秋から冬へと向かう季節の変わり目。朝日が登り始めたばかりの本丸は、まだ小鳥が囀る声が聞こえるくらい、静まり返っていた。
 目覚ましもかけずに目を覚ました審神者は朝の起き抜けから身体が重くてだるかった。審神者なる者として本丸に就任してこのかた健康が自慢だと言うのに、起き上がるだけで精一杯だった。
 これは本格的に風邪を引いてしまったのだなと思うと、鈍い動きしかしてくれない身体のせいで布団から一ミリも動きたくなくなってしまう。
 しかしそれでは、今日予定している出陣やら残っている書類整理などが滞っていくと思うと、せめて布団からは出ないといけないかと考えが脳内を過ぎる。
 寝起きのままだとか、身なりがどうこうの前に、初期刀である蜂須賀に今のことを言わなければと何とかいつも羽織っている外套を肩にかけながら本丸の中をひたひたと歩く。
 本丸が水辺に囲まれているせいで朝の冷え込みは他の本丸に比べてきつい。今はぼんやりとする頭にはちょうどいい寒さだった。水面は朝日に照らされて、きらきらと細かい眩きを放っていた。
 朝の時間は皆が思い思いに過ごしている。三食を用意する厨当番はあれど、歌仙兼定、燭台切光忠をはじめとする料理好きな者らで円滑に進められているし、食事の時間をきっちり決めているわけでもない。普段から様々な場所へ出陣したり、特務管理課からの要請の任務など、本丸にいる人数はまちまちだった。
 珍しく誰にも会わないまま蜂須賀や浦島のいる部屋へたどり着ければ、大事にはならないと考えていた時のことだった。
 見えた姿に、また面倒なタイミングで出くわしたと思った。考えなくとも長義の部屋は蜂須賀の部屋の奥に位置しているのだ。もしも会うとしたら蜂須賀や浦島の他は彼くらいか。今日は出陣を言い渡していないが着替えも済んでるあたり、そろそろ何か言われる頃合いだろうなと昨日考えていた。
「おはよう」
「おはよう」
 長義がいつも通りにこやかに挨拶をしたのはつかの間だった。
「蜂須賀はもう大広間だと思うが、何か用だったかな?」
「少し探していたのだけれど……長義が伝達してくれない?」
 正直なところ、これ以上ウロウロと広い本丸の中を歩く気にはなれなかった。大広間となれば、こことは反対方向でもあるし、自分の部屋からもやや遠い。行先も知っているならば、誰かが心配してやたらに騒ぐこともないだろう。今は出来るだけ早く部屋に戻りたかった。
「伝達はいいけれど、先に部屋に一緒に戻ろう。そんなになってまで歩くなんて関心しないな」
 覇気のない審神者の様子に気がついたらしく、まったく仕方ないなと呆れていた。
「……誰も部屋の近くにいなかったのだから、しょうがないじゃない……って長義、あなたね…」
「ふらふらして、水死体になっても困るからね」
 ふわりと浮遊感に襲われ、そのまま長義に抱えられて部屋まで戻ることになった。抵抗する気力はなかったが、願わくばこんな情けない姿は他の誰にも見られたくない。風邪を引いたのは自己管理のなっていない己のせいだが、弱っている姿を見せるのは自分のポリシーに反していた。
「昨日までは元気だったよね」
「そうよ。起きたらこれだったから……」
「今日の予定はどうするつもりかな」
「出陣はいつも通りの場所だし一度だけで、他は蜂須賀に一任するって言っておいて……ここのところ出陣や任務も多かったしこの際全員おやすみでもいいとも言っておいて」
「わかった、伝えておこう。……貴女の弱々しいところが見れるなんて新鮮だね」
 くすりとした長義は部屋につくとゆっくり布団に降ろしてくれた。大人になってから風邪をひく回数も減ったのに、久々の風邪がこれだと気が滅入る。さすがに部屋まで戻ってくると、相槌を返すのも億劫になってきた。
「長義、ありがとう」
「お易い御用さ。人は風邪を引くと大変だって、監査官をしてる時に聞いたんだ。だから、貴女もゆっくり休んでればいい」
 掛け布団をかけてくれた長義は上機嫌そうに部屋を出ていった。閉じられた襖に安堵した審神者は、ゆっくりと閉じていく思考に身を任せた。


 * * *


 ゆっくり、ゆっくりと沈んで行く自分に不安を覚えた瞬間、意識は水中から息継ぎをするために顔を出すように浮上した。ばちっと目を開いたせいか部屋の薄明かりが眩しかった。見上げた天井はいつもの自分の私室で、縁側の障子を開けてもいないからか昼間の割には薄暗い。
 今日一度も確認していない端末からはどこからか聞きつけたのか、友人から心配の連絡がきていたりした。そのメッセージをぼんやりと眺めていると襖が開いた。
「ちゃんと寝てないとだよ、主」
「今、目が覚めたところよ」
 お盆に色々と乗せてやってきた蜂須賀は私の寝ているすぐ横に腰を降ろした。
「思ったよりも元気そうで、安心した」
「寝起きよりはいいかも。色々任せてしまって、ごめんなさい」
「それはいいさ。みんな協力的だから、俺も心配しなくて済む」
「そう、良かった」
「あと、歌仙達から食事をと言われてるんだ」
 食べやすいように粥まではいかなくとも、雑炊にしてくれたらしい。食べれるかと聞かれると、お腹はあまり減っていなかった。それでも朝から何も食べてないこともあってか、温かい湯気が立ち上り、漂ってくる匂いにつられそうになる。せっかく彼らが作ってくれたのだからと思うが、身体にのしかかったままの気だるさがそれを阻む。
「食べたほうがいいとは聞いてるけど、主がいらないなら食べたい時に温めてくれるとも彼らは言ってたよ」
「……じゃあ、もう少ししたらにしようかな。せっかく持ってきてくれたのに悪いことしちゃったね」
「そんなことない。俺もみんなも主が元気になってくれればそれでいいんだ」
 布団に潜ったままの審神者に、蜂須賀は今日の予定を教えてくれた。出陣については事前に審神者が長義へ伝達した通りの一回のみで、遠征部隊が一部隊出ているが、数時間後に帰還予定なのでそのままに。それから、特務管理課からの依頼については今日は返事を保留ということで、こんのすけ経由でお願いをしてくれたとのことだった。
 他にも、通常の本丸内の当番には支障がないということでそのままになったものや、出陣がなくなったことで手隙になった者は好き好きに過ごしているところまで教えてくれた。
 一通り本丸の様子を聞いた審神者は安堵した。普段から協力的なおかげもあるが、急務の依頼がなくて本当に良かった。特に、普段の出陣や大規模な調査依頼ではないものについては審神者も前線に出ることもある。やはりそういったことが、緊急で起こらないとも限らない。日頃から体調管理は必要だなと身に染みた。
「何もなくて良かった」
「主のおかげだよ。たまにはゆっくり休むといい。俺達の心配なんてしなくとも、大丈夫だよ」
「今日くらいはそうさせてもらうね」
 俺はこれで、と言って蜂須賀は部屋を出ていく。部屋は簡単に静まりかえってしまった。もう一度布団に潜って目を閉じるには頭が覚醒してしまっている。ここで書類の整理でもしていたら怒られるのだろうなと簡単に想像がついたので、窓辺まで近づいて壁に背を預けて座った。
 水面下で鯉が悠々と泳いでいた。たまに窓から餌を放り込んだりもするが、今日はあいにく部屋を歩き回るほどの体力がなかった。何も変わらない水面はずっと穏やかだ。時折凪ぐ程度で、ゆるやかにちゃぷりちゃぷりとしている。
 机に置きっぱなしになっていた小説の続きでも読もうかと手にとった。ここのところ少し忙しかったのもあって、最初の十数ページで栞を挟んだきりそのままだ。せっかくの機会だと思って読み進めることにした。
 ページを追うごとに展開が気になって読み進めていくなか、集中が切れたのは新たな来訪者のせいだった。
「朝、覇気のなかった貴女が嘘のようだね」
「今度は長義が来てくれたのね」
「その様子なら次こそご飯を食べて欲しいな。それに窓際にいるなんて関心しない」
 困った顔をしながら審神者の前で膝を折ってしゃがんだ長義は傍にあったストールを掴んだ。審神者はすでにいつもの羽織を肩にかけていたが、少し心許無いと思ったのだろう、追加するように渡してきた。
「貴方に小言を言われると、なんだか政府から怒られてるみたいね」
 審神者はおどけたように笑ったが、長義としてはあまりいい気がしなかった。
「おや。俺はとっくに貴女の刀なのにそんなこと言われるなんて心外だ」
 じっと見つめられた瞳はまっすぐに審神者を射抜く。気を抜いたら、そのまま噛みつかれてしまいそうだった。
「私も意地悪が過ぎたみたい」
 くすりとしながら審神者は手にしていた小説に栞を挟んで閉じた。
「わかってくれればいいよ」
 そう言いながら温め直して持ってきてくれた雑炊を茶碗に取り分けてくれる。審神者がそれを受け取ると、熱いから気をつけてと付け加えた。
「小さい子じゃないから大丈夫よ」
「そうかな。結構猫舌だと思ったんだけど」
 にこりしながら審神者の食事をしている様子を眺める長義はどことなく楽しそうだ。そういえば、朝出くわした時も部屋を出るまで比較的上機嫌だった。
「今日、何かいいことあった?」
「……いや、特には」
「そうかしら。いつもより表情が柔らかいから、いいことでもあったのかと思ったのよね」
 雑炊に口に入れると、ほのかな味が口の中に広がった。この味付けは燭台切のようだ。塩気が多すぎなくて、少し優しい味つけだった。
「どうだろうね」
 やはり優しい顔をしたままの長義は、審神者をはぐらかすように微笑んだ。
 長義は珍しく弱った審神者の看病を申し出て部屋にやってきたが、それは彼女は知らなくてもいいことだった。
 とっくに身も心も貴女の刀だということをこの先うんと知っていけばいい。そうしていつの日にか、自分を一番の傍に置いてくれればいい。いや、一番でなくとも必要だと頼ってくれればいい。
 だから、今はまだ少しだけ知らないままでいて欲しいと、少しだけ回復した審神者の様子を眺めながら長義は思うのだった。

toptwinkle