その夢を見始めたのはいつだったかもう、よくは覚えていない。
 気がついたら慢性的に見るようになっていて、これがいい事か悪い事かなんて考えることをやめていた。
学生の頃、特に中学の頃はひどかった。幸いマシだったことは、まだ水面から顔が出ていたことだろうか。
 必死に足のつかない中、波にもまれながらがむしゃらに前に進んでいた。今は、ただただ沈んでいくだけ。浮かび上がれそうになるときもあれば、光なんて届かないくらい沈んでいくこともあった。
 ごぽり、ごぽり。気泡が溢れ、また意識が沈んでいった。
 沈みゆく意識の中、最後に見えた一瞬のあの一筋の光はなんだったのか。今の俺に知る術はない。

 ベランダの柵に止まる小鳥が朝だと、俺を起こす。昨夜きちんと閉まっていなかったカーテンの隙間から朝日が差し込んで、今日の始まりを告げていた。部屋に飾ってある申し訳程度のカレンダーを除き込んでみても今日は今日。ちゃんと時を刻んで、1日1日をあっという間に侵食していく。このカレンダーを見るたびに、急げ急げとせかされているようで、妙に落ち着かないのだ。
 騒がしい喧騒のニュースを見ながら食後のブラックコーヒーを飲みこめば、熱くじわじわと流れ込んでいく。忙しい生活ではあるが、一応は健康にも注意はしている。健康でなければ自らが人を救うことは出来ないのだ。
 ふらふらっとのらりくらり生活をしている同期を思い出して、最近一緒に仕事していないなあと思い出す。それもそのはず。彼は売れっ子麻酔科医だ。いくら同期のよしみで、と言ってもなかなか予定が合う人材ではない。同期はみな、仕事のできる男なので全員が予定を合わせるのも難しいのだ。一人のことを思い出せば次々に考えてしまい、そろそろみんなで集まりたいなあとぼんやりと思い浮かべた。
 キッチンのシンクにマグカップをそっと置いて、玄関へ行く。
 忘れ物がないかどうか確認をして、玄関の壁に掛けた全身鏡で自分自身と対峙する。笑顔を作ってみて、今日も大丈夫と何の確信もないのにいつも思うそれに満足するのだ。
 慣れた道はいつもより人通りが少ない。なぜなのかと考えれば世間は夏休みだと思い出す。確か自分の夏休みはあと3週間は後だったはず。1ヶ月くらいずれての夏休みはしょうがないことだと諦めている。
生ぬるいビル風を感じながら歩く道は、湿気も混じり嫌にべとつく。
やっと院内に入ると涼しさがやってきて、さっきまでの暑さなんて嘘のようだ。少し早く着いたのを理由に、彼女のもとへと向かう。
 おそらく朝食の時間も過ぎているし、ゆっくりと本でも読んでいるだろうか。たまには、何かお土産があったほうが喜んでくれたかなあと思いつつ彼女の病室を訪れた。
「おはよう名前」
「珍しいのね。今日はお休みなの?」
「ううん、これから」
「そっか、お仕事頑張ってね」
 優しく微笑む彼女に安心する。今日は顔色も良いみたいで、腕から伸びる管さえなければ名前は健康そうに見えるのだ。肩に彼女を抱き寄せれば、「どうしたの?」とくすくす笑う。
 この温もりが、今俺を支えている。これを無くしちゃいけない。無くしたら、俺は俺でいられなくなってしまうかもしれない。大げさに聞こえるだろうけど、本当なのだ。それくらい今名前を大事にしたい。
 彼女を救うために最善を尽くすことが、今の俺に課せられた最重要事項だ。名前の存在ひとつが何者にも替えがたい存在になっている。
「徹、気にしなくて大丈夫だから」
「……うん分かってるよ」
「嘘ね。徹ったら心配症なんだから。お母ちゃんみたい」
「そりゃあ心配するさ」
 むくれてしまった名前の表情さえ愛しくて、額にキスをひとつ落とす。くすぐったそうに笑って、時間大丈夫?なんて聞いてくるから慌てて腕時計で時間を確認して病棟に向かった。

***

「ここ、隣いいか」
「とうぞー」
 少し時間帯のずれたお昼をとっていると、隣にマッキーがやってきた。
 時間帯のせいか人のまばらな食堂は食器のこすれあう音がするのがよく響いていた。
「名字さんの手術もうすぐだな」
「……うん。マッキーにもお願いできたらと思ってる」
「当たり前だろ、予定あけてあるし」
「ありがと」
 名前とは長いこと付き合っている。それこそみんなとも旧知の仲で。
 だからこそ、みんな彼女のことを救い出したいと強く願っている。自らが助けられる手段を持っているのは俺で、マッキーは補助ができる。彼女の手術は難易度の高いもので、何度イメージしたかわからない。何回イメージした、模擬をしたと言っても、成功の一回にならなければ意味がない。約束したあの日。忘れられない光景となって、こびりつく。
「及川さあ、追い詰められるのダメだよな」
「いや、そんなことないし」
「腕は信じてるし、間違いないし、努力は惜しまないわでホントムカつくくらいできるのにな」
「褒めるか落とすかはっきりしてよ!」
「いやー、彼女羨ましいなって」
「?」
 ご飯を咀嚼しながら、続きを促せばマッキーはにやりと笑って言う。
「及川に救われるってのは幸せなんだろうな」
「“救う”っていうのはそれだけで偉大だと思うぜ?」
 食事の終り際、そう言って去っていくマッキーを俺は茫然と見送った。俺も食器を片付けようと立ち上がったところで、院内放送が流れた。
『外科病棟、及川先生。至急内科へお願いします。金田一先生がお呼びです。繰り返します――』
 金田一が院内放送をするだんなんて、今まではなかった。呼ばれるとはつまり。
 一拍遅れて、院内PHSが無機質に鳴る。
「及川さん、急いでください! 名字さんが……!」
 電話口で話す金田一の声が妙に遠く聞こえた。事態の把握をするのに一瞬遅れた。駆け抜けた病棟、他の医師達の心痛な面持ちに焦りながら、彼女の病棟を目指した。病室にたどり着いたあと早期の適切な治療により、彼女の容態は一旦安定した。
 他の医師たちにいわれる。早く手術を行ったほうがいいと。このままでは彼女が危ない、救えるものも救えなくなると言う。
 けれども、言ってくる彼らに彼女を救えるような技術はないのだ。日程は前から決まっているし、あとは当日のメンバーの調整と打ち合わせだけだった。
 彼女を救うのには万全を期する。そのためにはあいつが必要だ。
 俺は内科病棟を抜けた。

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