本丸の執務室には、春の柔らかな日差しが入り込み、ごくたまに風が凪ぐ穏やかな時間流れていた。
 審神者は、真面目に目の前の書類と格闘している長義を見ながら、思いつきを言葉にした。
「ねえ、私を連れ攫ってよ長義」
 一秒、目が合った。
 二秒、瞬きをした。
 三秒、ようやく彼の薄い唇が開いた。
「唐突だね」
 長義の声音はいつも通りを装っているようで、ギリギリ顔には出さないようにしているようだった。審神者はなんでもないように続ける。本当に審神者にとってはなんでもない会話だからだ。
「貴方となら、どこだっていいのよ」
 これも本当のことだ。世界中のどこだっていい。恐らく長義がいれば、どこにいたって退屈しない。
「じゃあ、この本丸でいいじゃないか」
「それだと、味気ないでしょ」
 審神者の言葉に、長義は持っていた書類を手放した。やれやれといった様子で審神者と合った眦を下げた。けれども、それは決して嫌そうなものではなかった。
「仕方ない人だね」
「貴方のそういうとこも好きよ」
 特大のリップサービスを提供しながら、嬉々として審神者は立ち上がる。長義をエスコートするように目の前で少ししゃがんで、手を差し出した。審神者の様子に長義は苦笑しながら、手をとった。
「主はどこをご所望かな」
「リクエスト聞いてくれるのね」
「貴女の大事な刀だからね」
 得意げに微笑んだ長義と審神者は連れ立って本丸を出ていく。時折、廊下で他の刀剣男士たちに会っても「いってらっしゃい」「気をつけてね」「晩ご飯までに帰ってくるんだよ」と次々に声が掛かった。
 そんなだからお互いに「いってきます」と声を合わせて外に出た。
 審神者も長義も持っているのは携帯端末と財布くらいで、審神者はいつにも増して小さなバッグを持っているだけだった。
 持ち物は少ないほうがいい。そのほうが身軽で自分たちらしくいられるからだ。本丸と現世を繋ぐゲートをくぐり、無機質な回廊を歩いていく。やたらに薄暗い仕様の回廊ではあるが、怖くも何ともない。等間隔に設置されたダウンライトがあるからだ。
「貴女らしいお誘いだよね」
 お互いの足音しか響かない回廊を歩きながらぽつりと長義は言った。
 今日は特別仕事が立て込んでいない日で、部隊の動きも珍しくほとんどなかった。長義が審神者の執務室にいるのは珍しくない光景で、審神者も単調な作業はとっくに終わっていた。
 それに、審神者と長義が付き合いだしてからというものの、明確にデートというものはあまりしたことがない。本丸で一緒に暮らしているせいもあるが、必要があれば、ふたりで出かけることもあるからだ。
 普段の審神者の愛情表現はストレートで、回りくどいことなんてしてくれない。
 その代わりとでも言うのか、本当に叶えて欲しい要望はあまり口にしない。
 それは長義と審神者が、お互いが付喪神と人という異なる存在だと線引きをしているせいなのか。もしくは、付き合うまでに時間がそれなりにかかった彼女の性分がそうさせているのか。長義としては両方が合わさって、審神者の行動や言動に至っているのだと解釈していた。
 横を歩く審神者はふっと気の抜けた笑みを零した。
「長義が気がついてくれるから、それでいいの。貴方以外にはしないから安心して」
 念押しするように言うものの、他の奴にそんなことをしたら、自分がどう行動してしまうのか想像して背中が薄らと寒くなる。
「嫌なことを言わないでくれ」
「そうね。でも、大丈夫よ。私は長義しか目に入ってないもの」
 さらりと言ってのける審神者は楽しそうだった。審神者の言葉に照れた長義は「覚えておく」と言うので精一杯だった。
 いつだってこの主は自分の一番欲しい言葉をくれる。幸せを分け与えるのが上手な人のもとで、刀を振るえることが嬉しく、そして自分の手が届く範囲で寄り添ってくれることが愛おしい。
「座標はこれでいいかな」
 回廊の突き当りで審神者はタッチパネルを操作した。本丸から現世を行き来するには、ある程度自ら座標指定しないと出られないようになっているのだ。
 パネルの横にすっと現れた扉を審神者は慣れたように開け、長義も連れ立って扉の先へ歩を進めた。

  * * *

審神者のリクエストに答えてやってきたのは、海岸だった。
 本丸も水辺じゃないか、という長義の情緒のない意見は何とか飲み下した。
 快晴の空の下、海面はきらきらとしていて、審神者は長義の手を引いて波打ち際まで近づいていく。
「刀剣男士が海ってどうなんだ」
 本体が鈍になったらどうしてくれる、とは口にはしないが声音には少し混ざってしまった。はっとしたものの、審神者の耳にはちゃんと届いていて、くすくすと笑いだした。
「別に肉体があるんだから、不思議ではないでしょうに。……まだ海水は冷たいかな」
 審神者は声を弾ませながら、器用に片手でヒールを砂浜に脱ぎ捨てた。まるで初めて海にやってきた子供のようだ。
 ふいに見据えた海岸沿いに伸びる国道沿いには、桜が満開に咲き並んでいた。
 審神者はお構い無しに海水へと足を浸していたる。彼女の言う通り、春先の海水なんて冷たいだろうに。
「長義も足くらい浸かれば?」
「はあ?」
 思わず、本音が零れた。春風が冷たい今、足を浸すつもりなんてなかった。けれども、審神者は長義の顔を真っ直ぐと見て、無邪気に笑った。
「連れ攫ってくれないの?」
「なんでそうなるかな」
 自分でも思ったよりも素直に呆れた声が出た。
 長義がどこまで叶えられるかどうか彼女は知っているはずなのにもかかわらず、簡単に言ってのける。
「じゃあ、私が連れ攫ってあげる。ほら靴も靴下も脱いで」
 さあさあと審神者が囃し立てるものだから、仕方なく長義は靴を脱いで、靴下も脱ぎ捨てた。寄せては引いていく漣が長義の足を濡らしていく。
「冷たすぎだろ」
「風邪ひいたら蜂須賀に怒られそうね」
 蜂須賀はこの本丸の初期刀だ。審神者の良き相棒である。遊んできて風邪を引いた日には、心配しながら静かに審神者に言う姿が想像出来た。
 もう少しこっち、と言って審神者は長義の手を引く。細っこい華奢な指先で長義の手のひらを絡めとって、少しだけ波打ち際と海の境目まで近づく。
「主」
「なあに」
 振り向きざま、柔らかい応答だった。緩い春風が吹いて、審神者はさわさわと靡く髪の毛を抑えていた。陽の光が眩しすぎるのか、目を細め長義を見た。光が弾け、透ける毛先が審神者を縁取るようだった。その姿に長義は一瞬見惚れ、喉からせり上がった言葉が音になった。
「好きだよ」
 思わず出た言葉がそれだった。長義の言葉に審神者は満足そうに笑み、真っ直ぐに答えてくれた。
「ありがとう、愛してる」
「……それは狡い」
「もっと必要?」
 おどけてみせながら微笑む審神者を抱きしめた。
「俺も貴女を愛してる」
 誰もいない所へ攫ってみせるほど、どこかへは行けやしない。それでも、波打ち際に寄せる漣のようにこの人の傍に寄り添っていたい。腕の中で感じる温もりを大切にして、今みたいに再び感じられるように、戦場へ出ても審神者のもとへと還るのだ。
 審神者の顎をすくい上げ、唇を重ねる。いつの間にか審神者の小さな両手が、長義の頬へ添えられていた。
「これじゃ、全然貴方のこと攫えないじゃない」
 不満げに言うくせに、優しく笑う姿のせいで全然不満そうに聞こえなかった。
「俺も貴女のことを攫えないからおあいこだよ」
「それもそうね」
「だから、もう一回」
 再びキスをして、長義と審神者は顔を見合わせて笑いあった。
 世界中のどこを探したって、世界の果てはない。青空を飲み込んだ海がふたりを攫うことも、満開の桜の木の下で攫うこともできやしない。
 それでも、繋ぎ止めることはお互いにしかできないことなのも、ふたりは知っていた。

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