※現パロ

  1

 同棲して数年になる長義がソファで寛いでいる後ろ姿を見ながら、夕食終わりの食器洗いをしていた時のことだった。一通り洗い終わり、食器をふきんで拭いていると、最初は微妙に聞き取れなかったが、聞こえてきた声に耳を澄ませた。
「手作りのチョコ作ってくれないか」
 顔を後ろに向けたままの長義は、私の顔を見たくないようだった。多分、断られた時が小っ恥ずかしい上に、格好がつかないからだ。
 私は最後の皿を拭いて食器棚に戻してから、長義の元へと行く。どうせなら全部彼の反応を確認してみたくなった。
「どうして急にそんなこと言うの」
 床にしゃがみこみ、長義を見上げる。すでに苦い顔をした長義は、私の好奇心でいっぱいの様子に、ああー、と胸中で嘆いているのだろう。嘆いたところで時すでに遅し。
 長義も珍しいことを言うものだ。付き合う前も、付き合ってからも、それから同棲してからも長義に手作りのお菓子を振る舞ったことは一度としてない。作れないかどうかと問われば、ノーと容易く答えられるけど、わざわざ舌の肥えた長義に素人が作った適当なお菓子を渡す考えが頭になかった。
 なんなら、今年はとっくにお気に入りのパティスリーのバレンタイン限定商品のザッハトルテを予約済みだ。
「昔、女子社員に手作り配ってたことあるだろう? それを思い出したのと、あなたが作ったお菓子食べたことなかったなと……」
 これでいいだろ、と半ばヤケクソ気味に言い切った長義は、私の返答を促してくる。職場でなら絶対に見ることができない隙だらけの言葉が可愛いくも、多少なり彼の好奇心も入り混じっているらしい。
「それでバレンタインにかこつけて食べたいの?」
 これは少し意地悪な言い回しだと、頭では理解しつつもじっと長義の言葉を待つ。視線を左右にさ迷わせ、ずいっと顔を近づけられた。端正な顔立ちまで利用しようとしても無駄だ。とっくに見慣れてしまっている。何度見ても、よく整っているとは思うけれど。
「駄目かな。わざわざ理由を並べ立てたら、折れてくれると思ったんだけどな」
「長義が満足するもの作ろうとしたら、寿命が先に尽きそうよ」
「いや、別にあなたが作ってくれたものなら、何だっていいんだが」
「そう言って、前に凝った料理作ったら、微妙な顔してたから嫌」
「何で覚えてるんだ」
 あれ、三年くらい前だぞ、と驚いているが、長義だってばっちり覚えているあたり、お互いの記憶力がいいとこういう時に厄介だ。
「覚えてるわよ。私だって、好きな人に美味しいご飯食べさせてあげたいし、文句も言わずに食べたのだって覚えてるわよ。だから、そうね。一生懸命お願いしてくれるのは嬉しいけど、あんまり作りたくない」
「あんまりってことは、全く作りたくないってわけじゃないんだ」
「揚げ足を取らないで」
「そういうことだろ」
 活路を見出したのか、いつもの調子で話し始めた長義は嬉しそうだった。こんな問答でやたらにテンションを上げられても困るが、明日からの業務に響いても困る。
 でも、元々渡す予定だったものは予約済みなのだ。少し渡すものが多ても困りはしないだろう。毎年一緒に食べているザッハトルテだから、最悪失敗しても大丈夫かなと頭の中でシュミュレーションをしてみた。
 おねだりと言うと長義は餓鬼じゃないよと反論するけれど、たまにはその子供じみた可愛さに折れてもいいかなと、結局彼に甘い側面が脳裏にチラつく。業務も立て込んでいないし、週末も使えるしと、ここまで至っては答えは一つなのだ。
「まあ、作ってもいいわよ」
 我ながら可愛くない返答だ。どうせこの言い回しの仕方だって、見破られている。
 長義の反応を伺えば、ぱあと珍しく素直な喜びようで、その様子にちょっとだけ胸が高鳴ったのは内緒にしておこうと思った。

  2

 外回りが一通り終わり、オフィスに戻る前に遅めのランチをとるために職場近くのイタリアンに寄った。この後は他拠点とのウェブ会議と、新製品の打ち合わせだったなと予定を確認しつつ、スマートフォンからインターネットの画面を立ち上げる。映し出されたのはレシピサイトだ。
「何かお調べですか?」
「お菓子のレシピなんだけど、どれにしようかなと思ってて」
 同行してくれた後輩に苦笑気味に答えれば、キラキラと表情を一変させた。そう言えば、女子社員に手作りのものを渡したことがあるのは、彼女が入る少し前だった。
「長船さんにあげるんですか?」
「ええ、そうよ」
 お願いされたから、と言ったら長義が吹聴するなと言いそうだから割愛したけれど、目の前の後輩は楽しそうに話し出す。どうやら、彼女の得意分野のスイッチを押してしまったらしい。普段なら自分がお節介を焼いているはずなのに、立場が逆転している。
「せっかくなら、普段は作れないものを渡すのでもいいですよね。どんなものにされるんですか」
「無難にクッキーとトリュフにしておこうと思っているんだけど」
「そうなんですか。もっと凝ったお菓子作るのかと思いました」
 意外そうな反応を示した後輩に、お菓子は普段作らないのと付け加えた。
 学生時代はことあるごとに作ったりもしたが、さすがに社会人になってからは作るよりも買うほうが楽しくなってしまったのだ。周辺で美味しいパティスリーを見つけたり、最近なんかはお取り寄せの味も知ってしまっている。だから、作らないと言うのは、もしかしたら彼への言い訳にしかならないのだ。それでも、本当は今年も一緒に食べられればそれでいいのに、とは長義には言えなかった。
「じゃ、じゃあ! ご都合が良ければなんですが、私と一緒に作りませんか? 友人にはいつも手作りをあげてて、今年も作るので」
「いや、いきなりは迷惑じゃないかしら」
「むしろ私がお時間もらうくらいですので、せっかくのお休みを過ごして長船さんに怒られないか心配ですが、せっかくならお一人で作るよりも楽しいと思うんです」
 もう何年も形骸化してきたと思っていたのに降って沸いたように、今年のバレンタインは外野によって外堀を埋められていく。
 ぐいぐいと珍しく押しの強い後輩に負けたのは、料理を全て食べ終わったあとだった。
 結局、土曜日に材料を買い出して彼女の家へ向かうことにあれよという間に決まってしまった。
 家に帰ってから長義に土曜日は後輩の家へ出かけることを伝えると「いってらっしゃい」とあっさりしたものだった。どうせ、作るってわかりきっているからだ。
 家の近辺でどこが一番製菓材料が揃っているかは事前にリサーチ済みで、あとは週末に手順通りうまくやるだけだった。

  3

「遅くなる前には帰ってくるね」
「いってらっしゃい。マフラーと手袋はちゃんとすること」
 玄関までわざわざ見送りにきた長義は、まだ巻いてないマフラーと、カバンに入れただけの手袋を見逃してはくれなかった。
 春のような日差しが顔を出す日もあれば、まだ凍えるような寒い日もある。今日はどちらといえば後者だ。
「はいはい、ちゃんとしていくわ」
「そのまましないつもりだろ。ほら貸して」
 大人しくマフラーを手渡せば、長義の手で丁寧に巻かれた。満足そうにしているけれど、自分にとっての特権だと彼からダダ漏れで。逆に自分もそう感じているからお相子様である。そっと回ってきた腕に、大人しくされるがままになると、長義がおずおずと話し出す。
「楽しみにしてていいのかな」
「……いいわよ」
 出る間際にぎゅっと抱き寄せられ、こんなやり取りをしてから家を出ただなんて、口が裂けても後輩に話せないなと思った。
 材料を一通り買い出し、ついでに後輩の家の冷蔵庫の邪魔にはならないからと予約していたケーキを受け取り、後輩への焼き菓子を追加で買った。
 後輩は、職場からは私とは反対方向に住んでいて、移動距離は家からだと少し長い。人とバレンタインチョコを作るなんて中学生か高校生以来だと思い出しつつ、後輩の家へと向かった。
 駅からほど近い住宅街の中に後輩が住むアパートがあり、インターホンを鳴らすと、はーいと元気な声が返ってきた。
「ちょっと狭いですが……」
「一人暮らしならそんなものでしょ。私もそうだったわ」
 荷物を置かせてもらってから、彼女に先にお願いをしてケーキを仕舞わせてもらった。
「ケーキも渡すんですか?」
「元々予約してたし、この時期にしか買えないケーキなの。失敗した時の保険」
 笑ってみせれば、大丈夫ですよと彼女も笑ってくれた。
 先に取りかかって、あとで休憩したりしようという話になり、ついて早々作ることになった。焼き時間のかかるものからとなり、合間にトリュフになった。
 クッキーは見た目重視でステンドグラスクッキー、トリュフはガナッシュの味を重視して硬派な予定だ。
 後輩はケーキを作るということで、中々に気合いが入っている。その作るものの中には、彼女が片想いをしている人の分もあるのだろう。少し微笑ましい気持ちになる。
 職場では話せないあれやこれを話しながら、全てを作り終える頃には、午後三時を過ぎていた。
 途中、後輩に味見をしてもらい、味も大丈夫なことを確かめてからラッピングをする。ここまできたら、ラッピングまで凝ってしまえと思うのは自分の性分だった。
「一緒に作れて良かったわ」
「私も色んなお話聞かせてもらいましたし、仲良く食べてくださいね」
「そうするわ。でも、少しだけ緊張するかも」
 慣れないことをするものではない。来年以降は応相談だなと心に誓った。
「週明け、良ければどうだったか教えてくださいね」
 にこにこと週明けの楽しみになっているらしい後輩に「私もあなたの話を聞かせて」と約束をした。手荷物は来る時よりも少なくなったけれど、気持ちの重たさは倍増したような気がした。

  4

 家へ帰ると、いい匂いがしていて、夕食は長義が作ってくれたのだなと一瞬で理解した。同棲する前は全然炊事に興味がなかったのに、いつの間にか出来るようになっていた。負けず嫌いもここまで来ると思わず呆れてしまうくらいだ。
「ただいま」
「おかえり」
 短い返事を聞きつつ、冷蔵庫へそっと二つの箱をしまう。目には入っているだろうに、こういう時は何も聞かない。今はその優しさが少しだけ嬉しい。
 明日にでもゆっくりと渡すつもりだから、夜はお互いに触れずに、後輩と話していたことだとか、他愛ない話をして眠りについた。

 * * *

 もぞりと布団の中で動いて隣を見れば、長義の少し幼い寝顔があった。健やかそうに閉じられた瞼で、普段覗いている鮮烈な瑠璃色は鳴りを潜めている。不思議と彼の子供のような寝顔にも見えるこの時間は悪くない。彼よりも少し早起きの特権はこれだなと休日のベッドで微笑む。寝る子は育つ、なんて言うけれどさすがに大人になったら育ちはしないから、あと少ししたら起こそう。その頃にはこれから淹れるコーヒーが落ちきるだろうし、休日の目覚めにはいいだろう。
 もう身体に染みついたルーチンワークのごとく、一通りのことをこなしていると、寝室から長義が出てきた。朝はいつもよりも大きめのマグカップにスープとトースト。さっき落とし終わったばかりのコーヒーを使い慣れたマグカップに注ぐ。朝はブラックがいいと言ってるから何もいれない。
 朝の時間帯はおはようと挨拶を交わすだけで、それっきり朝食を食べ終わるまでは無言だ。お互いにまだ覚醒しきってないのもあるけれど、なんとなく無言の時間を大事にしている。同棲し始めた頃からだけれど、何故か朝の時間の使いかたが似ていたし、困ったこともなかったからそのままだ。
 何事もなく、互いにのんびりと朝食を終え、お互いに好きなように過ごしていると淡々と時間が過ぎていった。お昼間際になり、さすがに渡しておこうかなという気になった。
「楽しみにしてるって言ってたわよね」
「俺からリクエストしたからね」
「そうね。よく考えたら、あなたに手作りのバレンタインをあげるの初めてだったから、緊張したわ」
「その言い方全然緊張してるように聞こえないよ」
「そんなことないわ。これ食べて別れたいって言われたら怖いもの」
 くすくすと笑いつつも、俺はそんな奴じゃないとラッピングした箱を受け取ってくれた。リボンを紐解き、箱を開けると、へえと関心した声をあげた。
「食べていい?」
「もちろん」
 新しく入れたコーヒーは砂糖なしのミルクだけを入れたものだった。長義がクッキーを頬張る横で、コーヒーを飲み込む。
「そんなに嬉しそうに食べられると照れるわ」
「美味しいから仕方ないよ。あなたも一緒に」
 差し出されたクッキーに口を開けるとそのまま入れられた。
 いい感じにホロホロのクッキーに、飴の部分はパキリと簡単に折れた。
「これなら来年も食べたいくらい」
「たくさん頭使ったからもうしばらくは嫌よ」
「俺のために使ってくれるなら、悪くないのにな」
「調子いいこと言うんだから」
 照れ隠しに、長義の口にトリュフを放り込む。
 彼から花束を贈られるまであと数時間だなんてこの時の私は何一つ知らなかった。

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