こぽこぽと上へ上へと押し上げられた。ごぼり、ざぶんと急浮上してそこには空気があった。初めて不思議な水中からでて、水いっぱいのそれを俺は眺めていた。隣には名前がいて微笑んでいる。涙が枯れるくらい流して、瞳は真っ赤になっている。彼女を抱き寄せてごめんね、と呟いた。彼女は大きな瞳をぱちりと瞬きをしてきょとんとした表情を見せる。
「謝る必要なんて、ないよ」
「でも……」
「気にしなくていいのにね」
 もう、元気になったでしょ、とやっぱり笑う彼女はいつも俺を救ってくれる。それは真っ暗闇に灯る一筋の眩しい光となって俺に道筋を示すのだ。どこかで弾けた水滴の水しぶきが自分へ跳ね返った。
「…!……る、…徹!」
「…え、あ名前」
「ねえ、泣いてるわどうしたのよ」
「…あれ、本当だ…」
 名前に言われて初めて気がついた濡れた頬を拭う。夢の中では泣いてなんかいなかったのに、どうして自分は泣いているのだろうか。隣で寝ていた彼女が起こしてくれて戻ってこれたような気がした。朝日が昇るにはまだ少し早い時間。出勤までも十分に余裕がありすぎる。
「早いけど、朝ごはん用意するね。徹はシャワーを浴びてきたら?」
「……うん」
 彼女が毎朝用意してくれる朝ごはんは温かい。ちゃんと人のぬくもりのある料理なのだ。名前はさっさと動き出して、自分も起き上がると思いのほか汗をかいていた。彼女に促されるままに浴室へ向かう。シャワーのざあざあという音が響いて瞬く間に蒸気で真っ白な視界が出来上がった。時々シャワーの音に混じって遠くでフライパンで炒めるジュワァという音が聞こえる。
 適当にシャワーを浴びて外に出た。いつの間にか名前が置いてくれたらしいバスタオルを手に取る。洗剤とお気に入りの柔軟剤の匂いが優しく包んでくれた。ほかほかと上気した気分でリビングに戻ると彼女がキッチンにたっている。ここしばらくは見ていなかった光景に目頭が熱くなるのを覚えた。そんな表情を見られたくない一心で、後ろからそっと彼女を抱きしめた。
「動けないんだけど」
「そうだね」
「……ご飯食べられないよ」
「それは嫌」
 だんだんと雑になる会話にすうっと涙が引いていく。きっと名前には俺がどういう状況なのか分かっていて、適当にあしらってくれている。彼女はよく人を見ていて必要な言葉を掛けてくれるんだ。ゆっくりと腕の力を抜けばするりと俺の中からぬけて、火加減を見たりして忙しない名前がいた。二人がけの小さなダイニングテーブルにコーヒーの入ったマグカップを置いて席につく。少しずつ出来上がる朝食をテーブルに並べて、ほかほかのごはんが盛られたお茶碗が置かれたとき、今日のメニューが揃った。きっと、入院してた時は食べられなかった味付けやレシピを日々見つけては作ってくれていて俺は当たり前のように食べている。一人きりの部屋は寂しくて、まるで部屋自体が泣いているみたいだった。一人で食べる食事は味気なくて食べた気がしなかった。適当に済ませていた朝食も、久しぶりに帰ってきた名前が作ってくれるたくさんの朝食のおかげで目が覚める。最初はこんなに沢山はあの頃じゃないんだから食べれないかもなんて思ったけれども、どれも食べやすい分量でしっかりとお腹に溜まって忙しい日でも体がもつようになった。いただきます、2人揃って食べ始めた。
「徹、今日は帰り遅いの」
「いつも通り終わる予定。なんかあった?」
「違うの、ちょっと確認しただけ」
 少しふてくされて言う名前が可愛くてからかってみれば、だんだんと赤くなる顔。寂しいのか、そう突き止めれば簡単で。ダメなの、とぶすくれて言うもんだからしょうがないなあと甘い俺は緩んだ頬を隠さずに笑う。
 食後にゆっくりとコーヒーを飲み干して、仕事へ向かった。

 いつもの通勤経路を抜けて病棟に行くと、岩ちゃん、マッキー、松つんとみんな揃っていた。何だ何だと思うより先にみんながおはようと言う。こちらもそれに応答したが、珍しい光景に気の抜けた返事になった。
「及川、名字のこと心配させんなよ」
「そうそう、俺のとこにも連絡来たぜ」
「愛されてんな」
にやにやとみんなが言うものだから、何があったのか問い詰めてもにやにやと笑うみんながいた。俺がもう、いいよ!と叫べば、全員口を揃えて、今日及川の家集合だからと笑う。
「へ?」
「お前の家で宅飲みすっから、名字に言っとけよ?」
「……岩ちゃん家主に報告が最後ってどういうことなの」
「そういうことだから、今日定時に上がるの厳守ね」
「忘れたら酒は及川のおごりで」
「え!?ちょ、岩ちゃんもだけどマッキーと松つんもひどくないっ!?」
 じゃあなーとそれぞれ散り散りになり、去っていった。
なんだよ、畜生と思いつつも白衣に袖を通す。院内証を首に下げれば、いつもどおりスイッチが切り替わった。
 お昼休みに名前に夕飯のことを告げると楽しみだねと返ってきた。彼女から返ってきた言葉に、そういうことかと納得がいった。岩ちゃんたちは彼女の退院祝いを兼ねて来てくれるのだと、気づいた。

.。o○

 昼間に連絡をもらっていた通り、みんながやってきた。昔から仲がいいけど、こうやって私と徹の暮らすマンションに揃ってくるのは初めてかもしれない。いや、私が知らないだけかも。最初は宅飲みって聞いてて、まさかこんなに沢山お祝いをしてくれるとは思ってもみなかった。私は何かをしてもらうことが多かっただけにとても気が引けた。それでも気にするなと言ってくれる彼らはやっぱり優しい徹の優しい友人たちだと思う。
 作りすぎたかもしれないと思った料理を全て平らげてくれて、酔いつぶれた徹を横目に簡単に片付けまで手伝ってくれた岩泉くんたちに感謝をしてもしきれ
ない。
「ごめんね、徹まさかこんなになると思わなくて」
「あいつはほっとけ」
「そーそー」
「名字さん元気そうで安心したしな」
 玄関先でちょこっとお話をして、彼らを見送った。
 リビングに戻って、すうすう心地良い寝息をたてている徹にブランケットをかけて残りの片付けをする。静かな空間に水道から溢れる水の弾け飛ぶ音だけが響く。
「徹、お疲れさま」
 てこでも起きなそうな徹に声をかけて寝室へ。

 その日みた夢は、大きな水槽いっぱいに涙を流して眺める私の姿だった。


Fin.

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