初めて彼を見たのは廊下だった。別になんてことはない、同じ学年でたまたま廊下に居合わせただけだ。
決定的に違って見るようになったのは、無理やり友人に連れてこられ、仕方なしに見に来たバスケの試合だった。当時、2年だった私が見たのは、先輩たちに交じって試合に参加する彼の姿だった。
 慣れない体育館の熱気に汗を拭いながら試合を見ていた。県内で行うそれほど大きくはない大会だったが、準決勝だったせいか観客は多かった。けたたましく鳴る電子音や、選手の声は体育館内によく響いていた。
 さらさらの黒髪が少し靡いて、真剣に前を見据える瞳。大きな手から放たれるスリーポイント。相手がブロックしにくいらしいあの変形フォームは彼独特のものだと言うのは後々知った。真似しようだなんて思いもしないあのフォームから放たれるシュートは確実にチームの力になっている。試合を見ている最中は誰だかは気にも留めなかった。とにかくあの試合をしている姿が印象に残っていた。
 試合が終わった後、友人に聞いてみればすんなりと名前が出てきて、あの人かと廊下で見た彼の姿を思いだしたのだった。


 *


  今でこそきちんと説明できるが、私の通う海常高校にある男子バスケ部は全国常連で、県内でも有数の強豪校だ。3年になって、1年にモデルの黄瀬涼太が入部したことにより、校内女子のバスケ部ファンは急増している。友人もその流れに乗ったのかいつの間にかほとんどの試合を見に行くほどに入れ込んでいた。…今までだってひそかに憧れている女子は多かったが、今年になって表立つように見えるのは気のせいじゃない。
 放課後の人が少ない教室から見える体育館へ目を向ければ、嫌でも人だかりが見えた。友人もおそらくその輪の中の一員となっているだろう。休み時間に楽しそうに話す友人はアイドルを見てきたかのように話してくれる。きっと明日もそうだろうと思いながら、カバンに教科書を詰めて廊下を出る。

「あれ?名字さんまだいたの」
「日誌書いてたら遅くなってね。森山君こそ部活はどうしたの?もう始まっているでしょ」
「提出し忘れてたプリントがあってさ、今日中じゃないとダメって聞いて慌てて戻ってきたんだ」
「じゃあ、私職員室行くしそれ持っていこうか?」

 廊下に出たすぐの場所で同じクラスの森山君に遭遇した。森山君はバスケ部レギュラーで本来ならとっくに練習の時間で、てっきりあの女子の群がるさらに中のコートで練習しているかと思っていた。大会も近いし大事な時期なのに、職員室に行って体育館なんて大変だろう。そう思えば、代わりに私が先生のところまで持っていくなんてすぐに行動できることだった。だから、森山君もすぐに承諾するかと思っていた。

「ありがたいけど直接出せって言われているから自分で行くよ。名字さんも職員室に行くだろ?せっかくだから一緒にどうかな」

 にっこりと人当りのいいスマイルにつられて私も笑って職員室へ向かうことになった。隣の彼は私が試合を見に行っていることなんて知らないだろうし、同じクラスになる前から存在を知っていたと彼が知ったらどんな表情をするのだろう。試してみたい気もするし、聞いてみたくもない気持ちもあり、半分こになってまぜこぜだった。森山君は話しやすいし、女の子に優しい。私はこの優しさに甘えて、一線を踏み越える気にはならなかった。少し陽の傾いた校舎内はオレンジ色の淡い色に染まっている。まぶしさに目を細めれば、彼は隣で柔らかくまぶしいねと言って笑う。

「こんだけ眩しいと向こう側が見えにくいよね」
「そうだなー…。でも校舎のほうが快適。体育館の中しんどい」
「体育館って夏は暑いし、冬は寒いしきついから?」
「まあそんなとこ。大会近いし…あ、名字さんはバスケって好き?」
「へ?」

 世間話の延長線で適当に反していたら、急な質問に間抜けな声を発してしまった。バスケはするよりは見る派だと答えれば、楽しそうに森山君が試合見に来てよと言った。

「行く。今度の試合はいつなの?」
「ええと、再来週の土曜日。予定はどう?」

 すぐには頭の中にスケジュールが出てこなくて、スマホのスケジュールを確認すれば塾も何もなかった。無事に行けることもわかり、その場ですぐ時間と会場を確認して忘れずにスケジュールに入力をした。
そうこうしているうちに職員室の前で、互いに先生のところへ提出した。

「じゃあ、俺は部活行くけど名字さんは気をつけて帰ってね。」
「うん、森山君も頑張って」

ひらひらと手を振って別れた。
普段からああなら、もっと女の子にモテるだろうなあと余計なことを考えたりしてその日は家へと帰った。


**


友人に再来週の予定を聞いたら、その日は珍しく予定が入ってるらしい。他の子にも声を掛けたが揃いも揃ってみんな予定有りで、当日仕方なく一人で見に来た。会場の市民体育館はそんなに大きくはないので2階席も狭い。海常の生徒が多い方へ席へ座る。
周りには誰一人顔見知りすらいなくて、試合が始まるまでぼんやりと眼下にあるコートを見つめていた。森山君はどこだろうと目を動かせば、さらっとした癖のない髪の毛が動きに合わせて揺れている。スタメンに彼ほどさらさらな髪の毛をしている人はいないから、動きを見ればすぐに見つけられた。
アップ終わりにひらりと手が左右に揺れて、こちらを見た気がしたのは見間違いではないだろう。見間違いだったらすごく恥ずかしいけど、間違ってないと思ってしまう私も大概だ。
試合が終わって、外に出ると通路でバスケ部に遭遇した。

「来てくれたんだ!」

 私の姿に気がついた森山君が駆け寄ってきた。さっきまでコートを走り回っていたのに元気が有り余ってる。周りの部員も近づいてきてじろじろと見られて、どうしたらいいのかわからない。近くにいた男の子が早く戻って来いよと森山君に声を掛けて去っていくと、近くにいた部員もぞろぞろと歩き去っていく。森山君はその場に残ったままで、何か話さなきゃと思い私は口を開いた。

「お疲れ様」
「ありがとう。試合始まる前に手を振ったんだけどわかった?」
「やっぱりあれ、私の方に向けてだったの」
「もちろんさ!名字さんのお陰でいつもより頑張れたし」
「いやいや、森山君の実力だよ」
「そ、そうかな…なんか面と向かって言われると恥ずかしいっていうかなんて言うか」

 少し頬を赤くして口元を手で覆う森山君。廊下で見かける彼はいつも自信ありげに女の子を口説いてるのに、目の前の姿は全然違う。きょとんと見上げてると少し遠くにいた部員が森山ーと呼びかけていた。森山君は申し訳無さそうに「また学校で」と言って足早にバスケ部の人だかりへと戻っていく。
 私はその場で立ち尽くしていた。知らなかった彼の姿、表情にほわあと温かい感情が生まれるのを感じていた。


***


 あの試合があった日から、森山君と会話する機会が格段に増えた。ちょっとしたこととか、授業のこととか、大した事ではないが事あるごとに会話をするようになった。
人によっては何か感づいたのかあれこれ聞かれたりと好き勝手に話をしている。気にならないのかと言われればノーだし、どうなのかと言われても彼についてあれこれ話せるほどの関係ではないのだ。
6限の授業が終わって帰りの仕度をしていると、隣の列にいた森山君に声を掛けられた。

「今日の帰りって予定空いてる?」
「あんまり遅くならなければ空いてるけど、どうかしたの?」
「今日練習が体育館使えなくてオフなんだ。良かったら名字さんと帰れるかなあなんて思ってさ」
「せっかくのオフなのに私でいいの?」
「名字さんがいいんだ」

時間が大丈夫ならカフェでも行けばいいしと提案してくれて、少しならと一緒に帰る気になった私は、いいよと返事をした。その返事に嬉しそうにはにかむ森山君は、スキップをするように教室を出て行ってしまった。どこに?とか疑問に思うよりも速く行ってしまった彼にぽかんとするしかない。思考回路が戻ってくる頃には、最近できた駅前のカフェとかいいなと思う自分がいて、思ったよりも彼と帰るのが楽しみになっているようだ。

「ねえ、森山と帰るの?」
「うん、部活お休みなんだって」
「気をつけなさいよね」
「何で?だって森山君だよ?」
「だからでしょ」
「いい人だよ。優しいし」

私がそう言えば友人は諦めたように長い溜息を吐いた。SHRが始まる頃には森山君も戻ってきていて、先生の短い話で終わった。
帰る仕度はとっくに終わっていて森山君と一緒に昇降口へ歩いていくと、森山君を呼ぶ元気な声が後ろから聞こえてくる。

「森山センパイ!隣の人誰ッスか?」
「げ!黄瀬かよ!お前に名字さんは近づけん!」

 黄色い頭に、周りの女の子の人口密度の高さにすぐに校内の有名人、黄瀬涼太だと気づいた。そういえば、この間の試合も出てたし、同じ部活だしなあと思い出す。森山君は私の前に手を伸ばして、黄瀬君に近づけまいとする。この状況にどうすればいいか悩んでいると、黄瀬君は楽しそうに話し出す。

「うわあそれ酷くないスか?俺だって美人さんとはお話したいですよ」
「名字さんは確かに美人だが、黄瀬は一番ダメだ。ごめんな、帰ろうか」
「……だ、大丈夫なの?」
「平気、だと思う。多分後ろから笠松来るだろうし」

 行こうと促す森山君が私の目の前に手を差し出してきて、危なくないようにだと言うもんだから私も手を重ねた。
 黄瀬君は興味が無くなったのか、笠松君を見つけて飛び跳ねるように目の前から去っていく。嵐のように来て去っていく姿は、周りの女の子が思い描くようなかっこいい黄瀬涼太とは違うのだなと感じた。
  森山君が不思議そうに私の名前を呼んだから、帰ろっかと言って歩き出した。下校時間がマックスでもないので、校舎から出る生徒が多いわけではない。まばらに駅へ向かう生徒がぽつりぽつりと目に付く程度だった。
  時々びゅうと強くなる木枯らしが、マフラーを揺らして、スカートを翻す。

「そういえばさっきね、友達に気をつけなさいよねって言われたの」
「それって俺の事?」
「多分。でも森山君は優しくしてくれるし、話も楽しいから、全然そんな気がしないの」
「……そんな、できた人間じゃないんだけどなー」

困ったように笑う森山君を見上げた。やっぱり目の前で見る彼は友人が忠告したようなことはなく、そのままの彼のような気がした。
最寄駅を乗り継いで少し開けた駅に降り立った私達は、改札口を通りぬけて人魚のようなあのマークが目印のお店へ入る。注文した商品を受け取って店内を見渡す。夕方の時間帯はそこそこ人も多く、座席をきょろきょろと見渡して、窓際が空いていることを発見した。少し狭いようだったが、そこに座ることにした。
外気の冷たさから温かい店内の入ったものの手先は冷たくかじかんでいる。温かいカップを手で包み込めばじんわりと熱が伝わってきた。

「名字さん、これ」
「もらってもいいの?」

聞けば頷く森山君。くれたのはラッピングされた小さなクッキー。ちょっとしたプレゼントだと言う。彼に何かした記憶はない。けれど彼は日頃助かってるから、今日付き合ってくれたからと言ってくれるのだ。私のおかげだと森山君は自信ありげに言うから、段々とこちらが恥ずかしくなってくる。楽しそうに続ける森山君にもう止めてと手で顔を覆いながら言う。

「じゃあ名字さんが顔を見せてくれたら止めるさ」
「…本当に?」
「ホントだって」

くすくすと声をあげながら笑う森山君を疑いながら手をよければ、やっと見れたねとにっこりとした表情をした彼が目の前にいた。

「森山君ってキザなの?」
「さあね。女の子をナンパする為の語句なら揃えてるつもりだけど……」
「じゃあ私だけが振り回されてるんだ。何か悔しい」
「まさか。俺の方が君に振り回されてる。何なら確かめてみる?」

机の上に置いた手を森山君の両手が包み込んだ。互いに暖かくなった手の平の温度が行き交う。じんわりと熱を含んだ手の平に、真っ直ぐ見つめられた両目。視線なんか外せっこない。何か話さなければと思うのに、うまく言葉に出来なくて喉の奥へ追いやった。しばらくその時間が続いた。先に口を開いたのは森山君だった。

「……ほんとに可愛いね」
「っ!…や、その、そんなこと、ない…から、」

しゅう、と蒸気がでそうだ。でも、目の前の森山君も私が思ってるよりもずっと赤い顔をしている。真っ赤に熟れた林檎みたい。これはどこのラブコメだろうか。互いに視線が合って、恥ずかしそうにはにかんだ。
恥ずかしいのに、顔の熱は冷めてくれない。それはお店を出ても変わりなく、外の風はちっとも効かなかった。
寒さに耐えられない手をポケットに入れたら、クッキーの袋がかさりと鳴って、貰ったんだともう一度思い出す。
2人無言で駅に向かって、改札を抜けた所でようやく会話が始まった。でもそれは私が上りで、森山君は下りで帰るからだった。

「今日はありがとう」
「こっちこそ付き合ってもらってありがとう」
「気をつけて帰ってね」
「…うん。 あのさ、」

少し気まずそうに切り出したのは森山君だった。

「俺名字さんに謝らないとなんだ。今日のこととか、試合誘ったりとか。全部、名字さんに近づくための口実で、ほんとはもっと話したいし、可愛いって言いたい。優しくするのも君だけ。……けど、もし名字さんが嫌ならもう、断ってくれていいよ」

森山君は、あーもう全部予定狂った…、と言いながら顔を隠してしゃがんでしまった。見えなくなってしまった表情。私より視線が低くなって丸まった背中。
話を聞いて、彼は私に謝る必要なんてないのにと思った。それに、私も嫌な気はしなかった。私は森山君と同じようにしゃがんで、彼の頭を撫でた。ぴくりと反応したけど、私は構わず撫で続けて話始めた。

「私は嬉しかったよ。森山君が優しくしてくれるのも、誘ってくれたことも。可愛いってお世辞でも言ってくれて嬉しかった。さっきくれた可愛いラッピングのクッキーもすごく嬉しい。それからね。 森山君はかっこいいよ。 みんなが思ってるよりずっと、私はかっこいいって思ってた。私も、たぶん森山君と同じ気持ちなの」
話が終わる頃、森山君は顔をあげていた。
慈しむような表情で私を見ていた。

「俺泣きそう」
「えっ、うそ」
「嬉しすぎてって意味だけど。それから、可愛いっていうのはお世辞じゃない。心から可愛いって思ってる」

きっと私がありったけのかっこいいを森山君に伝えても、それを上回るくらいの言葉の雨で私を褒めちぎるのだろう。
気分が軽やかになって別れた改札口は明日から目まぐるしく変わる。そんな気がした。

「森山君!また明日!」

笑顔で手を振って、くしゃくしゃに笑った森山君もやっぱり手を振ってくれた。

end

企画「わたしのお気に入り」様に提出
お題はリボン結びの贈り物で参加しました。