その海は、太陽の日差しをうけてきらきらと反射していた。
 その海は、春の産声を貯えていた。
 その海は、幼い頃の気持ちがたくさん詰まった故郷の海の色をしていた。


 朝の通勤ラッシュにぶつかる、一限目の授業がある日の通学が苦痛だ。朝はちゃんと早起きをしなければならないし、そのうえ、アクセスのいい場所に家を借りたせいか、一歩外に出れば人の行き交う雑踏の海に飲まれそうになる。
 それでも授業はあるし、大学付近まで歩けば、雑踏の海ともやっとお別れができるので我慢するしかない。
 そのかわり私は、新しい海と出会すのだ。講義室に入ると、見慣れた友人の頭が見え、私は真っ直ぐと彼へ近づいた。
「おはよう、遙」
「おはよう」
 今日は鴫野君も椎名君もいないようだった。遙は大学に入ってから知り合った人で、彼の瞳は海を飼っている≠ニ思う。海を飼うなんてことは、現実的には絶対にできはしないけれど、遙の青い瞳には、豊潤な海が宿っている。満ち足りたようで、常に新たな生命を待つ母なる海みたいだ。
 そんな遙は、水泳部に所属していて、椎名君や鴫野君は「ハルはすごいんだ」と言っていた。遙のすごさは、先日中継されていた大会で知ることになったが、授業を一緒に受ける七瀬遙は、どこにでもいる男子学生にしか見えない。
 遙のすごさ、というのは私にとっては、あまり縁のない世界でのことのように感じてしまい、遠すぎて体感しにくい。隣にいる姿があまりにも普通すぎるからだ。
 先生の講義は、きっちりと時間通りに始まり、時間通りに終わった。メモを取り、授業が進んだ証拠はテキストをめくったページが少し進んだくらいだった。
 机に広げたノートやテキストをバッグに入れながら、遙に声をかけた。
「遙、このあと授業ある?」
「今日はもう、プールへ行く」
「そっか。練習頑張って」
 遙にとって今一番必要な場所だ。邪魔をすることはできない。私には、隙入る場所なんて微塵もないのだ。
「明日なら」
 遙が不意に口を開いた。
「え?」
「明日なら授業との間に時間がある」
 遙の真っ直ぐとしたまなざしは、片付けをしていた私の手を止めるには十分だった。きょとんとした私に、遙は優しく笑いかけるだけで、私が顔に出しているよりも驚いていることには気がついていなかった。

 翌日、約束通りに私は遙との待ち合わせ場所にいた。講堂の前でスマートフォンを触りながら時間を潰していると、遙はやってきた。
「待たせたな」
「私もさっき授業終わったところ」
 手にしていたスマートフォンをバッグに適当に詰め込み、遙に連れだって歩き出す。歩き出してから、てっきり学食でお昼にするかと思っていたので、頭の中に大量の疑問符が浮かぶ。私の呆けた顔に、遙も気がついたらしく話し出した。
「前に、旭と貴澄がうまいって言ってた店があって、学校から近いんだ」
「うん。どこでもいいよ。遙が連れてってくれるなら、私はついて行く」
 遙が連れて行ってくれる場所なら、私はどこでもいいのだ。海原に流されて辿りつく景色は、きっと私一人では見ることのできない景色だから。
 私がにこりとして見せれば、遙は仕方ないなと少し眉を下げて笑った。
 徒歩で行くこと、十分程度でその店には到着した。近いも何も、正門を出てから裏通りに入ってすぐの場所だった。店内はお昼の時間からやや過ぎているにもかかわらず、サラリーマンやOLの姿も見受けられた。
 鴫野君たちが美味しいと言っていたのなら、間違いないのだろうが、店内が思っていたよりも落ち着いた内装で、私のほうが落ち着かなかった。遙は、そもそも見た目と雰囲気も落ち着いているから、店内にいる社会人たちに溶け込んでいた。まるで常連のようにも見える。
「遙と出かけるなんて久しぶりだね。最近はみんなもいたし、これからゼミとか始まるし、どうなるかな」
 遙は意外と友人たちと過ごす時間も多いし、水泳に割く時間も多いから、こうして二人で出かける機会はあまりない。
 出かけることはあるにしても、私と遙は、恋人同士ではない。それでも、ただの友人と問うには、あまりにも私は中途半端な立ち位置になってきている。メニューに視線を落としたままにしていると、遙が口を開いた。
「俺はお前と会えるの楽しみにしてる」
 遙の声に、はっとした私はメニューから顔を上げた。
 楽しみにしていたのは、私だけではなかったのだ。遙はそういったそぶりを見せるようなタイプではないと思っていたから、私の見当違いなのか、都合よく私が勘違いをしているのかと確認をしてしまいそうになる。たぶんこれは、遙のいつもの本心で、恐らく他意はないのだ。
「遙が楽しみにしてくれるなら、嬉しいな」
 危ない、このまま勘違いしそうだと思いつつ言うと、遙はじっと私の顔を見てくる。それからため息と呆れが入り交じった一息を吐く。
「俺は何も思ってない奴に、楽しみにしてるって言わない」
 もっとちゃんと言ったほうがいいか。そう問われているまなざしだった。
 私と遙は、最初はたまたま授業のスケジュールが似ていて、お互いによく会う人だなと思っていた。私が鴫野君とサークルが一緒だったことから、遙とはそれなりに話す間柄になった。それからは、隣の席で講義を受けるのはもちろんのこと、偶然街で出会して、ご飯を食べたりしたこともある。
 たぶん、私は遙と何気ない日常を過ごすのが好きだったから、これでもいいかと何となく考えていた。
 周りの友人たちが、彼氏を作って、彼氏との惚気話をしてきても、自分とは違う世界だと感じる程度だった。友人たちが幸せならそれでいいと思っていた。友人たちが妬ましいとも、自分から離れていってしまうかも、とも思わなかったから。
 だから、いざ明確に言われると、照れよりも戸惑いのほうが勝ってしまった。
 だって、遙と視線を合わせるとあの青い瞳に飲み込まれそうになってしまうのだ。私の目の前に海が現れたような気がして、全部たいしたことないってあしらわれていく。それと同時に、遙は私にはあまりも大きい存在ではないかと再認識させてくるのだ。
「遙がちゃんと言ってくれないと、私、自信が持てない」
 そうでもしないと確かめられない私は、目の前にある広い海に飛び込む勇気が持てないのだ。
 次の遙の言葉に、私はどうしようもなく顔を合わせられなくなって、赤くなった顔を隠すのにメニューを立てるしかなかった。
 その時目に入ったメニューには「マーレトマト」の文字があって、お昼はこれでいいやと観念したのだった。