろうと勝手に思っていた。
 それに、歌仙はあれこれと吹聴することはしない。
「……主と歌仙はさ、少しも隠すつもりないじゃん。だから知ってるの。俺からすれば、主の様子から分かるって。昨日すごく嬉しそうだったし。桜が降ってる時とよく似ているんだよねー」
「そんなにわかりやすいつもりはないのだけど……」
 審神者がぼやくなか、加州は髪をまとめていく。最後に加州が取り出したのは、桜色の絹紐だった。蝶々結びにされて、頭の真ん中辺りから、伸びた紐が垂れ下がる。
「はい、完成」
「ありがとう。加州は器用ね」
 審神者が振り向いてお礼言うと加州は得意げな顔をしていた。鏡を片付けて持ち物を用意してから、審神者は加州と一緒に玄関へと向かう。なんでお見送りをしてくれるらしい。
 廊下を歩いていると、おや珍しいねと言って石切丸が通りかかった。
「へえ、珍しい。君でも洋装をするんだね」
「主、可愛いよね」
 加州は審神者の肩に手を置いて自慢げだ。
「うん。可愛らしいね。たまには歌仙に見せるのかな」
「石切丸まで知っているの?」
「私は青江から聞いてね。さっき、今剣も教えてくれたよ」
 いつもと変わらない穏やかな口調で続ける石切丸に審神者の顔は沸騰寸前なほど熱くなる。どうしてこうも、皆に知られているのか。歌仙と外出の約束をした時は確かに周りには誰もいなかったのに、なぜか本丸中で知られている。
 加州が審神者の隣で、内緒ね、なんて言ってくれているけれど、擁護するには遅すぎる。せめてもっと前から皆にして欲しかったほどだ。
「楽しんできてね」
 楽しそうな表情で言われた審神者は、恥ずかしさでこのまま部屋まで戻りたいほどだったが、なんとか玄関までたどり着いた。
「おや……主、この間も洋装だったけれど珍しいね」
「あーもう、そういうのいいからほら、出かけた出かけた」
 目を丸くしている歌仙をよそに加州は審神者を玄関へ押し出し、歌仙へ目配せをする。歌仙は苦笑しながら審神者の手を取って、玄関の戸を開けた。
「日が傾いてきたとはいえ、まだ暑いね」
「……風もないし、歌仙も少しくらい涼しい格好すればいいじゃない」
 審神者は歌仙のいつもの格好を見ながら、暑そうだと思った。あまり汗をかいているようには見えないが、本丸の中以外で、崩れた格好をしたがらないこの刀剣男士に言っても無駄なことは前から知っていた。
「歌仙、今日はどこ行くの?」
「ああ。今日は暑い日にはぴったりな場所だよ。この間遠征の帰りに見つけたんだ」
「……また寄り道してたのね」
「たまにはいいだろう。君だってすぐ寄り道したがるじゃないか」
 歌仙は小言を言いながら、審神者を横目に見た。審神者との問答はいつものことだが、問題は今日の格好だった。加州が審神者を連れてきた時にまさかとは思ったが、彼女が洋装をしてくるとは思いもしない。
 実のところ、歌仙が審神者の洋装を見たのは、ほとんどないと言って間違いなかった。昨日だって、審神者が現世へ行くと知った時にはすでに本丸に姿はなく、大門の前で待ち構えたほどだ。帰ってきた時に見た姿に驚いた。ふわふわと歩く度に揺れる足下の裾が目に入って、気になって仕方なかった。裾から伸びた素足に危ういと何度思ったか。正直なところは言えなかった。
「昨日はどうして向こうへ出かけていたんだい?」
「前田達に誘われたから行ったのよ」
「それであの格好かい」
 歌仙は審神者について現世に行ったことがあるが、そのときはいつも見慣れている着物姿だった。歌仙が審神者の洋装をみたことがあるのは、昨年の夏、久々に彼女が家族のもとへ帰省することになった時だ。行きと帰ってきた時なので、時間も短い。
 ある意味貴重な姿になっていたわけだが、どうして前田達と出かける時にするのだ。歌仙は心の内での疑問が出る度になんとか自分自身を落ち着けていた。
「やっぱり、洋服は着ない方がいいかしら? たまにはと思って久々に袖を通してみたのよ」
「……いや、そうじゃなくて」
 審神者は歌仙のほうへ顔を上げたが、歌仙は視線を逸らしてしまう。じりじりと肌を刺すような日差しを受けながら、審神者は歌仙の言葉を待った。今、聞かなければ次はないような気がしたからだ。
「君が、そういった……肌をさらす格好をするのは、僕にとって、その、心臓に悪いよ。」
「……似合ってるかどうかは言ってくれないの?」
 審神者は歌仙の着物の袂を掴んだ。歌仙が審神者と視線を合わせてくれない理由がわかったが、やはり似合っているかは言ってくれない。不安そうに見上げると、観念したのか歌仙はようやく目を合わせてくれた。
「言わなきゃいけないかい」
「歌仙は服装に興味がないのかと思ってたわ」
「興味がないわけじゃないさ」
「それなら」
 いいでしょ、と続けようとした審神者に歌仙は、いつもの外套を肩に掛けた。文句を言おうにも歌仙に肩を押さえられてしまい、外すこともできない。
「暑いわよ」
「そうだろうね。まったく、僕は本当に君に甘くて困るよ」
 どこが甘いだ。審神者は内心悪態づいた。出会った日からずっと小言と押し問答を続けているこちらからしてみれば、甘いなんて言葉は、彼に使えるだろうか。甘い時よりも、小言を言われている時間の方が長いはずだが、一体彼はどこからその言葉を引っ張りだしてきたのだ。
「君の服装に何も言わなかったのは、ずっと似合っていたからだよ。君は美的感覚がいいみたいで、僕は気に入っていたんだ。それなのに、昨日は珍しく洋装をしたなんて聞いてないし、帰ってきたら驚くような格好だったし、今もそうだ」
「結局、いいのか悪いのか分からないわ」
「これでも分からないのかい」
 信じられないとでも言いたげな歌仙の表情に、審神者も文句の一つや二つ言いたくなるものだ。
「いいさ、君のそういうところは今に始まったことじゃないからね」
「褒められてる気がしないわ」
「君は褒められたいわけじゃないだろうに。今日の格好は可愛らしいけど、あまり人の多いところには行って欲しくないね。とりあえず、今日はそれを羽織ってくれないか。僕からのお願いだ」
 困ったように微笑んだ歌仙に審神者は仕方なく頷いた。審神者は意外と歌仙から、お願いだと明言されると弱いところがある。言っている意味も理解できた。だから、せっかくの歌仙との外出を嫌なものにしたくなかった。褒めてくれればそれで良かったのだから。
「わかったわ。今度は格好も少し考えるわ」
「本当かい? それは嬉しいな」
 軽くなった足取りの歌仙につられて審神者も軽い足取りで歩き始めた。
 万屋へ行くときと同じ方角へと向かっていたが、今日は万屋じゃないことは歌仙の言葉から明白だった。
 夏の日差しに照らされた小道は眩しくて仕方ない。少しでも日陰の場所を探して歩く。木陰を辿っていると、いつもは気がつかない風景を発見する。何度も通っている道でさえ、知らないものがあると審神者は関心した。
 木陰の先、雑木林の方へ目をやるとせせらぎが走っている。どうりで、木陰の割に涼しいと思うわけだ。夏草が青々と伸びていて、踏みつけてもすぐに持ち上がりそうなほどに柔らかだった。
 本丸の中でもすぐに緑に出会うことができる。年間を通して飽きるほどに見れる草花のおかげだ。どの本丸を見ても、自分の本丸ほどに草花の咲いている本丸はないだろう。
「帽子持ってくればよかったわ」
「案外距離もあるからね。目的地は万屋より少しだけ先だから、万屋についたら一度休憩にしようか」
「そうね。こうも暑いと倒れそうだし、それじゃあ元も子もないわ」
 審神者は肩に掛かった外套を直しながら道の先に見える街並みを見やる。暑い日に歩くのは自分が思っているよりも体力の消耗が激しい。帽子でもあれば、多少の日差しを避けることもできたが、出かける間際まで考えごとをしていたせいで、すっかり頭の中から抜け落ちていた。
 視線の先に見える景色が遠かった。


 歌仙と他愛もない会話をしながらようやくついた街で休憩をすることになった。茶屋ののれんをくぐると心地良い冷気に、中の方が快適だと審神者も歌仙も悟った。
 冷房の効いている茶屋の入り口すぐの棚には使用自由な膝掛けもおいてあり、審神者は店員の案内にすぐついて行ってしまう。歌仙は苦笑しつつ上にある膝掛けを一枚とって、審神者の後をついていく。
「主、これ良かったら」
「ありがとう。膝かけどこにあったの?」
「入り口の横にある棚だよ」
「気がつかなかったわ。寒くなったら使うわね」
 歌仙は席について審神者とメニューを眺める。さすがに夏の強い日差しに喉もからからで店員が持ってきたお冷に手を伸ばした。喉を下っていく水が染み渡っていく。
 暑さを拭いきれないせいか、かき氷の文字と写真がとてもおいしそうに見えて仕方ない。いつもなら、抹茶とあんみつのセットにするのに、暑さで溶けそうな今は食べる気力は湧き起こらなかった。
「主は決まったかい?」
「まだ……待ってちょうだい。今すごく悩んでいるのよ」
 悩ましげな声で審神者はメニューとにらめっこをしていた。悩んでいるのは、どうやらパフェとかき氷のようで、メニューの頁を何度もめくっている。
「僕はかき氷に決めたよ」
「ええー。歌仙がかき氷ならパフェにしようかしら……」
 不思議そうに歌仙が審神者を見つめると、審神者も気がついたのか、どうしたのと聞かれる。
「歌仙がかき氷なら一口もらおうかな、って思っていたんだけど……」
「じゃあ、それなら僕も君から一口いただくとしよう」
 結局互いに違うものを頼むことにしたのだった。
注文したものがそれぞれくると、まずは一口頬張る。審神者が美味しいと嬉しそうに言う姿を見ながら歌仙もかき氷を頬張った。
 ざくざくした目の粗い氷ではなくさらさら、ふわふわとした氷は、口の中に入れるとさっと溶けてしまう。キンと冷たいが、決して嫌なものではなかった。
「主、口を開けて」
「え、はい」
 何食わぬ顔で口を開けた審神者にかき氷を差し出した。
 スプーンに多めに乗せた氷に驚いたのか審神者は目をぱちくりとさせた。
「これは多くない?」
「でも食べるんだろう?」
 結局、審神者は大きい一口を開けて食べた。
「冷たい……」
「氷だからね」
「はい、じゃあ私からね」
「白玉とあんことクリームが欲しい」
「はいはい」
 歌仙の注文に審神者は器用にスプーンで白玉とあんことクリームを掬いとる。白玉を土台にクリームを添える形をとった。柄の長いスプーンを歌仙の口の前へ運ぶ。ぱくっと一口頬張る歌仙の顔は極上の笑みを浮かべていた。
「ああ、ここのパフェはおいしいよね。特にあんこが最高だよ」
「歌仙いつもあんみつ頼むもんね」
 何度となく足を運んでいる茶屋は、歌仙と行き始めたのが最初だ。歌仙のお気に入りがあんみつなのは勿論知っているし、審神者も注文をしたことがあった。甘すぎないあんこ、こくの深い黒蜜が絶妙で食べたらやみつきになるのは間違いないので、本丸内では割と好んで入る刀剣男士も多い。
 審神者は直接的にはあまり聞いていないが、遠征帰りに寄ることが多いような話も聞くので、思い思いに楽しんでいるのだろう。


 涼んだところでお会計を済ませて目的地へと再び歩き出す。今日のような暑い日にはぴったりだと言う場所はどこだろうと審神者が考えていると歌仙は審神者の手を引く。小道をそれて脇道へと入っていく。
 夏の日差しを大きく上へと伸びた広葉樹林が遮って、柔らかい木漏れ日が溢れている。細かい日差しとなって、地面へと降ってきていた。少しだけ涼しく感じられた。
 舗装も、整備もされていない地面は雑草がにょきにょきと背比べをしていて、進んでも進んでもある。大木には苔が生えていた。小道をそれただけなのに、知らない森の中を進んでいる。昔、幼い頃の夏休みに祖母の家の周辺にあった裏山を探索しているようだった。
「この先は少し足場が悪いから少し気をつけて」
「まだ先なの?」
「ああ、疲れたかい」
「ううん。さっき休んだから大丈夫よ。早くしないと日が暮れてしまうでしょ」
 歌仙の言う通り進むと所々に大きい石が増えてきた。夏草の柔らかい地面からごつごつと足場の悪い道へと変化していく。時折歌仙に支えてもらいながら石場を歩いていく。ようやく視界の開けた場所へたどり着くと、地面がまた柔らかい夏草に変わる。
 変化の大きい道を辿りながら、歌仙はどうしてこんなところを知っているのだろうと思った。遠征の帰りに見つけたというが、一振りだけで外出する姿を目撃することはあまりないし、ましてや遠征に出すことがない。だからこそ、こんな秘密基地のような場所を知っているのだろうと、不思議でしょうがない。
 開けた場所の奥には上から随分と大きな滝が流れ落ちていた。滝が落下した先は滝壺になっていて、横からせせらぎとなって、小さな川を形成している。
 水があるせいだろう。今まで歩いていたどの道よりも涼しかった。滝水が細かな飛沫となってきらきらと木漏れ日に反射していた。
「すごいだろう」
「ええ。ここだけすごく涼しいわ。いつこんなところを見つけたのよ?」
「……僕が偶然迷い込んでしまってね。興味本位で突き進んでみたらここに出くわしたのさ」
「それは寄り道って言わないけど……歌仙らしいわね」
 審神者が呆れた口調で言うと歌仙はくすりと笑う。どうやら審神者の反応はお見通しだったらしい。
 再び真上を見上げると、滝の周りを囲うように成長した木々が覆っていて、木漏れ日が水面を反射させていた。眩しさに目を細めると頭上いっぱいに広がる、濃い緑、淡い緑、薄緑、黄緑、鶯色、様々な色を確認することができた。
「主、あんまり見上げていると疲れてしまうよ」
「……わかってるわ。もう少し、いいでしょ」
「倒れないようにしてくれよ。僕がいたのに皆に顔向けできない」
「じゃあ、歌仙も一緒に見ましょうよ」
 審神者は深呼吸をする。同じように緑の溢れる本丸とは全然違う匂いがする。苔むした匂い、土が半乾きの匂い。水分の匂いもする。どこまでも森が続いている匂いだ。この瞬間に審神者は違う場所にいるのだと感じとれた。
「どうして私を連れてきてくれたの」
「君に一番に見せたかっただけさ。それにいつもの本丸の池よりも自然に溢れているだろう? ここなら周りを気にせずに羽根休めできるよ」
 歌仙の、羽根休めという言葉に審神者は本当に彼にはかなわないなと思う。
 彼には審神者のことは全て分かってしまうのだろうか。
審神者は本丸内での振る舞いには多少、気を遣っているつもりだ。少しだけ背伸びをしていたい部分もあるし、自分自身で顕現させた刀剣男士を守りたいとも思っていた。刀剣男士たちは審神者よりもずっと自分の身を守ることはできるけれど、最悪の事態に陥った場合、彼らはきっと審神者を選ぶ。それは審神者にとって考えたくないことでもあり、立ち向かう必要があるときだろう。
しかし、審神者は自分が犠牲になることの意味も十分に理解しているし、覚悟もしている。冷たく見えるのは審神者の愛情の裏返しとでも思ってもらえればいい。人としてできることをするのが審神者なりの務めだ。――今のところ、死の予定など随分先の予定ではあるが……。
「歌仙ったら心配性ね。いつ私が我慢していると思ったのよ」
 つい言いたくなってしまうのは、歌仙だからだ。
「おや、見間違いだったかな。最近少し疲れているように見えたんだ。まあ、君は僕に関わること以外はわかりにくいのが玉に瑕だから、気づいてないのかもしれないね。まったく世話のかかる人だ」
 困ったなんて言うくせに歌仙は嬉しそうな顔をする。ゆるゆると締まりにない顔で、審神者の頬に触れる。頬を指先で摘まみながら審神者の頭上でくすくすと喉を鳴らして上機嫌だ。
「ほっぺたがよれよれになっちゃうわ」
「それは困るなあ」
 今度はすりすりと触れ方を変えてくる。猫がすり寄ってきたみたいだ。
「……私じゃなくて、歌仙の方が遠慮していたの間違いじゃないかしら?」
「どうだろうねえ」
 曖昧な返事しかしない歌仙に審神者は顔を上げると、相変わらず上機嫌な彼の顔だ。審神者は元々、過度なふれあいを好まない。今歌仙がしている仕草さえ、いまだに慣れないのだ。
 本丸の皆に知られたら笑われるだろう。そうでなくても、歌仙とのお付き合いが緩やかな速度で進むのにやきもきしているものもいるのだ。
「僕はいつでも構わないんだけど、そうすると君逃げるからね」
「それは歌仙が悪いわ。見世物じゃないんだから、時と場所を考えてほしいのよ」
 審神者のお願いを簡単に聞き入れてくれるほど甘くはない歌仙だが、彼としてはもう少し押していきたいところだ。力づくでどうにかする前に改善していきたいのだ。
 歌仙だって、審神者に嫌われるようなことはしたくないし、それこそ本末転倒だろう。生殺しにされるようなものだ。
「君がもう少し譲歩してくれるようになったら考えるのも悪くないね」
「……それは約束が難しい話ね」
 審神者の言葉に肩をすくめた。仕方ないなあと言いつつも、待つ気がないような声音にも聞き取れて、審神者はいよいよ喰われるかもしれないと思うのだ。
「主、もう少ししたら帰ろうか」
「そうね」
 日が傾き始めるとはいえ、夏の昼間は長い。夕暮れの時間も長いが、本丸の皆を困らせるわけにはいかない。
 審神者は再び滝を眺め、涼しいなあと感じるのだった。