初めて浮いていく感覚を味わっている。徐々に上へと向かっていて、いつもは暗い水の中なのに、光へと進んでいるのは不思議だった。今までは何とも思っていなかった寒さや暖かさというのは夢ときちんと認識していたからだろうか。妙に落ち着いた気分で浮上していると、上からぽたり、ぽたりと波紋を描いている。自分が上へと向かうごとに近づくそれは何なのか眺めているところで、ばちりと目が覚めた。
 起きたとき、自宅のベッドからずり落ちていた。おまけに息もあがっているだなんて冗談かと言いたくなった。
「はぁ……」
 喉もカラカラで、コップに注いだ水を飲み干す。目が覚める直前に見えたのは。
「名前だった……」
 ゆらゆらと揺れる水面から見えたのは彼女だった。見間違えるはずがない。何年も見てきた彼女の顔も表情も、どれをとっても間違えるなんて有り得ないことだった。にじむ水面の上からぽたりと大粒のなみだが落ちてきていた。
 このままもう一度、一眠りをしたら一番上まであがれるだろうか。そもそも、上がった先には本当に彼女が待っているのでいいのか、確証まではなかった。
 朝焼けに焦がれた小鳥が鳴いて、ようやく訪れる今日という朝。
 少し寒く感じたのは夜につけていたエアコンの効き過ぎなんだと思いたい。
 彼女の容態が急変してから数日、容態も安定してきた。これなら無事に予定していた日程で手術が行えそうだと、局内で話していた。メンバーも揃ったこともあり、明日には会議の予定になっている。資料を準備しながら、病院内をあっちこっちへと行き来し、内線をかけて内容の確認をする。なかなか名前のところへ行くことができなくてもやもやするのは仕方ないと思うんだ。大事な彼女だというのに、時間を割くこともできないなんてどうしようもない。ただ、目の前の準備に必死になった。
 業務時間を過ぎた頃、ようやく時間を取ることができて意気揚々と彼女の病室へ向かう。正規の面会時間を過ぎた病棟は息を潜めている。ジッと次の日を待っているような静けさを含んでいた。
「お疲れさま」
「うん、名前の顔みたくて来ちゃった」
 病室に入ると、本を読んでいた名前が顔をあげた。手元の本にしおりを挟んでぱたりと本を閉じる。それから机に置いて、俺と話す体勢を作ってくれた。数日前に見た青白い顔ではなくて頬にも赤みの戻った姿で俺と対峙する。いつもしてくれるその動作は、こんな真っ白な病室なのに温かい色を含んでいた。俺のちっぽけな不安は彼女の笑顔で淡く溶けていく。
「今日は何の本を読んでたの」
「幸せになる話。私と徹みたいな人が出会って、だんだんと距離を縮めて最後はゴールイン。ね、幸せでしょ」
 にこにこと笑う彼女に本の内容を思い浮かべてみた。俺たち2人みたいってことはこんな状況なんだろうか。少しイメージが沸かない。俺の乏しい想像力に気がついたのか、名前は付け加えた。性格が似てるの、ってね。そういうことかとどこか安心している俺がいた。彼女はその本を読みながら重ね合わせていたのだろうか。
「徹、いつも泣きそう」
「はは、ホントだ」
「ねえ」
「ん?」
 もっとこっち、なんて言って俺を手招きする名前。唇と唇がくっついて、今キスしたんだと遅れて理解した。何だって今日の俺の頭は上手く働いてくれない。彼女にしてやられた俺は相当間抜けな顔をしている。鏡で確認するまでもなくよくわかることだった。
いつもならもう少し上手にやれるのに、今日の俺は夢見が悪かったせいかペースが守れていない。
「……いつも頑張りすぎの徹にご褒美だよ」
 彼女の細っこい手が俺の頬を包み込む。目を丸くする俺に名前は面白そうに笑って肩を竦める。今日はどうしたの、そう訴える瞳が俺を掴んで離さない。彼女の眼差しはいつも優しくて包み込むようだけど、時々強い光を灯している。それは、彼女の芯の強さを現していてとても精神的にタフなことを示していた。どんなこともきちんと受け止めて、咀嚼して飲み込んで、消化していく。
「絶対に成功させるから」
 自分にも言い聞かせるように告げた。
 真っ白い病室に俺と名前の2人きり。どんなところよりも神聖ではないだろうか。少し前に言っていたマッキーの言葉を思い出していた。
 救うということは偉大であること。偉大な功績を残した人が言った言葉ではなく、身近な友人が教えてくれた言葉だから沁みていくのだと思う。すとんと、自分の中に落ちていって、今まで霧がかってたような考えはなくなりすっきりと晴れやかだった。

 二日後、彼女は手術台に横たわった。
 真上にある眩しいほどの光に照らしだされていた。マッキーが彼女の耳元で麻酔の流れを説明しながら設定していく。落ち着いた表情で聞いているのを見届ける。俺の隣にはトビオがいた。さらに目の前には国見がいて、三人の執刀医がそれぞれ行う。
 麻酔が効いてゆっくりと落ちる彼女の瞼をみて合図をする。

 これから名前を救う。

 人生最大と言っても過言ではない手術が始まった。

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