「どういう意味だ」
 ふと本から視線を上げて、テーブルを挟んで向かい側のソファにいた宜野座に私は問いかけられた。
 ジト目で見てきた宜野座に私はそのままの意味よと答えた。たまたま読んでいた本の一文を言っただけだ。忌々しげに吐き捨てる宜野座は相変わらず潔癖なのではと疑いたくなる。執行官になっても、殻を破った面とそのままの頑なな面が同居している。どういうわけか、宜野座はそうやって自己防衛をしている節があるのだ。
 だらしなく椅子の上で私は膝を抱え、宜野座はそんな私の姿に辟易とする。何だか代わり映えしない光景の気がしてきた。
「別に実際にそうなるとか言ってるわけじゃないのよ。まあ、それも一興かなとも思うし」
「ふざけるな。大体、勝手に人の部屋に入ってきてどういうつもりだ」
 真夜中、十二時過ぎに私は宜野座の部屋を訪れていた。申し程度に出てきた緑茶をすすりながらする会話は可愛げの欠片などない。そもそも私が宜野座の部屋を訪れるのが今に始まったことではなかった。一定の周期で宜野座の部屋を訪れるが、基本的にはゲリラで突撃をしているのだ。
 嫌そうな宜野座の顔も見慣れたし、宜野座がにこにこしているところなんて、ついぞ見たことないけれど、彼はきっとそういうものだ。
 愛想のいいタイプでも、誰かに媚を売るわけではなく、自分の理想と処世術で生きている。最近は少しだけ、ほんの少しだけ柔らかくしなやかな人になった。それが良いことなのか、悪いことなのかは本人にしか分からないけれど、私には好ましく映る。
 いつでも空調の効いている宜野座の部屋はちょうどいい温度だけど、もの足りない寂しさは私の身体の真ん中を貫いて、何にも埋めさせない。
「多分、一肌が恋しいんだと思う。ほら、寒い日は互いに温め合ってさ……」
 おどけたように私は笑って誤魔化す。
「意味がわからん。なんでお前と俺が」
 より一層険しそうな顔をする宜野座が私に向かって毛布を一枚投げつけた。大人しく受け取ると宜野座から深い溜息が出る。今日、何度目の溜息になるのだろう。
「で、今日は何の用なんだ」
「別に、眠れないから来ただけ」
 毛布を広げながら、今度は私がジト目で宜野座を見やれば、ふん、と私の態度を一蹴する。どう考えても、常守監視官に対する態度と私に対する態度が違いすぎる。彼女と宜野座は元上司と部下の関係のはずだが、宜野座にとっては確かな分岐点だったのに違いない。
 踏み込めない部分だ。何だか悔しい気がするのは、私が特別な関係ではないからだろう。何か築きあげることはもう、諦めた。期待するだけ無駄な気がして、いつか底にたどり着いてしまいそうだ。そうなったらきっと私は這い上がることはできないだろう。
「眠れないって、どうしてそういう時ばっかり来るんだ」
「相手してくれるの、宜野座しか思いつかないのよ」
 他のメンバーだと何だか気が引けるから気がつくと宜野座の部屋を訪れてしまう。無意識のうちに宜野座の部屋を目指して自室を飛び出しているし、何の躊躇もなく扉を叩いている。
暖かいはずのマグカップがどんどんと冷えていくのが手の平から伝わっていく。今の私の気分とそう変わらない。じっとりと熱を奪い去っていく。
「俺しか相手できないだろうしな」
 そう言いながら宜野座は自分のマグカップに口をつける。執行官のくせに優雅な動作だな、とこの場に似つかわしくない感想が思い浮かぶ。
「その自信はどこからくるのよ」
「ここに来るのは大体落ち込んでる時だからな」
 熱い緑茶を入れなおしたマグカップと冷えたマグカップを取り替えてくれる宜野座を見上げると、仕方ないと言わんばかりの表情だ。
「こっちの方が良かったか?」
「え、どういう、意味」
 私が受け取ったばかりのマグカップは宜野座の手に渡り、すぐ近くにあるテーブルへと移動する。呆けたままの私の空いた手は空をさまよって、ゆっくりと膝へ降ろした。ソファから立ち上がった宜野座は必然的に私を見下ろす形になったのは、ほんの一瞬。気がついた時には私と同じ目線の高さだった。宜野座がしゃがんだのだった。
「こういう意味だな」
「……嘘、でしょ……」
 耳の横を宜野座の指がするりと入っていく。顔に似合わない繊細な手付きで髪の毛をかき分けていき、私はどうしたらいいのか分からず、身体が硬直する。何でと声を出す前に、近づいた顔に思わず目を瞑る。
「あれ?」
「残念だったな」
 宜野座が立ち上がったことで、視線が上がる。
 何を期待してたと言ったらそれまでだが、さっきの流れなら当然のことを考えてしまうものだ。
 無表情な顔で見下ろす宜野座が少しだけ勝ち誇ったような声で私をからかう。また、期待させられただけなのか。私だけ一喜一憂している。
「明日が早くなければ良かったが、今日はもう遅いから……」
「そうやって宜野座は逃げるんだ」
 逃げ腰になる宜野座のワイシャツの裾を掴むと、驚いた顔で私を見下ろす。固く握った裾には強く皺が寄る。ノンアイロンのワイシャツとはいえ、気がついたら怒られそうだ。
 全然違うことを考えている私をよそに、宜野座はゆっくりと呟いた。湖畔に寄せる凪のようだ。
「どうなっても知らないぞ」
「いいよ」
 何年待っていたのだと思うのだ。今更、聞かれたところで答えはとっくに決まっている。どうせなら、忘れさせないようにして欲しい。互いにいつ殉職するか分からない身だ。それなら、記憶に焼きつくようにして、私に植え付けて欲しいのだ。
 いつでも縋れる、そんな記憶が欲しかった。
 案外、私はこう見えて貪欲で欲張りだから、こうなったらどこへでも行こうじゃないか。
「ねえ、私のお願い聞いてくれる?」
「少しくらいなら」
 私が言うのと同時に宜野座の吐息がかかって唇をふさがれる。
 私がそんな熱いなんて聞いてないって言うまであと少し。

“孕むくらい愛してね”

 残酷なくらい、彼に刻みこむ。宜野座も私もシビュラの中で踊らされている。決められた檻から出られないなら、それでいいのだと思う。
 夜が更けていく。窓のない部屋では何も分からないまま朝へと時を進めていくのだ。もう一度私が密やかに呟くと、宜野座は目を細めるのだった。


2016/02/22