誰も知らないどこかに彼は羽をしまっている。それはいつの間にか出して飛び出して、いつの間にか静かにしまっている。気づいたときには、もう着地している。そうやって、あっという間に近くて遠い人になってしまった。
休みの日に忘れた教科書を取りに学校へきた。教室で目当てのものを取り、帰り際に体育館の横を通りすぎた。誰も見ていないだろうと思い、入口付近に近寄って体育館の中を覗く。ボールが床に叩きつけられた音が鳴って、選手の声が響く。知り合いの聞きなれた声の方向を辿って見遣ればばっちりと目が会った。どうだ!すごいだろ!と言うように元気にピースサインをしてきて、苦笑いするしかない。ちゃんとやりなさいと言うようにわたしは、近くにいるチームメイトを指さす。全く、ちゃんとしてれば試合中じゃなくてもかっこいいのにと思える。しょうがないなあ。彼を支える周りのチームメイトの苦労を考えると人事とは思えなかった。
「名前見てかないの?」
「ダイジョウブ、木兎のこと宜しくね」
そう?なんて言うマネージャーにまたねと手を振って体育館をあとにした。
前までは木兎のことは下の名前で読んでいた。中学二年になった頃、ぱたりと呼ぶのを止めた。木兎は理由なんて特に考えてなんかいないだろう。彼はそういう男なのだ。呼び方を変えたのにはいくつか理由があったけれど、大した理由でもないので割愛させてもらう。
どうせ、今の私と木兎はちょっとした知り合い程度の間だ。特別関わる必要もない。少し冷たくなった風を体で受け止めながら、カーデを着てくれば良かったなあと後悔した。お気に入りのキャメル色のカーデは高校に入ってから購入したものだ。バッグに入れた教科書をもう一度確かめて家路を急いだ。
夕方になって、一通の通知が入った。普段は連絡をしてこない人からだった。トーク画面に映るは木兎光太郎の文字。一体何の用だと思いながらメッセージをみる。
課題何ページから?と珍しい内容だった。普段は全くやらないのを知っているだけに、どういう風の吹き回しだろうかと余計に頭を働かせてみる。
とりあえず無難に返せばぽんぽんと繋がるメッセージのやりとり。
いくつかやり取りをしていると、最近避けているだろと確信的な部分をつついてきた。避けているとそのまま伝えるのは今の気分には合わなかった。それを伝えたことで木兎との距離がどうこうするようには思えなかったからだ。
放置をしていると、今度は無料通話の通知音が鳴った。
「もしもし」
「無視すんなよ……」
「してないよ、ただ返してないだけ」
「俺、お前に冷たくされたらどうしていいか分かんねえし、赤葦には馬鹿にされるわ、マネージャーにも言われたしよ、どうすればいいと思う?」
「……木兎バカでしょ、本人に相談してどうするの」
「いや、名前のこと好きだし、何か悪いことしたか考えたけどわかんなかったからな」
「え?あ、そうなんだ」
なんか木兎には似合わないようや言葉が飛び出したのは気のせいじゃないと思う。でも、やっぱり相談相手間違ってる。
「なー、前みたいに来てくれよ。そっちのがテンションあがる」
甘えるように、ゆるい頼み方はズルいと思う。どうせ電話の向こう側の木兎は椅子とかソファにもたれ掛かっているのだろう。少しくぐもった声だった。
「いかない、自分で頑張ってるじゃない」
「バレー嫌いになったのか?」
「違う」
「じゃあ、なんで」
「木兎にはわからないよ、わかったらまた誘ってみて」
ちょっと意地悪だったかもしれない。ごめんね。でも、私のせめての抵抗をさせて欲しいのだ。もう、木兎の隣にいれるほどわたしは何も持っていない。
コート上できらきら輝く彼を見た日からわかっていたことだ。あんなにコート上でぴかぴかの眩しい姿をしていたのは彼以外に見たことがない。
「俺がわかったら何してくれんの」
「また体育館にいく」
「じゃあ」
ひと呼吸おいて彼は言う。
「名前のことが好きだから、一番近くにいて欲しい」
部屋で握っていたシャーペンの芯がぱきりと折れた。電話の向こうの彼は今、なんて言った。聞き間違いでなければ、有り得ないような告白だった。
ずるい、やっぱりこの男はずるい。私の考えた距離を取る方法なんてどこかに消えてしまった。
そうやってあっという間に小さな壁を跨いでこちら側までやってくる。上手に上手に築き上げた私のちっぽけな感情は彼には本当に大したことではないらしい。
「ねえ、光太郎」
「ん?」
「私の方が先に好きだったよ」
受話器の向こう側でばたばたする音が聞こえた。あれ、明日からどうしよう。
迷っていたら、電話口から明日迎えにいくから!と元気のいい声がする。
多分木兎は朝練だろうから、頑張って早起きをしようか。そしたら、今度は直接伝えてあげよう。私が彼の隣にちゃんと並べるようになる為に。
2014/10/07