端末からのメッセージを一通り確認し、返信を終えた審神者は執務室の窓から外を見やった。外は澄んだ青い空が広がっており、その下はいつも通りの水面、とはなっていなかった。普段はたっぷりとした青緑色をしている水面は分厚い氷の層になり、上には真っ白い雪が降り積もり、辺り一帯を銀世界に染めていた。
 さすがに窓を開けると寒々しい突き刺すような空気が入り込むので、この時期は換気をする以外に窓を開けっぴろげにするわけにもいかず、椅子に座ったまま真っ白い様子を眺めるのが、この時期の息抜きだった。
 ティーカップに入った紅茶はすでに温くなっていた。半分ほど残っていたそれを飲み込み、ソーサーと合わせて持ちつつ、審神者は近くに掛けていたコートとマフラーも手に取り、執務室を出た。床張りの廊下を進み、出入り口に暖簾がかかった厨に顔を出した。
「燭台切いる?」
 声を掛けながら中に入った審神者は、厨の奥にあるオーブンの前にいる燭台切の姿を見つけた。今日の近侍が燭台切だったからだ。とはいえ、厨に出入りすることの多い燭台切が近侍の時、審神者はあまり仕事を詰めていない。こうして、彼が気にせず動けるようにする為だった。
 審神者の声に気がついた燭台切が振り返ると、審神者はティーカップを水道に置きつつ、彼に近づいた。
「あれ、主出かけるの?」
「ええ。ちょっと約束があって」
「一人で?」
 約束となれば審神者の受け持つ仕事関連だろう。行き先にもよるが、この主を簡単に一人でほっつき歩かせるような男士はこの本丸にはいない。もちろん、燭台切も彼女を一人で出歩かせるつもりはなかった。
「長義に声掛けたから一人じゃないわ。……たぶん、遅くはならないと思うんだけど。今日のご馳走を逃したくないし」
 審神者は燭台切らが用意してるクリスマス用の料理を見ながら肩を竦めた。さすがにこの日に主が外に出て食べてきたら、がっかりしてしまうし、審神者としては彼らが作ってくれる料理を楽しみにしていた。
「それなら、取っておこうか?」
「大丈夫よ、間に合うように戻ってくるわ。表にはもう外出表示にしたけど、もし蜂須賀が気にしてたら言っといてもらえるかしら?」
「いいよ」
「じゃあ、行ってくるわね」
 軽く手を上げた審神者は足早に厨をあとにした。燭台切はにこやかに主を見送ったが、ひとつ疑問が残る。
「もしかして、長義くんとデートだったりして」
 憶測の域を過ぎない考えがつい口に出たが、約束優先にしても仕事関連の約束ならば、今日がクリスマスで、本丸でも楽しみにしている男士が多くとも、近侍である燭台切が同行するのがいいのではないだろうか。主が仕事を遂行する上で、同行が近侍でなくともいい、という考えをもっているのは今に始まったことではない。それでも、わざわざこの日に彼を同行者に選ぶとなれば、勝手に勘ぐってしまうものだ。
「気になるとしても、手を動かしてくれないか」
「ああ、歌仙くん、ごめん」
 燭台切の近くの調理器具を取りにきた歌仙は、審神者の言動に我関せずといった様子だった。
 実際のところは、燭台切も歌仙も、この場にいる者、誰一人として知る由もなかった。

 審神者は長義が待っている本丸と他を行き交うための大門の前まで向かいながら、手にしていたマフラーを巻いた。
「マフラー巻いてなかったら、無理やりにでも巻かせたところだったよ」
 マフラーを巻いている姿が見えたのか、長義が窘めると、審神者も軽くあしらうように笑った。
「さすがにこれから寒空の下に行くんだから、しないわよ」
 どちらが促すわけでもなく歩き出す。本丸を一歩出ると、本丸に降り積もった雪の湿気が残る寒さよりも、乾燥した空気が二人を包む。コツコツと審神者の履いたブーツと長義の革靴の音だけが、回廊に静かに響いていた。
 回廊の端まで辿り着くと、審神者は壁にある端末に予定している出口への座標を入力した。がちゃりとわざとらしく解錠音が回廊に響き渡ると、長義が扉を開け、審神者が先に回廊を出た。審神者が出たのを確認し、己の背後まで確認してから長義も彼女のあとに続いた。
 指定した場所から出た街並みはイルミネーション通りに面した通りで、行き先が決まっている審神者と長義は慣れたようにアスファルト舗装のされた道を進む。
 約束の場所は、ホテルのロビーだった。向こうが先に指定してきた場所だったので、審神者には断る理由がなかった。約束してきた本人の都合に合わせてるとも言うが。
 ホテルのエントランスは静寂に包まれていた。厚いカーペットの上に立つと、一歩踏み出すだけでもお互いの靴音が吸収されていく。
 審神者は小さく囁くように長義に話しかけた。
「顔見知りだから、同席しててもなにも言わないと思うけれど」
「いや、いいよ。近場にいるから問題ない」
 今日、審神者と約束をしている人物は、彼女の古馴染みで審神者のことをよく知っている。長義のことだって聞いているのだろう。もしくは、仕事柄彼女に聞かなくとも知っているのかもしれない。
 長義の返事に審神者は気を悪くするでもなくあっさりと了承し、またあとでと言って待ち合わせた人の元へとゆっくりと歩いていく。
 審神者は目的の人を見つけ、一直線に歩いていく。恐らく少し前から待ち合わせ場所に現れれていたのか、彼女は審神者と長義の姿にも気がついていたようだ。遠くからでも視線がぴったりと合った。席までたどり着き、審神者が荷物をソファの横に置き、腰をおろすと目の前の彼女は待っていたとばかりに口を開いた。
「彼は一緒じゃなくていいの」
 彼女はシンプルなコーヒーカップに口をつけながら問う。
「さっき断られたわ」
「あら。せっかくなら近くで見たかったな」
「興味ないくせに」
「そんなことない。あなたが彼と付き合うって聞いた時に驚いたもの。趣味変わったの?」
「さあ、どうかしら。私はその時に好きなひとと付き合ってるだけよ」
 審神者の付き合ってきた人の遍歴を知っていたら、確かにそう思うかもしれないが、別に容姿や決まった性格がいいからと選んでいるわけではなかった。たまたま、今は長義とそうなっただけの話だ。
 本題から延々とずれていきそうだったので、審神者から要件を促した。これで、彼女が情報屋というのは、なんとも不思議なものではあるが、これでも信用に値する人物だ。
「依頼の件ね。データはこの中にまとめてあるから時間ある時に見て」
 そういって彼女の手にはメモリが握られていた。データファイルで送ってくれればそれで済むのに、とは思ったものの古馴染みであり友人でもある彼女のことを無碍には出来なかった。
「ありがとう、助かるわ」
「あなたの頼みだから、はりきっちゃった。あと、これも受け取って」
 彼女は自分が座っている隣に置いていた紙袋を差し出した。審神者もこうなることは予想済みだ。お互いホリデーに予定が空いていた頃は、この日は決まって二人で気に入ったレストランでディナーをしたり、気兼ねない時間を過ごしていた。
「私も持ってきたわ」
「嬉しい。ありがとう」
 そうしてプレゼントを贈りあうひと時はあっという間だった。
「じゃあ、私はこのあと彼と予定あるから。あなたもそこの彼と仲良くね」
「ええ。また今度ね」
「うん。メリークリスマス」
 爽やかに告げた彼女が手を軽く振ってロビーから消えていくのを見送った。審神者も荷物を一纏めにして立ち上がると、今度は長義が近づいてきた。
「どの要件が本題だったのかな」
「彼女の場合は全部ね。長義が離れて遠くにいるからって残念がってたわ。今度は同席するのはどう?」
「……遠慮しておく」
「どうして? 別に減るものじゃないでしょうに」
 楽しそうに声を弾ませた審神者が考えていそうなことが長義には手に取るようにわかり、なんとも言えない表情になった。彼女のことだ。自分の恋刀が知り合いに会ってどんな反応をするのか見たいのだろう。
「減る減らないの問題じゃないな」
「残念。それならしょうがないわね」
 審神者が引き下がると、長義はほっとした。
 ふたりがホテルから出ると、審神者はこっちよと長義に帰路ではないほうを指し示した。
「帰るんじゃないのか」
「こんな日に仕事で呼び出されただけで帰るなんてもったいないでしょ。心配しなくても大丈夫よ。燭台切には夕飯に間に合うように帰るって話してきたわ」
 付き合ってくれないの、と続けた審神者に断る余地がなかった長義はいいよと頷くしかなかった。
 日が傾き始めた街並みを歩き、交通量が多い通りから、広場へのルートへ出ると、長義もどこへ向かっているのか予想が出来た。この時期に多目的広場では、クリスマスマーケットが開催されている。普段は何にもない殺風景な広場も、今は露店と、大きなクリスマスツリーやクリスマスらしい賑やかな飾り付けがされていた。
 広場の近く連なっている様々な店舗がこのクリスマスマーケットに便乗するかのように、看板を出していたり、クリスマスセールと書かれたポップも見受けられ目立っていた。
「これも仕事かな」
「わざとらしく確認しないでちょうだい」
「それなら良かった」
 審神者が素直に白状してくれたので、長義は機嫌を良くしながら、審神者の手荷物を全部持ってしまう。審神者も空いているほうの長義の腕をするりと掴む。
 どうせ周りも家族連れやカップル、友人たちのグループばかりだ。審神者と長義の姿も簡単にその他大勢でつくる景色の一部と化してしまった。
「ホットワインください」
 審神者が露店で出ているホットワインを頼む。湯気が見えるほど温かいカップを受け取った。
「熱いから気をつけてくださいね」
 店員が丁寧に教えてくれ、審神者も笑顔で応答した。
「熱いって」
「よく冷ましてからがいいんじゃないかな」
「そうね。長義が先に飲んでいいわよ」
 熱いものがあまり得意ではない審神者は、長義にカップを手渡した。クリスマスマーケットに来たし、寒いから温まりたいと思って頼んだが、猫舌が治るわけではない。
 長義が物珍しそうに飲む姿を眺めながら、やっぱり彼を誘って良かったと思った。
 きっと本丸の誰を誘っても楽しんでくれるだろうが、審神者にとっては彼でなければいけない理由もたくさんある。そもそも最初から長義が断るとは思っていないあたりは、自惚れすぎかも、とたまに考えるが、断られたことがないのだから仕方ない。
 これも自分だけが見られる姿だろうと思えば、なんてことはない。わざわざ確かめるようなことをしなくても、長義の反応次第で満足してしまえるのだ。
「そんなに見られても困るんだが……」
「私から見られるなんて慣れてるじゃない」
「まあね」
 くすくすと審神者が笑う横で、長義はもういいだろう、と少し冷めたカップを審神者に渡した。素直にカップを受け取った審神者は、しばらく手を温めるようにしていたが、まだ立ち上る湯気で温度を気にしながら、ゆっくりと口をつけた。その様子がおっかなびっくりで、いつもよりも幼く見えるな、と長義は何も言わないまま審神者がホットワインを飲み終えるのをただ待っていた。
 この他愛もない瞬間を幸福と呼ぶならば、これは紛れもない幸福の一部なのだろう。審神者が微笑みを向けるのは、今この瞬間は長義ただひとりだけだから。
 長義が次はどこへ行くのかと尋ねるまでもなく、審神者がこっちのお店にね、と言うので、連れられていく。キャンドルが並べられた店先はクリスマスらしく、商品棚に敷かれた真紅の敷き布が鮮やかで、キャンドルは乳白色のベーシックなものから、赤や緑など様々なものが取り揃えられていた。
「どっちがいいと思う?」
 審神者はシンプルな乳白色のキャンドルにするか、キャンドルホルダーとのセットになっているものにするか悩んでいるようだった。
「せっかくだから執務室に置こうと思って」
「シンプルなやつだと怖く見えるよ」
「それなら、こっちにしようかな。部屋が寒々しいから、これなら少し見た目も温かそうでしょ?」
 楽しそうに会計を済ます審神者を横目に、長義は彼女がキャンドルを選び始めた時点で、部屋で書類を燃やすつもりかと過ぎったのは、胸の奥へとしまっておくことにした。こんなところで彼女との時間を台無しにしたくなかった。
「あなたが楽しそうで良かったよ」
「そうね。長義がいてくれるおかげよ」
 日が沈んでいき、灯りが周りの店先で点っていく景色を背景に審神者は微笑む。
「あともう少しでツリーの点灯時間なの。あと少しだけいい?」
「もちろん」
 広場の真ん中に設置された背の高いクリスマスツリーの前へと移動した。点灯時刻になると、パッと周りを一段と明るくするようにクリスマスツリーに灯りが点った。
 きらきらと光るツリーに、審神者を目を輝かせていた。これだけきれいに光っていたら、自分の目にもきれいに写るな、と長義も感心した。たしか、女性のほうがイルミネーションはきれいに見えるのだとか。彼女と同じように見えたら、もっとこの景色も違って見えるのかもしれない。
「長義と見れて良かったわ」
「俺はあなたが楽しそうで良かったよ」
「景色も楽しんで欲しいわ」
「十分楽しんだよ」
「本当に?」
 そんな風に聞き返すわりに、審神者の声は疑っているものではなかった。仕方ないなとしつつも、この瞬間がつかの間のものだと理解している声だった。
「ねえ、キスしてもいい?」
 新しいことをひらめいたように無邪気な声だった。
「ここでかな」
「そうよ」
 面前でキスするなんて、と小言なんて言う気にはならなかった。
 もう自分たちはその他大勢と同じようにクリスマスを彩る景色の一部でしかなくて、埋もれてしまっているだろうから。
 少し背伸びをした審神者が長義の首のほうへ腕を回すのと変わらないタイミングで、彼女を肩を引き寄せ、キスをした。
「もう一回」
 そんな審神者の一言に一瞬戸惑った長義に、彼女は「冗談よ」と長義の腕の中で笑った。
 帰り道は、ちらちらと舞い始めた小雪のなかで明るいイルミネーション通りを歩いて帰った。きらきらと明るい通りに別れを告げるまで、審神者と長義は手を繋いでいた。

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