教室の端っこで、何にも興味を示さないような態度でいるハルとの付き合いは中学の頃からである。元々、自分の感情をストレートに示すわけでもなかったけれど、席が近かったので、話す機会はただのクラスメイトの割には多かったほうだと思う。
 ハル、という呼び方は橘君や仲の良かった友人らが呼んでいたので、呼んでいいか聞いたらあっさりと承諾されたから採用し続けていた。
 中学の頃、ハルは泳ぐのが上手だと、橘君が自分のことのように嬉しそうに話していたけれど、私は中学の間で彼が泳いでいる姿を見たことがない。私が見る前にハルは水泳から離れてしまったから。
 高校二年になってから、急に部活を始めるなんてどうしたのだろうと始めは不思議だったけれど、中学の時に橘君が話していたことがすぐに脳裏を掠めた。このときはどうしてだか、私はハルのいるプールに近づくことができなかった。
 そのため、教室で淡々と授業を受ける姿や、時々ノートを見せてもらう為に彼と話す程度でしか私の中のハルはアップデートされることがなかったのだ。
 それは三年になっても同じで、夏になって水泳部が全国大会に出場すると知っても、ハルに対する態度は一定の距離を保っていた。結局大会が終わるまで彼がどんな泳ぎをするのか知らないままだった。大会の終わった夏休み明けには、ハルの表情はどこか吹っ切れた様子で、遠くへいってしまったのだと思った。
 そして私は今、卒業式を迎えようとしている。
 体育館へ入場する前の廊下で、教室で渡された生花のコサージュが上手につけられなくて手間取っていると、ハルの手が私の持っていたコサージュを取る。
「え?」
「ここでいいか?」
「うん」
 胸元付近のブレザーを持ち上げると、ハルは器用に安全ピンの針を通して、綺麗にコサージュを留めてくれた。そういえば、こんなに近い距離でハルのこと見たのは初めてだ。ハルはいつもと変わらない澄ました顔をしていたけれど、ハルの胸元にもコサージュが留められていて、きっと会う機会なんて無くなってしまうんだろうなと思った。
「そういえばさ、ハルってどこの大学行くの?」
「東京」
「ハルも東京か……ってあれ、そうだっけ?」
「名前も東京じゃないのか」
「そうだけど、ハルからちゃんと聞いてなかった気がしたから」
「言ってなかったか」
「うん」
 ハルはあっさりと大学を決めてしまい、私も指定校推薦で進学が決まったので、冬の間は他のクラスメイト達に比べて苦労をしていないのだ。その間は教室に居づらくて、私はよく図書館でサボっていた。ハルに何か咎められることは勿論ないし、他の誰にも指摘されるのことは無かった。
必然的に会話をする機会も少なかった。おかげで今日までハルの進学先を聞きそびれるほどだ。
「ずっとさ、聞こうと思ってたんだけど……私、ハルの泳ぐところ一回くらい見ておくべきだったかな?」
 何となく、今までのことを思い出してみた結果、結局私はハルの泳ぐところなんて見なかった。知っていて避け続けた私とハルを繋いでいるものは、クラスメイトという肩書きだけだったから。
 ハルが水泳に対して、一途な思いを持っているのは知っていたし、だからこそ何も知らない私が入り込む余地なんて最初から無かったのだ。
天地がひっくり返ったって、明日地球に隕石が落ちようと、私とハルの関係には支障がなかった。見て見ぬ振りだなんて悪い言い方ではなく、考えた結果、このよく話すクラスメイトの位置づけでい続けようと思ったのだ。
「名前は俺が泳いでいるとこを見て納得するのか」
「……うーん、わかんないな。だって、ここにいるハルも泳ぐハルも、結局私の知ってるハルだもん」
ハルをハルたらしめているものは、水泳だ。けれども、私と同じ教室でボーッと窓から外を眺めてた姿も、何だかんだ授業を受けていた姿も、全部ハルなのだ。本当にどこにでもいる男子高校生で、そこに優劣はない。
「まあ、ハルとクラスメイトで良かったって思ってるよ」
「そうか」
 表情を和らげたハルに、私もつられて笑って、静かにしろって注意する先生の声が前から飛んできた。先生の声にハッとして、思わずハルの顔を見た瞬間に理解できた。
 私の考えていた世界は、狭い鳥籠程度のものだった。
 真っ直ぐに前を見つめるハルは落ち着いていて、彼は最初からずっと遠くへ行ける人だったのかと、この時腑に落ちたのだ。

***

 事の発端は、卒業式の後のことだった。
 クラスも先生の最後の言葉をもらって、散り散りに解散し始めた頃、去年同じクラスだった男の子に廊下で声をかけられた。何の気なしに一言二言話しているうちに、もしやと思い当たったことは見事に当たり、好きですと告白をされる。
 恋愛からそれほど縁のなかった私にとっては、素敵な巡り合わせなのかもしれないが、告白の言葉を聞いた時に、直感的にこの人ではダメだと思ってしまった。決して悪い人ではないのに、きっと一途に思ってくれていた人だろうに。私はときめきも嬉しさも何も感じなくて、人として酷い人だと思った。何とか絞り出せた言葉は、気持ちは嬉しいけれど、誰かと付き合うことは考えてないというシンプルな回答。
 目の前の男の子は、気持ちが伝えられて良かったとはにかんだ。
 人通りの少ない廊下の隅で話をしていたので、友人らが待っているであろう外へと出る。
 昇降口にはまだ生徒が多く残っていて、思い思いに写真を撮りあったり、ふざけあっていた。一緒に帰ろうと約束をしていた友人らを探していると、昇降口から出た先の桜の木の下にハルがいた。
 ただ真っ直ぐに桜の木を見つめている。
「ハルまだいたの?」
「……名前を待ってた」
 振り向いたハルは、教室で交わしてたものと変わらないトーンで告げた。
「さっきのやつに何か言われたのか?」
「ほら、えーと、まあ、卒業式の定番イベントみたいなものだよ」
 そこまで見ていたのかとか、なんで中途半端に誤魔化そうとする自分がいるのか、頭の中は大混乱していた。ハルにならあっけらっかんと言えると思っていた。それなのに、面と向かって報告するのは気が引けて、ましてやフってきたとは言いにくかった。私は一個も傷ついてやしないのに、ハルと話すのが気まずい。
「それで名前はどうしたんだ?」
「……断ったよ」
「そうか」
 誤魔化させて、スルーしてくれたら良かったのに、見えにくいけれど優しいハルは細かいところまで見抜いている。
 ハルはいつのまにか私の手を取って歩き出す。中学で同じ学校になってから今まで一度も手なんて繋いだことなかった。緩く繋ぎ止められ、触れる指先がこそばゆい。
 周りの生徒の目は気にもしていないし、どこもかしも浮かれている今は、誰も私たちのことには目もくれなかった。
「ハルー! 名字さんまでどうしたの」
「真琴」
「橘君」
 誰も見ていないと思っていた矢先、その人は現れた。というか、今までハルの近くにいなかったことが不思議なくらいだ。橘君は誰にでも優しいし、きっと女の子の一人や二人に呼び出されていたっておかしくない。なんたって、私すら呼び出されるような日だ。
 私たちに声を掛けてきた橘君は困惑している様子だった。何せ、幼なじみと中学からの長い付き合いの女子が、自分の目の前で手を繋いで歩いている。異様な光景に映るのだろう。
「なんか邪魔しちゃったかな……?」
「別に」
 橘君の申し訳なさそうな物言いに対して、ハルは素っ気ない返事。その割には、握っている手のひらの力が強くなる。意識するなと言われる方が難しい。
「橘君の方こそハルと一緒にいると思ってたからびっくりしちゃったよ」
 何とか会話を続けようとして、気になったことを聞いてみる。
「俺がクラスの人に呼ばれたりしてて、気がついたらこんな時間だったんだよ」
 にっこりと人あたりの良い笑みを零す橘君。私も相槌をしながらどうだったの、と聞き出そうとすればハルが手を引いてくる。
 私はハルの一連の行動にされるがままだった。
「真琴もういいか」
 ハルは橘君の言葉を遮るように再び歩き出そうとしていた。
「……ハル、橘君にこの状況説明しないのはひどいでしょ」
「名字さん、いいんだよ」
 慈しむような微笑みの橘君は、ハルの考えすら分かっているようだ。
「でも……」
「ハルに少しだけ付き合ってあげて」
 やんわりと突き返され、私はハルに腕を引かれるまま、橘君とは別れることになった。
友人たちにも何も言っていないし、ハルはこのままどこへ行くつもりなのだろう。
住み慣れた岩鳶の町を歩き続けて、たどり着いたのはスイミングクラブ。
 私が驚いてる間にハルは、私を上の見学場へ案内してしまうし、本人はその場から出ていく。することもない私はプールを見下ろすしかない。プールには、小さい子らが楽しそうにコーチの指導を受けながら泳いでいた。
 ここまで来てまで鈍いつもりはない。私が知らない振りをし続け、避けてきたものは、避けることが出来ないものになってしまった。
 高校生最後の日に、ハルの泳ぐ姿を見る。もしかしたら、二度と見ないかもしれないハルの水泳。
 さほど待たずにプールサイドに現れたハルは、ストレッチも終えているらしく、きれいにプールへ飛び込んだ。
 ハルの大事なもの。
 一等大切で、捨てられなくて、ハルの大事な一部分。
 ぐんぐんと進んでい姿に惹き付けられた。
「……私の負けだね」
 思わず独り言が零れた。ずっと教室で過ごすハルとの時間に安心していたのだ。水泳をしていないハルは、どこにでもいるクラスメイトで、誰とも違わないって勝手に思っていた。
不器用で優しい故に、言葉にすることを躊躇うところがあるのも知っていた。知っていたとしても、その理由を詮索する必要もなくて、ただ話すのが心地いい時間だったから、平行線のまま終わりにしようとして、私は自分勝手に結末に向かおうとしていたのだ。
 しかし、ハルはそれを許してはくれない。
 ハルは夏休みの間に遠くへ行こうとしていた。遠くへ行く為のヒントを得て、ぐんぐんと進もうとしている。
 今、ハルは私も一緒に連れ出そうとしている。
 五十メートルを泳いだハルはプールから上がって、上にいる私を見た。
 答えの分かった私は、一階のロビーまで階段を駆け下りる。決して人の多くないロビーでハルを待っていると、着替え終わったハルが戻ってきた。
「あーあ、中学の頃のハルは可愛かったのに、気がついたら届かないくらい大きい」
 あっという間に大きくなってしまったので、手を伸ばしても、背伸びをしないとハルの頭のてっぺんには届きそうもない。
「名前は小さくなったな」
「ハルが見下ろせるようになっただけだよ。……私が卒業式の前に言ったこと気にしてくれてたんだよね」
 ハルは小さくこくりと頷いた。
「俺はフリーしか泳がない。けど、夢の近くに名前もいて欲しいと思ったから、連れてきたんだ」
「うん。ちゃんとわかったよ。……卒業したら会わないだろうなとか、クラスメイトがいたなーってくらいに思われるんだろうなって考えてたのに、ハルったら全然違うこと考えてるんだもん」
 春からどうしようって思わず笑みが零れる。
「俺は忘れられない。それに名前が寂しそうだったから」
「え……。えー、そう、見えてた?」
 思わず顔を両手で覆いたくなった。
 ハルに肯定されると、本当にその通りだろうから、太刀打ち出来なくなってしまう。
「ハルは意外とちゃんと見てるんだね」
「……それは名前だからだ」
 ぼそりと呟くハルは私とは視線を合わせない。
「学校で呼び出されていた時、嫌だった。アイツより俺のほうが仲が良いのに名前はアイツ選ぶのかと思ったから、玄関で会った時ホッとした」
 ハルはまだ続ける。決して口数が多くはないハルは、言葉を丁寧に選ぶ。
「……俺は名前とまだ一緒にいたい、それじゃダメか?」
「ダメなわけないじゃん。繋いだ手を離すつもりなんて無いくせに言うなんてズルいよ」
「そっちが寂しそうな顔するからだ」
 自然と二人で歩き出して、スイミングクラブを出る。
「ハル、これからもよろしくね」
「ああ」
 肌寒い春の風が一瞬吹いて、近くの桜の木の花びらがひらひらと舞い散った。

2017/12/15