部屋が薄暗いなと気がついて電気を点けたのが半刻前のことだった。万年筆を紙に走らせていた手を止めたのは、遠くから轟く音が聞こえたからだった。外の様子が見える窓も、廊下へと続く障子も締め切っていたので、審神者は休憩がてら外の空気を吸おうと執務室を出た。
 雲のかかった薄暗い空はいつの間にか黒い重たい空に変わっていて、遠雷が耳の入る。じきにこの本丸の上空にも、稲光とともに激しい音がやってくるのだろう。
 本来、本丸はいつでも季節を変えることも可能だったが、審神者はそういったことはせずにできるだけ現世と似たような季節の移り変わりをするように設定をしていた。刀剣男士たちの中には、不満を漏らすものも少なからずいたが、季節感の狂いよりも、普段から移り変わりを感じるほうが好きだったのだ。
 審神者が廊下を歩いていると、急ぎ足の歌仙と出くわした。
「少し手伝ってくれないか」
「どうしたのよ」
「洗濯物が濡れてしまう前にしまいたくてね」
 なるほど。遠雷の今ならば、まだ雨に濡れなくて済む。審神者も理解をしてからすぐに頷いて、歌仙と一緒に外に出た。
 ようやく暖かくなってきたこともあり、肌を刺す冷たい空気ではなく、新しくて柔らかい生命をたっぷりと含んだ空気が頬を撫でた。
 物干し竿につるされた衣服やらシーツの場所へと行くと、ほかの者も来ており、時間をかけずに取りこむことができた。
「間に合って良かったわね」
 審神者が微笑みながら歌仙に言うと、彼も嬉しそうな顔をした。
「そういえば知っているかい?」
 取りこんだ洗濯物を大広間で畳む歌仙は、教えたくて仕方なさそうに嬉々として話し出す。こういう時の歌仙の話は大概、審神者には縁遠いもので真新しい発見や知見をもたらしてくれる。
「この時期の雷は『春雷』と呼ぶんだよ」
「しゅん、らい? ええと、春の雷って書くのであってるかしら」
「ああ。雲行きが怪しいから、洗濯物は取りこんでしまったけれど、たぶん雨は降らないかもしれないねえ」
「春に雷ってあまり聞かないものね」
 審神者も人生の中であまり耳にした記憶がない。ここで春の到来を感じるのも、審神者になって彼らと過ごすようになった故の気づきかもしれなかった。
「僕もここに来て初めて聞いたかもしれないな……これで一句詠むのも、春が近づいてきたと思えるね」
 歌仙が鼻歌まじりに言の葉を音に変えていくのを横で聞いていると、一春がやってくることが審神者にとっても喜ばしいことに思えた。
 春になったら、歌仙が桜を見たいと言い出すかもしれないし、春爛漫の景色を見たいと審神者に行きたい場所まで指定するかもしれない。
 そうしたら、審神者は一緒に見たいと思うし、歌仙と一緒の時間を過ごしたいと思う。それ自体は何ら不思議なことではなく、審神者が審神者になってからのことであったし、これからも続いていくことに疑問はなかった。
「君が知っているかどうかわからないが、春雷は季語で、春の雷、初雷とも言うんだ。僕は和歌を詠むことが多いけれど、今日は俳句でもいいね」
「歌仙が俳句なんて珍しいわね」
「少し下手でも目を瞑ってくれたまえよ」
 朗らかに顔を緩める歌仙は、頭の中で様々な十七音を探っているのだろう。
「ええ、もちろん。私が作るものよりはずっと歌仙のほうが上手なものができるわよ」
「君もやるのかい?」
「せっかくだからね。お茶を持ってくるから、歌仙は手元の洗濯物を早く畳んでしまいましょ? そうしたらじっくり練る時間ができるわ」
 審神者が楽しそうに言いながら立ち上がると、歌仙はじっと彼女の姿をみた。
「早く戻ってきてくれないかな。君といられる時間が短くなってしまうよ」
 花が綻びて落ちてしまいそうに微笑む歌仙。
 その表情に背筋がむず痒くなるような気持ちになった審神者は、まともに歌仙の顔を見ることもできずに、すぐ戻るわねと言い残して部屋を出ていった。
「……君に送る句はずいぶん前にできているんだけどねえ」
 歌仙の言葉は審神者に聞かれることなく部屋の中で溶けていく。

 一振りと一人の春を呼ぶ遠雷が一つ、空の向こうで轟いた。

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