こぽこぽと沈んでいく夢をよく見る。
 もがいても、もがいても上へ行く気配はなく、優しく沈められるように追い返されるのだ。きっと、浮かび上がった先にはあの子がいるはずなんだ。わかっているのに、なかなか戻れなくてしまいには沈んでいってしまう。
 ごぽりと沈んださきは真っ暗だ。ぷつりと意識を失ったところでいつも、目を覚ましてようやく現実を認識するのだった。

「及川さん休憩終わりですよ」

 意識が浮上してきたとき俺はソファに寝そべっていた。後輩が呆れたような声で起こしてくれて、午後一の患者のカルテをローテーブルに置く。ソファで眠ったせいか、少し寝癖のついた髪を手櫛で直しながらカルテを手にした。
術後の経過を確認しながらこの人はもう少しで全回復かなと考える。経過良好、それは何よりのことだ。
「ちょっと岩ちゃんとこ行ってくる」
「わかりました」
 外科病棟を抜けて、リハビリテーション科に向かう。まだ午後の診察まで時間はあるし、もしかしたら岩ちゃんはまだいないかもしれない。いない時はその時考えよう。病棟の廊下を歩きながら柔い光が窓から差し込んで床がきらきらと反射していた。基本的に白い院内は照り返しが直にきやすい。今がまさにその状況だ。ふわあとこっそり欠伸をして、リノリウムの廊下を歩いてリハビリテーション科の受付に顔を出した。
「岩泉さんなら、まだ休憩ですよ」
「そうみたいだね。ありがとー」
 おっせかいな同じ科の女の子が、岩ちゃんがいつもより遅くにお昼休憩に入ったことまで教えてくれた。仕方なしにリノリウムの廊下を戻る。今日は夕方には終わりだし、その時に岩ちゃんを捕まえよう。そう考えていると、白衣の胸ポケットに入れたPHSが鳴る。
「あれー?国見ちゃんどうしたの?」
「診察の時間とっくに迎えてますよ」
「……今行きます」
 あとで医務局の溝口君に怒られそうだなあと思いつつ自分の診察室まで向かった。

***

 診察が終わったのは午後6時を少し過ぎた頃だった。ロッカーまでへとへとになりながら向かってスマフォを手にした。
 通知がいくつか届いていて、お昼に会えなかった岩ちゃんからも連絡が入っていた。いつもの要点だけの連絡に返事をして、残りの業務の為ワーキングスペースに入る。ナースステーションでは夜勤のスタッフと遅番のスタッフが申し送りを行っていて、さらに奧にある医師のいるスペースは沈黙を決め込んでいた。
 手術予定の患者の容態のチェック、手術日の確認。他打ち合わせ予定などスケジュールはぎっしりと詰まっている。
 どれもこれも責任のある仕事だ。確認などを終えると、タイミングよく岩ちゃんが部屋に入ってきた。
「いたいた」
「もしかして食堂追い出されちゃった?」
「遅くなるなら言えよ」
「ごめん、集中してたら忘れちゃったよ」
「で。終わったんかよ」
「もうバッチリ!」
 約束の時間はとっくに過ぎていて、しびれを切らして岩ちゃんがここまで来るのは別に珍しいことじゃない。きりがつくまでやらないと気が済まないのは俺の悪い癖で、そのへんもよく分かっているみたいだった。
 病院を抜けて、駅にほど近いファミレスに入った。患者にはさんざバランスが取れた食事をうんぬんかんぬん言うくせに、医者はこの有り様だ。それを言えば岩ちゃんはこのメニューでバランスが取れればいいんだと言う。だけど、そもそもこれは健康的な食事ではないんじゃないかと言いたい。
 食事をしながらあれ見た、これ見たかなど仕事とは一切関係ない話をしていても脳裏にちらつく仕事の影はもう染み付いてしまったものだ。食事も一段落済んだところであることを持ち出してみた。
「岩ちゃん知ってる?」
「…何をだ」
「トビオが今度ICU来るらしい」
「ちょっかいかけんなよ」
「しないよ!」
 この間、医局で聞いたことだった。年若い天才外科医と評判の影山飛雄。トビオのことは研修医時代に物凄い勢いで技術を身につけていったのを間近で感じていた。天才は天才なんだとまざまざと知ることになった。今では難易度の高い手術の成功率も高く、今回は青城医大救命救急に異例の抜擢らしい。
これを聞いた時、俺は柄にも無く1つの可能性を考えてしまったんだ。
「ねえ、岩ちゃん。トビオなら名前を救えるかな」
「……」
「勘違いしないでよ。俺の手で救いたいのは変わらないんだから」
「んなのは、わかってんだよ。……及川、無茶すんなよ」

昔から言い慣れたように岩ちゃんは俺を咎める。トビオは俺の背後に忍び寄って、あっという間に超えた天才だ。俺とは違うことなんて大分前からわかってた。それでも、今回ばかりは気にかけないわけがないのだ。
名前のことは俺の中で何よりも大事で、医者になってからずっと彼女を救うことを考えていた。
そこに天才が来たなら、このチャンスまたとない機会だ。

「先言っとくが、よく考えろ」

別れ際、岩ちゃんがよく考えろと言った。つまり、決断にはまだ早すぎるらしい。
その日見た夢はやっぱりいつもの水中だった。

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