机の上に積み上がった書籍や資料に囲まれたキーボードを叩く手を止め、パソコンに向けていた顔を上げたのは、不意にリビングでつけっぱなしになっていたテレビ画面の音が耳に入ってきたからだった。どうやら午後に入れた休憩の時にドアを閉め忘れていたらしい。
 夕方のニュースは、今朝方から取り上げられている競泳のニュースだった。長い時間椅子に座ったままだったので音につられながらリビングへと向かった。
「日本競泳男子、ものすごい快挙でしたね!」
 スポーツコーナーを担当しているアナウンサーはきらめく笑顔で興奮の様子を伝えていた。私もつい先日、テレビに映る大会の会場で試合を見てきたばかりだ。熱気の溢れる会場で目の当たりにしたのは、トップアスリートたちがコンマ一秒以下のタイムを競う息を呑むような光景だった。
 ニュース画面の端に映る時刻に気がつき、部屋に戻って仕事途中だったデータを一度保存した。
 そろそろ遙が帰ってくる時間だ。いつまでも、仕事にかまけているわけにはいかなかった。
 それに今日は特別な日だ。
 柄にもなく、久しぶりにケーキを手作りしてみたり、手の込んだ料理を用意した。遙は、真琴や凛を連れて帰ってくることになっている。
 真琴や凛が来ることになったのは、二人からの提案だった。邪魔して悪いけど、と前置きをしながらだったので、断れるはずもなく、いいよと返事をしたのは私だ。
 料理を温め直すにしては少し早い時間で、仕事を切り上げたついでに新しいコーヒーを落とすことにした。
 仕事部屋兼自室に遙への誕生日プレゼントを用意してあり、きっと遙はもう驚きはしないのだろうに、私は毎年渡すことを考える度に緊張してしまう。それなのに今年で用意するのが何年目だったかは、もう数えていない。付き合う前の学生の頃から渡していたのだから、私だって遙に何を贈っていたのか、全部は覚えていない。それは遙も同じだと思う。
 しかし、私は遙と付き合うまでは彼の隣にいれることに自信がなかったから、未練がましくあれこれきれいに取っておいてある。食品系のプレゼントだった時以外の話だが。
 つまり今も私の部屋には、アンティーク調のチェストに入るだけ残っていたりするのだが、遙は知らない。私の親友や、それこそ真琴や凛だって知らない。
 マグカップにたっぷりとブラックコーヒーを注ぎ、やっと一息つけた気がした。
 テレビ画面に映る遙や凛を見ながら、この二人がこんなふうに映る日が来るなんて思いもしなかった。それこそ、小学生の頃の凛の口から出ていた金メダルの言葉なんて、漁師町の片田舎で言うにはなんて大それたことを、と思ったりもした。
 今となっては、懐かしい幼い日の思い出だ。ずっと叶えたかったことを現実にする彼らが一等眩しくも、誇らしい。そして、それを一番近くで応援できるのだ。贅沢な話である。
 時間を確認しながら、そろそろ玄関の扉が開く頃だろうと思えば、ちょうど玄関の鍵を開ける音が響いた。
 顔を覗かせようと玄関へ向かい、姿を認識した途端に破顔した。
「お帰りなさい……って、みんなしてどうしたの」
 遙の手には花束があり、凛や真琴は少し苦笑していた。大会や誕生日のお祝いに、コーチたちからもらってきたのだろうか。
「悪い、俺ら先に上がってもいいか」
「いいけど、なんで」
「ハルから聞いてね」
 そそくさと凛と真琴がリビングへと行ってしまい、なぜか家主である私と遙が取り残される事態となってしまった。二人からすれば勝手知ったる家みたいなものなので、今更止めるつもりもない。リビングへと続く扉が閉まったのを確認した遙はほっとしているようだった。
「遙、なんかあった?」
「何もない」
 真琴に聞いてねと言われても、遙は口を割る気配がない。たまに妙に話したがらないことがあるのは、今に始まったことではないし、話す気になれば話してくれる。今じゃないのかもと思った私は、せっかく色々用意している料理を食べてもらいたい気持ちのほうが急いていた。
「じゃあ、私たちもリビング行こっか?」
「それはまだ待ってくれ」
 今度ははっきりと引き止められてしまい、靴脱いだら、とか、せめて荷物を床に置いたらなども言えなくなってしまった。
 いつになく真剣な顔をした遙に見つめられては、遙の言葉を待つしかない。さすがの私でさえ、この状況は予想していなかった。
 遙が両手で花束を持っていた右手からゆっくりと差し出されたものに背筋が伸びた。
「これを受け取ってくれないか」
 きれいに白いリボンが結んでラッピングされた小さな白い箱だった。
「……受け取ってもいいの?」
 思わず泣いてしまいそうになりながらも、恐る恐る遙が持っている小さな箱に手を伸ばした。こんな小さな箱に入っているものなんて一つしかない。
 そうっと手を伸ばし受け取ると、遙は一度花束を床に置いてから私の手を包んだ。
「どうしよう、遙の誕生日なのに、私が嬉しいなんて変じゃない?」
「変じゃない。俺も嬉しい」
 ゆっくりと箱を開けてくれた遙は、玄関の照明に照らされて光る指輪を嵌めてくれた。
「もう、なんで今日言うのよ」
 舞い上がってしまいすぎて、今日が何の日かわからなくなってしまいそうだった。
「これはもっと前から用意してて、大会が終わったら渡すって決めてたんだ」
 大会のほうが大事でしょ、と言うのを押し止まったのは、不意に大会の日の遙のことを思い出したからだ。試合終わりは大抵涼しい顔をして戻るのが遙のいつもの行動なのだが、あの日だけは珍しく目線が合った気がしていた。
「凛にはバレてたけどな」
 その一言で、今日の日をセッティングしようと一番やる気だったのが凛なのがわかってしまった。私たちはもう、そこまで手のかかる友人ではなかったと思ってもらうには、少し実績が足らなかっただろうか。
「じゃあ、報告しに行こう」
「その前に花も」
「うん、ありがとう。あとで飾っておこうね」
 遙は、私に贈るとしばらく家の中にあることに気がついたのか、珍しく照れた様子だった。
「せっかくだからダイニングテーブルがいいかな。遙からこんな大きい花束もらったの初めてね」
 爽やかなブルーと白いバラなどでいっぱいの花束で、花をもらう機会なんてそうあることではないから、しばらく花瓶に入った姿を眺められるのは幸せな気分だ。
「遙のことお祝いする気で、すっごく料理も頑張ったのにな」
 リビングへいく前に声に出してしまえば、遙は悪かったなんて言いつつも、ちっとも悪びれもせずに小さく笑っていた。一緒に今日の主役にされてしまった。
「いいよ、来年も再来年も、ずっとその先もお祝いできるから」
 手を繋いでリビングへ入ると、安堵したように凛と真琴が迎えてくれた。戻ってくる気配がないから心配していたようだった。
 きっと何年経っても忘れられない光景になるのだろう。
 きっとまた、みんなで祝う年があるだろうし、二人きりで祝う時もあるだろう。
 それでも、遙を祝福する気持ちはずっと昔から変わらないから、今を大事にしていこう。夢を叶えた先は、今ここにあるから。