「一くんの馬鹿! 出てく!」
付き合って五年、同棲して二年になる一くんは大変よくできた彼氏である。基本的に彼は優しい。家事を分担しても嫌がらずこなして、私が仕事で忙しい時は代わりに色々と助けてくれる。
仕事をしている一くんは上からも下からも、さらには同僚からも信頼の篤い男となれば、こんなに優良物件な男はいないと周りの友人がいう事も少なくない。もちろん私だってこんなにいい人他にいないことくらいわかっている。今だって喧嘩というよりは私が一方的に怒って出て行っただけだ。感情が高ぶって生理的に涙が流れてきた。 一くんは感情的に怒鳴るようなことはしない。もちろん、私の度が過ぎれば怒られるなんてことは過去にあったりもする。
職場恋愛なんてしなければよかった。こういう時にすごく感じる。一くんとは自然にどこかで出逢えばもっと違ったのかな。どろどろと暗い部分が出てきて、でも、彼はそういう人じゃないでしょと頭の中の私が囁く。
一くんが他部署の女の子に告白されていた。そんな現場に出くわせば、いくら職場で付き合っていることを隠しているからといっても、目の前で曖昧に濁した返事をしたのを見てしまえば許せない。
見た瞬間、一くんは私が見ていたことなんて知らないだろうし、私だって見たくて見たんじゃない。あの時何であの廊下を通ったのか、エレベーターを使わなかったのかいろんな事を考えた。
おかげで仕事の効率は悪くなるし、思いのほか気になってしまい、今日やるはずだった業務も残したまま帰って来てしまった。
一くんが帰ってきたところを見計らって追求するなんて私、最悪だ。
それでも、せめてちゃんと言って欲しかった。どうせ断るならきっぱりと言ってあげた方がずっと優しいのに。
女の子に何て言われたか知らないけど、曖昧に言うなんて告白した彼女にも失礼じゃないか。
アパートを飛び出て歩きながら、青に変わった信号をわたる。出ていくといっても徒歩で行ける距離に誰かの家はあったなと思い出せば、一くんの幼馴染み及川くんが近かったなと記憶を頼りに彼の家を目指す。
歩いて十五分。お目当ての彼の家にたどり着く。インターホンを鳴らせば、驚いた声で出てきて、すんなりと部屋に通してくれた。
「岩ちゃんと喧嘩でもした?」
「……聞く?」
「それですっきりするなら」
「一くんが女の子に告白されてた」
「岩ちゃんって社会人になったら妙にモテるよね」
一くんの女の子事情をよく知っているのか及川くんは時々彼の情報を付け加えながら話を聞いてくれた。途中でホットミルクを出してくれて、こんなに気遣いのできる人に何で特定の彼女ができないのかいらない心配をしてしまった。
顔は綺麗なので、引く手あまただろうけど彼自身、女の子の興味が薄れたんだろうな。大学にいた頃はしょっちゅう隣にいる女の子が違った記憶がある。
私がひとしきり話し終えれば、及川くんはにやにやと私の方を見てきた。
「……なによ」
「けっこう可愛いとこあんだね」
俺、割と好みのタイプかも。そんなことを囁く目の前の彼はやっぱり場数が違うなと妙に感心している自分がいた。なめらかに上手に私の頬に手をかける姿は、どんな男の人より綺麗だった。この手をよけなきゃと、頭ではわかっているのにそのまま見つめてしまうのは彼の瞳が私を捕まえようとするからだろうか。
「こんなことしたら岩ちゃんに怒られるだろうね」
甘くとろけそうなくらいに優しく囁くその姿は何人もの女の子をオトしてきた手練だった。
後ろにあるソファに沈み掛けそうになる前に機械的なインターホンが鳴る。そのままこちらが応答するより前に玄関が開いた。
「悪いなこいつが世話になった」
「……なんで」
「何でもクソもねえんだよ。ホイホイ流されやがって」
ぎゅうと握りしめられた手が熱い。さっきまで完全に捕食者の目をしていた及川くんはいつの間にか爽やかな笑顔で私と一くんを見送って、ここまでの流れに頭がついていかなかった。エレベーターに乗り込んだ2人きりの空間が気まずい。どうしてこうも頑固な人なのかなあ。少しくらい話してもくれてもいいじゃない。
「何で、……私が及川くんのとこにいるってわかったの」
「家から近いのアイツん家しかないからな」
「ふーん」
昼間のことは謝ってくれないんだ。ひねくれた私が邪魔をする。そうして黙っていれば一階に到着する。
エレベーターから出る間際急に一くんに引っ張られてバランスを崩す。
「これで機嫌直せよ」
一瞬ふれた唇に、珍しくしてやられた私は付き合いたてのようにドキドキした。
2014/09/13