打ち掛けを羽織り、そぞろに本丸を歩く。夜中に忍び足で歩を進めれば、ぽっかりと浮かぶまん丸の月が煌々と、藍色の空に浮かんでいた。雲一つない夜は、より月明かりとのコントラストを強めている。周りに散りばめられた星々の明るさなどものともせず、地上に降り注いだ月明かりは、本丸の庭を照らす。
 この本丸には、現代のようにライトアップする機能なんぞないので、暗がりに満開の桜が咲き誇り、薄い桃色は少し白く見えるほどに月明かりに照らされていた。女は縁側まで出て、立ち尽くしていたが意を決したのか口を横に真一文字に結び、土の上へ白い脚を下ろした。
 女はひやりと気温の低い外を踏みしめ、大木へと向かう。自分の何倍もの大きさの大木は樹齢何百年にも見えたが、近づけば近づくほどに生命力溢れるエネルギーを感じ取った。なぜ、そのように感じ取れるのかと言われれば、おそらく女が審神者として霊的エネルギーを捉えるのに長けており、常日頃から周りに霊的エネルギーを纏った者共と過ごしているからだろう。
 ほう、と息を吐いて太い幹へ手を伸ばす。昼間のほとぼりも冷め、静かだ。
「こんな夜更けに外にいたら身体が冷たくなってしまうよ」
「あら、起きていたの」
  女は縁側から声を掛けてきた男に無愛想に答えた。振り向いて揺れた髪の毛が、さらさらと揺らめく。
「風邪を引いたら困るんだ。慌てるのが何人いるのやら……」
「大丈夫よ。みんな心配し過ぎなんだから。それよりも歌仙さん、今日は月明かりがとってもきれいだから夜桜も素敵ね」
 歌仙と呼ばれた男は、主を心配しているというのに女はそれも聞かずに目の前の光景にうっとりとしている。夜風になびいて、花弁がはらはらと舞落ちた。地面にはゆっくりと薄桃色の絨毯を敷いていくようだ。
「ねえ歌仙さんもこっちにいらっしゃいよ」
「はあ、全く君はほんとに自由だ」
 歌仙は呆れながら仕方なく外へと出た。雑草とも言えない青々と育った草を踏み分け、桜の舞落ちる場所へと近づく。女は優しく話すが、表情は全く変わらず能面のように冷たい。
  この女は本丸ではにこにこと笑うが、一人の時と近侍の歌仙と一緒の時はとても冷たい顔をしていた。そもそもこの鉄仮面の女へ、初期刀である歌仙が笑うように指導したのだ。

 歌仙が女と出会ったのは桜の木が青葉になりきった頃だった。お供にこんのすけと呼ばれた狐を従え、歌仙の名を紡いだのだ。小娘が主とは思いもしなかったが、呼ばれたのは致し方ないことで、彼女を主と一応は認めた。女の顔を見たとき、なんて愛想の無い女だとは思ったが一緒に過ごし始めて数日が経ったある日その能面みたいな表情の理由を知った。
 女はただ笑い方を知らなかった。感情をどうやって表現すればいいのか分らなかった。本来ならば、刀剣の付喪神である歌仙に、感情の扱い方に長けている人間が教えようものだが感情の抜け落ちた人間にそれが出来るはずもなかった。
 これから女と共有する時間が多くなればなるほど支障をきたすのではとひやひやし、生活のためにこちらから教えなければと思い、歌仙はこのような下等な人間に感情の術を伝えた。
 最初はぎこちない口角の上がり方も日数を重ねるごとに自然なものになっていく。怒る、困る、嫌いなどまだまだ多くの感情は存在するが、ひとまず笑えれば場を凍りつかせることはないと考えたのは間違いではなかった。
 最初の頃に短刀が新たに本丸に来ることが多かったが、歌仙の教えた笑顔により今でも良好な関係を築いている。他の刀剣達とも打ち解けているようで、女のこなさなければならない業務には支障が無かった。
 ただ、近侍だけは歌仙から他の誰かに変えることはなかった。彼女の言い分は簡単なもので、ずっと笑うのは疲れるというものだった。非常に使い分けるのに長けていたのか、時々緩めないと笑えなくなりそうだと女は度々歌仙へ話していた。そう言う事もあり、女は歌仙の前だけでは最初の頃から態度は変わらない。
「歌仙さんだけ、本当の私を知っていればそれで良いの。他の誰かは知らない、私と歌仙さん2人だけの秘密よ」
 そんな風に言った言葉は歌仙の中で残っており、それこそ主従だけでは言いきれぬ契りを交わしたような心持ちだ。歌仙にとっては他の刀剣男士とは違う優越感に浸れる唯一のものとなっていた。

「歌仙さん?」
 相変わらず月明かりのなか佇む女の問いかけに歌仙ははっとした。主を困らせないよう、何でもないように誤魔化した。
「脚が汚れてるじゃないか」
「いいじゃない。それよりもちゃんと見た?きっと、今日くらいしかこんなきれいな夜桜は見られないわ」
「もう充分さ」
 歌仙は未だに動かなそうな女を地面から剥がすように持ち上げた。女は一瞬身じろいだがすぐに大人しくなり、縁側まで連れて行き、ようやく下ろせば珍しく不機嫌そうな態度を顕にした女に歌仙は心の中でくすりとほくそ笑んだ。そんな表現も出来るようになったのかと思いつつ、いよいよ女が人間くさくなってきたと感じたのだった。歌仙は湯を張った桶と金魚の絵柄が入った手拭いを持ってきて、女に手渡した。女も無言でそれを受け取り、手拭いを桶に浸しよく絞ってから自らの足へと滑らせた。少したくし上げた袖から伸びる細腕に力を込め足の裏を拭き上げ、汚れた水を縁側から水打ちするように地面へかけ捨てた。歌仙はそれを見つめながらふと思い出したように口を開いた。
「もうすぐ、君に出会った頃だ」
「……そんなことよく覚えてるのね」
「季節には敏感でね」
「貴方ならそうかも」
 頷いて立ち上がる女に合わせて歌仙は桶と手拭いを受け取る。女には明日も早いと言い聞かせて寝所へ追いやった。
 そぞろに歩く後ろ姿を見送ってから、再び満開の桜へ目を向ける。夜風に靡いてひらひら舞い散る様が、もの悲しく自分も少し傷心じみた気持ちになるのだ。
「全く嫌になるよ」
  苦笑を漏らして呟くそれは闇夜に紛れていくのだった。

2015/04/1**

toptwinkle