たぬき。か細く声を出した女は無骨そうな男を引き止めた。呼び止めた男を同田貫正国という。女の機微など理解しようとしなそう、そんなことを感じさせる言動が多い男だが、目の前の女に名を呼ばれることに少し抵抗を感じている。
 いつもとは違う、男にねだる様な声音は独特で扱いに困るのだ。
「御簾の向こうでお待ちしております」
 それが何を意味する合図なのかわからないでもない。目線の下の女は大きな瞳を瞬かせた。必ず、お待ちしておりますのでと再度丁寧に念を押す。
 何故、自分のような者がいいのか、わからない。他に数多の見目のいい刀剣男士はいたはずなのに、女は同田貫を選ぶ。
 目を丸くしている同田貫に女はくすくすと笑いだす。
「ごめんなさい。冗談よ、あなたには悪かったですね」
 目尻を下げて寂しそうに言う彼女は、今日もお疲れ様と言って私室へと向きを変えて歩き出した。
 同田貫は、失敗したかと落胆して、上手く反応を返せない自分を悔やんだ。考えてみれば、彼女はいつだって自分を選んでくれる。部隊長にしてくれるのも、近侍にしてくれるのも自分のことを評価してくれていることは分かっていたが、それ以上に彼女の想いがあったのだ。
 自室に戻ってからというものの、やはり彼女のことが気になって仕方がない。
 同室の歌仙が粗雑な態度に我慢しきれなかったのか、立ち上がる。
「そんなに気になるなら行けばいいじゃないか。……いささか雅には欠けるが、人というのは夜はさみしくなるものだ」
 さみしくなる、とはどんなことか同田貫にはまだ理解ができない。歌仙は、人というのを謳歌してるようにみえる。武器としての誇りを持ちながら、人型でできる様々な体験を楽しんでいた。
 それに比べて同田貫は、武器は強ければいいという、戦場でこそ役に立つことしかできないと思っている。
 それ故に、他の行動に関してどうすることが正解なのか顕現してから随分と経つのに未だにわからなかった。そんなことを考える暇があるなら、手合わせの時間につぎ込みたい。同田貫はそういうタイプだ。
「きっと、主は待っているよ」
 さらっと付け加えた歌仙は同田貫のことほ眼中にないのか、目の前の書物に目を落としていた。同田貫は、とりあえず行ってみるかと思い立ち部屋を出る。
 暗い廊下をすり抜けて、本丸の奥に位置する審神者の自室までやってきた。声をかけるか、かけまいか少し悩んでから同田貫は静かに襖を開ける。しん、と静まり返った部屋に息を呑んだが、部屋の出入口とは逆にある庭先で女はじっと空を見上げていた。月光が部屋に差し込み、深い影を女にも落としている。まだ、女は同田貫が入ってきたことに気がついていない。
「待たせたな」
 同田貫はゆっくりと言葉を選んで、それから声をかけた。
 さすがに声に気がついた女は彼の方へと振り向く。驚いたようにぱちりと瞳を瞬かせて、それから立ち上がり同田貫へと近づいて彼を見上げた。
「お待ちしておりました」
 ゆるりと口角と目を細めて見上げる彼女は、同田貫の心の中をぐちゃぐちゃにしていく。女は同田貫の手に己の手を重ねるが、これをどうしていいのか未だにわからない。
「まさか、本当に来て下さるとは思ってもみなかったのですが、どなたかの入れ知恵ですね」
 くすくすのと笑い出す女は、同田貫の行動を的確に当ててくる。全て筒抜けではないかと思うが、同田貫の行動がわかりやすいのも要因の一つになっていた。
「来いって言ったのはアンタだろうが」
「ふふ、そうなんですけど。嬉しくて仕方なくて」
 楽しげに笑う女を見ながら同田貫は、ふと気がつく。部屋の庭先に近い場所に徳利とお猪口があった。女の顔をよくよく見れば桃色に上気していて、仄かに酒の匂いもする。上機嫌な理由はこれだったのかと、同田貫自身が落胆していることに本人はまた気づいていない。
「そうそう、同田貫も一緒にどうかしら?」
 恐らく月見酒に付き合わせられるのだろう。同田貫の手を引いていこうとしていた。白魚のような手の先が同田貫を掴んだが、彼は動こうとはしない。女の様子からこれ以上呑ませるのはよくないことはすぐさま想像ができた。出来るのならこのまま布団で寝て欲しいものだ。
「寝たほうがいい」
「いつもこれくらいだから平気です。それになかなか来て下さらなかったのは同田貫ですからね」
 そう言われてしまっては、どうにも言葉を続けられなかった。なかなか踏ん切りがつかなかったのは同田貫であり、女はとっくの昔に覚悟を決めたのだ。
 反論の余地を残しているようで、その実全く逆に感じさせるのは女の芯の強い瞳がそう思わせる力を持っているからだろう。有無言わせない圧力に同田貫は負けた。
 女は同田貫の持つお猪口に酌をしながら、つらつらと今日のことを話し始める。本丸から出ることのない女は戦いについてではなく、日常のことを話す。
 同田貫の知らない、本丸に不在の間にあった出来事。優しい顔で話していくそれは、暖かい風景なのだと同田貫でも理解ができた。
「まあ、アンタが楽しんでればいいんだけどよ」
 思わずでた言葉に女は目を真ん丸くして、それから大きな瞳を瞬かせた。
「ダメですよ。今度は同田貫も一緒にですからね」
 また笑ってみせて、こつんとお猪口を合わせた。


2015/10/17

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