昔、泣きそうな顔をしていた俺に彼女は大丈夫よと肩を叩いて笑ったのを覚えている。研修医の頃、初めて亡くなった患者に直面した。何とも言えない拭いきれない喪失感は未だに忘れられない。暑い夏の夕方に病院の前の道を通りかかった彼女と休憩の為外に出ていた俺と交わした短い会話。
あの時、焦っていた訳じゃないといえば嘘になる。でも、追い詰められるほど何かに怯えていたわけでもなかった。
「ひどい顔してる」
「……まいったなあ。名字さんに言われるなんて」
「大丈夫よ、及川くん無理しないでね」
「善処するよ」
 この頃まだ付き合ってもいないし、今みたいな状況になることなんて予測していなかった。それでも、この時からきっと始まっていたんだ。俺と名前#がこうして隣同士いるのもあの日が繋いでくれてると思ってる。あの時救ってくれたのは名前#だから今度は俺が返す番だ。医者になったのは偶然だろうけど、絶対に救うのは俺だと彼女の病気が発覚してから決めている。
 今、彼女が必死に戦っているならば俺は次の段階へと進まなければいけない。
意識の戻らない眠っている彼女を置き去りにするなんて最低と言われても、処置はされているのだ。今できる限界は施してあるなら、俺はあの場にはいらない。内科病棟を足早に抜けて、目的の場所へと向かう。他の病棟に比べて暗い廊下を抜けて、ガラス越しに患者のすぐ見える集中治療室の横を抜ける。 医師たちのいる部屋の奥を目指して、通りがかる人の目なんか気にせず一心に向かった。扉を一つ隔てた目当ての部屋にノックもなしに入った。
「トビオ」
「…及川…さ、ん…なんで、ここに」
「お前に協力してもらいたい」
 がばりと頭を下げた。今必要なのは、彼女を救うために万全の体制を作ること。そこにはこのクソ生意気な後輩、影山飛雄の存在が不可欠だ。コイツの技術は確かに天才的だ。俺には絶対に届かないところまで極めている。
 だからこそだ。このチャンスみすみす逃すつもりなんかない。
「俺、及川さんに頭を下げられるようなことできないっす」
「…俺はトビオじゃなきゃダメだと思ってる。絶対に救いたい人がいるんだ」
 どうしてもだ、お願いだからおまえに一緒に立ってもらいたい。あの手術の場にいて欲しい。俺の思い描くベストなメンバーとして、入って欲しいんだ。事情を話す最中、扉から術看が入ってきた。
「影山先生!急患です!」
「わかりました。…すいません、患者がいるので後でいいですか」
「………」
 目の前の患者が一番なのは、医者として当たり前の考え方で俺の話なんて聞いてなかったのかと思うくらいすぐにするりと部屋を抜けてしまった。誰もいなくなった部屋で壁に向けて拳を叩きつける。じんじんとする痛みが、今の全てを物語っていた。くそ、声にはならず喉の奥へ苦しいまま飲み込んだ。上手くいかない苛立ちに苦さも悔しさも全部混ぜこぜになる。何でだ、吐き出しただけの言の葉は誰にも聞かれる事無く、消え失せた。何の収穫も得られないまま自分の病棟へ戻ると珍しく松つんがいた。
「よぅ」
「…松つん、」
「薬届けに来たんだけど、ちょうどいいやこれよろしくな」
「ありがとう」
 薬を受け取ると、不思議そうに俺の顔をのぞき込んできた松つん。
「…花から聞いたけど、俺と岩泉は見守ることしかできないからよろしくな」
「みんな心配症だ」
「信じてんだよ」
 そうだこれもやる、と白衣のポッケから飴を差し出される。疲れた時には甘いものをってことだろう。肩をとんと、叩いて廊下へ行った松つんを眺めながら手元に残った飴を口に放り込んだ。酸っぱいレモンの味が口いっぱいにひろがって、優しく溶けていった。
 口の中の飴玉がすっかり溶け切った頃、オレはまたトビオのもとへと足を運んだ。きっと、こんな姿をみた岩ちゃんは俺のことを殴るかもしれないけど、医者としての勤めを果たすならばこれはすべき事だと思う。もう外はまっ暗闇で、静かな呼吸音だけが病棟を包んでいる。慌ただしかった喧騒は嘘のようになりを潜めて、少し息苦しささえ感じた。救命救急の病棟へ繋がる廊下にある椅子にトビオは腰掛けていた。
「……及川さん」
 ゆっくりと振り向いたトビオは、術後なのか少し疲れた表情を浮かべていた。
「お前にしかできない頼みがある。どうしても依頼したい」
「俺には、」
「……俺の目に狂いはない。この病院中探したってトビオほど優秀な外科医はいない。頼む、俺はあの子を救いたい」
「……あの、少し考えさせて下さい」
 困ったように瞳を伏せるトビオ。彼女の手術までほんの少しだけ猶予がある。仕方なく2日後に答えを待つと伝えて、この話を終わりにした。
 でも、トビオは俺の話を断れない。そんな確信を持ち合わせている俺はずるい男だ。

 ほら、沈んでいくことなんて簡単さ。ごぽり、ごぽり今日も夢の中へ墜ちていく。

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