いっそのことあの青い空に吸い込まれればいいなぁと思っていた昼下がり。朝廷はいつものごとく仕事に勤しむ人ばかり。わたしは偉い人の奥方さま。そんな立場すら忘れて従者ひとり付けずにこっそりとわたしは朝廷のなかを歩く。仲のいい女官さんから借りた服を身にまとい、誰にも知られずに目指すのは仕事をするのが大嫌いな旦那さまのところ。

奥の方にある旦那さまの執務室は意外と簡素な造りで、一見一官僚の執務室にも見えるけどもそこはれっきとした、この国を治める摂政の執務室なのだ。ただ官僚と違うのは、様々な書物、巻物が散乱しているのと使われている調度品が高価なぐらい。いかに彼がこの国を考えているのかが分かるような、そしていかに彼が偉い人なのかがわかる部屋の有り様だ。ただ、そこにはいつもいるはずの彼がいなかった。代わりに、若草色の衣を纏った青年がいた。中性ともとれるような顔立ちの青年は、どうやらいらいらしているらしく行動のひとつひとつが荒っぽい。 たぶん、この青年が旦那さまの話に出てくる"妹子"さんに違いない。特徴のひとつひとつがあまりにも酷似しているからだ。

「あの、太子さま知りませんか?」

声を恐る恐るかけてみれば青年はややイラつきながらも振り返る。振り返った彼はおそらく、いつの間にかいたわたしという女の存在に驚いたのと、瞬時にわたしの身分に気づいて今の彼の失態に気づいたのと混じり合っているのだろう。振り返った瞬間と今の表情の違いからすぐに読み取ることができた。とてもわかりやすい人だ。よくも、こんなに汚れきったところで働いていけるものだ。きっとこの人は嘘をつくのが大層下手なんだろうな。青年はわたしに向かって、意外な台詞を吐く。

「太子なら逃げ出した後ですよ"奥方さま"」

この青年はもっと品のいい人だと思った。でも吐き出された言葉は、それはとても自分より身分の高い人に言う言葉の選び方ではなかった。最後に言った、"奥方さま"には敬称のような尊いものではなく、嫌みの籠もった言い方だった。今までそんな言われ方をされたことがなかったわけじゃなかった。時には嫉妬や妬みなど好ましくない言い方はさんざ言われてきた。むしろ好意的なものの方が少ないんじゃないだろうか。同時にわたしはあることに気がついた。仮にもわたしは変装してきたはずなのに、一発で彼に見抜かれてしまったのだ。すごい観察眼だ。感心するしかなかった。

「あなた、もう少し言い方を考えたらどうかしら」
「こっそりと屋敷を抜け出すような奥方さまには言われたくはないですよ」
「それよりも太子さまはどこですか?」
「きっとこんな日は中庭にいますよ」
「中庭?」
「そうです」

わたしは青年が言った中庭を目指すべく、執務室を後にした。青年の──妹子さんの言い方はかんに障るものばかりだが、なんだかんだでいい人なんだとは思う。だって、太子さまのいるかもしれない場所を教えてくれたから。外に出ると、風が微かに吹いている。肌寒さを感じて、上に羽織るものが欲しいくらいだった。
かさかさと音を立てながら草を踏み分けながら中庭の中心部へと歩く。大きな石の上に座る太子さまがうなだれていた。いつもは青い、空みたいなきれいな色をしたジャージを着ているはずなのに、今日に限って正装姿だった。威厳があるはずの色合いをした衣を纏っているにもかかわらず、今の太子さまにはその威厳が感じられなかった。

「……太子さま」

ゆっくりとおずおずと声をかけてみる。俯いていた顔があがる。少し疲れているように見えた。仕事嫌いでも、彼は摂政で国を治める人で、きっと誰よりもこの国のことを考えていて愛している人。だから、誰も知らないところで仕事をしているのかもしれない。

「どうして…」
「こっそりと屋敷を抜け出してきちゃいました!妹子さんが太子さまならここにいるはずだって教えてくださったから、中庭に来たんです」
「まったく……」

呆れたように言いながら太子さまはわたしを抱きしめた。そのことが嬉しすぎて、幸せに感じた。こんなことで幸せになれるわたしは幸福者。太子さまの腕の中から解放されるとわたしは太子さまの隣に座る。それからわたしは懐から小さな包みを差し出した。

「実は太子さまにわたし菓子を持ってきたんです」
「ありがとう」
「もう少しだけお仕事頑張ってきてください。わたし、屋敷で太子さまが笑顔で帰ってこれるように待っていますから」

わたしがそう言うころには後ろにはわらわらと、屋敷の人たちが来ていた。おそらく、妹子さんが馬子さまに言って屋敷に伝わったのだろう。
そして、集まってきていた人たちの中には妹子さんの姿も見受けられた。
さあ!もう少しだけ頑張ってきてください!わたし、いつまでもあなたの帰りをお待ちしております。


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