休日の朝は、いつも彼が淹れてくれるコーヒーの匂いで目が覚める。こっそりと彼が自室の扉を開けておいて、私が目を覚ますのを見計らったかのようにコーヒーが落とし終わるのだ。マグカップを用意して、ミルクと砂糖を入れて混ぜるスプーンの音がかちゃかちゃとなり始めて、私は観念して暖かい羽毛布団から起き上がる。そうして大して広くもないアパートのリビングに顔を出すと、歌仙は「おはよう」と言って、二人掛けのダイニングテーブルにマグカップをことりと置いてくれた。
「……種類変えた?」
 鼻腔を擽る香りがいつもと異なっていた。
「そうだね。君が好きそうなものにしてみたんだ」
 歌仙はブラックのまま口をつけている。私が好きそうなもの、ということは大抵歌仙も好きな味ということになる。コーヒーは嗜好品だから、好みの違いも出やすいけれどブラックで飲んでも、ミルクを入れても美味しいものを歌仙は選んでくれたらしい。
 私がコーヒーを飲む時は牛乳に、砂糖は二杯半。ちょっと砂糖が多いとはよく言われる。時々は砂糖なしにして飲んでみたりもするけれど、大抵は甘い味付け。
 歌仙は読みかけの文庫本を手にしていて、私が起きるだいぶ前に起床していたらしい。私も決して惰眠を貪っているというわけではないが、歌仙のほうが起きるのは早い。
「今日はどこか出かけるかい?」
「うーん……そういえば、新しい家具が見たいんだけど」
 少し前から部屋に新しく置く本棚を探している。今使っている本棚は学生時代から使用しているけれど、歌仙と暮らすようになってからは、部屋の中が落ち着いている雰囲気のせいか、白っぽいカラーリングの本棚は部屋の中で浮いていた。気に入ってはいるけれど、今の部屋にはもっと暗い色をした本棚のほうが映える。
「それならこの間新しいショップを見つけたよ。そのあたりに古書店があるから僕はそこに寄りたいかな」
 歌仙の言う古書店には私も一緒に行ったことがある。古書には詳しくない私でも、歌仙が贔屓にしていてそこの店主ともよく話し込んでいるのを知っている。
 確かその店の近くには、ランチが美味しい喫茶店があったから、二人で出かけるにはちょうどいい。クラブハウスサンドがおいしいのだ。歌仙はシンプルな卵サンドのほうが好きで、デザートはオーナー特製のパンナコッタが置いてある。それとも、お茶をするのにワッフルでもいいかもしれない。
 それならば用意を始めないとだ。休日は自分が思っているよりもずっと時間が短い。
 マグカップに入ったコーヒーを飲み干すと、歌仙は苦笑する。
「そんなに急がなくても大丈夫さ。ゆっくり準備するといいよ」
「ありがとう。歌仙と早く出かけたいの」
 今度は目をまんまるくした歌仙は、しばらく固まっていた。いつも私のことを気遣ってくれるけれど、歌仙だって早く外に出て新しい本に出会いたいはずなのだ。だって、さっきから小説のページをめくる手が止まっている。
 歌仙の様子を横目に自室に戻った私は、クローゼットを開けて今日はどれを着ようか悩ましい。机に置きっぱなしにしていたスマートフォンで今日の天気を見ていると、春にしては少し高い気温だった。それなら、やや薄着にして、上に何か羽織るくらいが丁度良さげだった。
 天気も良かったので、せっかくならお弁当を用意してピクニックでもよかったかもしれないと思ったのは、着替え終わった後のことだった。フルメイクをして、外出の用意が整うと歌仙もいつのまにか出掛ける用意が終わっていた。

 * * *

 最寄り駅から商店街を歩いて、電車を数駅乗り継ぐ。車窓から見える桜はいつの間にか葉桜になりかけていた。毎日通勤に利用している路線にもかかわらず、満員電車のせいで見逃していたようだ。
「歌仙、今日のシャツこの間買ったやつね」
「やっとおろせたんだ。仕事に着ていくにはカジュアルだし、君とは最近出かけていなかっただろう? 今日の君の格好とも合ってるんじゃないかな」
「そう思う。私は桜の咲いてる間に着たいなと思ってたスカートなの」
 お互いに考えていたことが同じで、休日の少し静かな車内でくすりと笑ってしまった。
 趣味も似通っているのもあるが、お互いに示し合わせたように服を買ったり、家に足りてなかったものを買い出してきて、二倍になってしまうこともたまにあった。
 電車を降りて歩く街並みはすっかり春が駆け抜けていくようだった。街路樹の葉色が鮮やかになってきていて、気持ちのいいくらいに青い空に映えている。
「ショップってどの辺にあるの?」
「いつもの店よりも住宅街に入ったところだよ」
「そうなんだ」
「僕も本棚買おうかな」
「……歌仙の部屋に新しい本棚増やしたら、ますます床が無くなっちゃうじゃない」
「そうかな」
「そうよ」
 このままでは、歌仙の部屋は本で一杯になって、紙の海に埋もれてどこにいるのか分からなくなってしまいそうだ。今でさえ、一ヶ月の間に増殖し続ける本の数は知れない。そもそも、歌仙自身が自分の持っている本をどの程度把握しているのか私は知らない。
 いつかは、今よりも大きいアパートに引っ越すか、分譲マンションを買うか、戸建てを買うか。私が心配をしつつ、そんなことを考えているうちに歌仙は本を増やし続けるのだろう。
 街の花壇に目を向けたりしながら、あれやこれやと話していると、新しくできていたと言うショップにたどり着いた。どうやら、個人経営のセレクトショップのようだ。木造りのドアを開けて店内に入ると、やや薄暗い照明が点いていた。インテリアのジャンルは限定されていないようだった。
 店主に声をかけて話しを聞いてみれば、店主が気に入ったインテリアを国内外問わず置いているとのことだった。
「サイズは見てきたのかい」
「うん。メモしてきたよ。背が高すぎない方がいいかな」
 棚がいくつか置いてある付近をみていく。今の部屋は白っぽすぎないようにしていて、無難なラインならパイン材の本棚でもいいが、長く使うならもっと色味の落ち着いたものでもいいだろう。
「こっちはどうかな」
 歌仙に言われて振り向いた先には、ブラウンカラーの棚があった。自分が考えていたよりは一回り大きい本棚だ。だが部屋の中には置けなくはないサイズだった。
「高さがぴったりだ」
 棚の上に手を置くとすんなりと馴染んだ。歌仙のお眼鏡にかなうだけに、素材も文句なかった。横幅のサイズは少し大きいが、何よりも私が使うには丁度いい高さだった。
「これにしようかな」
 そんな風にポツリと言えば、歌仙はいつのまにか店主と配送の話しをしだしていた。私が棚の背面を確認していたり、別のインテリアに目をやっているうちにあっという間に話しがまとまっていた。支払いは、と確認したかったのに、歌仙が済ませていた。
「もう、私が買いたかったのに」
「たまにはいいだろう?」
「全然たまにじゃないけどね」
 歌仙は私を甘やかしすぎなのだ。そもそも今朝だって甘やかしているし、甘やかし慣れして欲張りになったらどうするつもりなのだろう。
 店主に挨拶をしてから外に出ながら聞いてみる。
「歌仙は私がもっと欲張りになったらどうするつもり?」
「それは嬉しいね」
「そう……」
 うっとりとした歌仙の顔は、嬉しくて仕方ないといった様子だった。
 私はとっくに彼に骨抜きにされているのに、歌仙は気がついていないのだ。
「本当は私がしたいんだけどなあ」
 私が困った顔をしたところで、一ミリも効いていないのは歌仙の顔をみれば明白だった。だって、最初に付き合い始めた頃から、歌仙は私を甘やかすのが上手だったからだ。
「まあ、古書店に長居して付き合ってくれるの君しかいないから、何度でも甘やかすつもりだよ」
「そっちが本音?」
「まさか。でも、君にしかしないから存分に寄りかかるといいよ」
 そこまで歌仙に言われてしまっては、私は大人しく甘やかされるしか道がなかった。

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