びゅう、といつもより少し冷たい風が吹く。両腕を組み、手のひらで腕をさすった。やはり、長袖シャツでは寒かったか。風呂上がりの火照る身体が急速に冷えていくように、さあと再び風が凪いだ。
 自室に行かなければ上着がないことを悔やむ。風呂にいくときに気がつければ良かったが、あの時はすっかり抜け落ちていた。庭に面した廊下を歩きながら、仕方なしに自室へ向かう。ひたひたと床板を踏みしめ、進んでいくと、ちょうど歌仙兼定が部屋から出てきた。
 彼が出てきた部屋は広間で、多くの刀剣たちが団欒に使用している部屋だ。質素な作りだが、机を複数置いているので大体が酒呑みをするのに使用していた。ということは、珍しく歌仙も参加していたのだろう。酒は嗜む程度だと言っていたが、私は彼が酒を程々に飲むことを知っているし、彼の酔い方があまりいいものではないことを知っている。
 これはまずいタイミングで出会ってしまったようだ。踵を返したい衝動に駆られたが、その部屋の前を通らなければいけないうえに、歌仙をすり抜けなければならない。嫌だなあとは思いつつも顔には出さずに通り過ぎようと決意する。
 涼みにきたのか、歌仙は普段の雅さの欠片もみせずに、だらしなく柱にもたれ掛かっている。横には申し訳程度のお猪口と徳利が置いてあった。横目に見つつもあと数歩過ぎれば、というところで私の思惑は儚く散った。
「君は飲まないのかい?」
「前にも言いましたが苦手なんです。大体歌仙、あなた何杯飲んだんですか? ……絶対に酔ってますね」
「いやいやほんの嗜む程度だよ」
 ジャージの裾をつかまれてしまい、立ち往生。呂律はよく回っているが、歌仙の悪いところは一見会話が成り立つようなところだ。こういう時ほど危ういことを彼は自覚していない。
「……ちょっとそこにいてくださいね? 今お水持ってきますから」
「今日も飲んではくれないとは……君は一体いつになったら僕と盃を交わしてくれるんだろうね」
「交わすわけな……って、わっ」
 掴まれた裾を勢いよく引っ張られ、崩れた体勢。ぽす、と軽く抱きとめられ、首に回った腕のせいで容易には抜けられない。
「僕がこんなにも示したって、気が付かないふりをするんだろう?」
「何を示してるって言うんですか」
「君のそういうところは嫌いだ」
 彼の胸板へ苦しいほど押し付けられ、彼は彼で私の肩口に頭をもたげる。恐る恐る彼の背中へ腕を回して、さすればぴくりと反応した。
「そうやってすぐ拗ねないでください」
「……君が悪いんだ」
 緩められた腕に、すり抜けようと思えば簡単にすり抜けられるのにできなかった。首筋に這う唇に硬直し、不意にかかった吐息に小さく悲鳴を上げる。彼が楽しそうに喉をくつくつと鳴らし、すまない、なんて言う。謝っているようには到底思えない口ぶりだったが、まあいいかと許す私も大概だ。
「他の刀剣に見られたら、恥ずかしいから、その」
「見ないよ」
 くぐもった声で言われ、首筋がこそばゆい。なかなか離してくれないし、湯冷めなんてしなそうなくらいあったかい。
「そういうことじゃ」
「うん、そうだね」
 歌仙の手が私の髪の毛を梳く。ゆっくりゆっくりとするから、怒る気力も同じ速度で萎んでしまう。歌仙は歌仙で、楽しそうにふふと笑っていて、完全に酔いがまわっていた。
 誰も来て欲しくない気持ちと、誰か来て歌仙を引き取ってもらいたい気持ちが半々だ。この状態を見られるのは主としての威厳にも関わるが、このままなのも困ってしまう。
「歌仙、このままじゃあ私風邪ひいてしまんです。離してもらえませんか」
「このままなら暖かいから大丈夫だよ。あと、君すっごい甘い匂いがする」
 すん、と鼻を吸ってみせる。それが項の辺りを掠めて、悲鳴のような上擦った声が出た。今夜の歌仙の酔い方は悪いにも程がある。こちらの心臓を止めしまう気なのか、ばくばくと煩く脈打つ心臓すら悲鳴を上げているようだ。
「……お風呂入ったからです。もう、さっきから歌仙どうしたんですか」
「ああ、なる程。シャンプー変えたのかい?」
「変えてないです」
「もしや僕らと同じものを?」
 そうですと答えると、ふうんと相槌を返されるだけだった。何なんだ、いい加減にしてくれと思っていると、部屋から出てきた宗三と目が合う。たちまち、逸らされてしまったがこの酔っ払いの相手はしていられない。
「宗三さん助けてください」
「嫌ですよ。いちゃつくならどこぞへと行ってしてください」
「そんなんじゃないです。離してくれないんですもん」
「そんなの歌仙に上手におねだりすればいいことでしょうに」
「宗三、僕はこのままでいいんだ。君もわかっただろう?」
 救いの手としてはやはり弱かった宗三さんは、すたすたと厠に向かってしまった。そもそも、いちゃつくとかそういう事ではないのだが、傍から見たらそう見えても仕方ないのだろう。諦めはついたものの、夜更けもいいところで布団で眠りたいという気持ちもあった。
 いっそこのまま寝てしまおうか一瞬頭を過ぎったが、縁側で寝た後の次の日が簡単に予想されたので選択肢から除外する。そうなると、歌仙の腕の中から開放されることが必須だ。
「部屋に戻りたいので離してくれませんか」
「……嫌だ」
 今度は小さい子みたいに駄々をこねる。なんて面倒な酔い方をするんだこの刀は。
「じゃあ、歌仙さんの言うことを一つだけ聞いてあげるので、そしたら離してくれますか?」
 この状況で、離してもらえるとしたらこれくらいだろうか。茶器1つ買うのか、食器を増やすのか、食材の調達か、もしくは明後日に予定している畑当番をちゃらにするのか。いくつもの案が思い浮かぶ。
 果たして何を言われるのか、固唾を呑んで待っていると、歌仙は困ったねと言い出した。
「うーん、君にはいろいろと聞いてもらいたいことはあるけど、どうしようかね」
「あの、無謀なものはダメですから。私が叶えられる範囲でお願いしますよ」
 念押しで伝えると、歌仙は私を腕の中から解放してくれた。思わぬタイミングできょとんとすると、歌仙は見たことないくらい優しく笑っている。
「君が僕を受け入れてくれたら、いいよ。離してあげる。そうじゃなければ」
「え、なに」
 相変わらず微笑んでいるのが殊に怖い。
「絶対に離してあげないよ」
 手首をつかまれて、再び近づく歌仙に私は何も出来なかった。否、抵抗などできるはずもなかったのだ。
 優しく触れたのが、歌仙の唇だと気がついた時には既に離れたあとだった。脳内での処理が追いつかず、歌仙の顔を見上げることしかできない。何で、と言い出した私は馬鹿だと思う。
「僕はさっき言ったよね。だから、離してあげるよ」
 ぱっと離され、ようやく解放された。けれども、すぐに立ち上がれなかった。歌仙は持ってきていたお猪口に入ったお酒を煽っていて、寝ないのかい?なんて聞いてくる。つい、今さっき唇を触れてきたとは思えない口ぶりだ。
 歌仙の言葉を何度も反芻して、ようやく理解したのは、歌仙がふうと一息ついて柱にもたれ掛かってしばらくしてからだった。歌仙は目を瞑って、そのまま眠っているらしい。
「歌仙、風邪ひいてしまいますよ」
 頭をゆっくりと撫でてみたけど、びくともしなかった。
 誰か呼ぶしかないと考え、すぐ目の前の宴会が繰り広げられた部屋をのぞいたものの、素面の刀剣はゼロだった。
 仕方なく比較的ザルの刀剣達を複数呼んで歌仙を部屋に入れてもらう。
 歌仙はすぐすぐ眠くなってしまうようなタイプではなかったが、出陣で疲れていたのだろうか。言い逃げとはなんとも卑怯である。
 座布団を敷き詰めようやく寝かすと、周りもだんだんとお開きになっていた。手伝ってくれた刀剣達を労うと、思いがけない言葉が飛び出す。
「歌仙は今日殆ど呑んでないのですが、珍しいですね」
「えっ!? 嘘、あれは酔っ払っていたとしか……」
「本当ですよ。貴方も全く、罪深い人ですね」
 宗三の言葉に空いた口が塞がらなかった。
「じゃあ、これで」
 さっさと部屋へと戻る刀剣達を見送って、歌仙の横にしゃがみこむ。
「おやすみなさい歌仙」
 額に触れた唇が震える。
 明日、一体どういう顔をして彼に会えばいいのだろう。考えただけでも顔から火が出そうだ。
 それでも、気付かされた気持ちに嘘はつけなかった。

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