練習が始まるほんの少し前の時間だけ、遙と私の二人だけになる時間があった。
 夏の日差しが落ちる炎天下、私は日焼け止めを万全に塗って遙のいる場所へと向かう。揺蕩うように遙はプールに飛び込んでいる。いつだってそうだ。
 いつだかの日にあったことを思い出しては、私は彼が泳ぐ姿を見るたびに安堵する。
遙の光は眩しすぎて、私には痛いくらいに感じることさえあるのだ。それでも離れられない答えを私は持っていた。
 きっと、遙は気づいてなんかいない。
 気づいてても私からなんて言ってあげない。彼からの言葉を聞きたいから。
 ゆらゆらと泳ぐ遙と一緒の時間だけは無言だった。何もないけれど、世界のどの場所よりも静かで、温かくて、透明な時間。
 どんなに眺めていても飽きなくて、友達に話したら病気なんじゃない?って笑い飛ばされたこともある。
 明確な言葉がなくても今この時間だけは、遙との時間だった。
 静寂を破ったのは遙だった。
「みんなが来る前に上がるなんて珍しいね」
「なにか足りない」
「足りないって、具体的じゃないとわからないよ」
 プールからあがった遙は私の横に立つ。遙の足元は水浸しだ。俯きがちになる遙の顔を覗き込もうとすれば、 控えめに出された濡れた手に阻まれた。
「……これじゃあ、遙の顔見れない」
「見なくていい」
「顔をあげないと昔みたいにハルちゃんって呼ぶよ?」
「ちゃんづけするな」
 ああでもない、こうでもないと押し問答をしていると、近づいた距離に気がついて私はその場から動けなくなってしまった。遙はプールからあがったばかりだし、私は制服だ。このままでは私が濡れてしまう。
 不意にあった視線に、地面に縫い付けられたような感覚に陥った。
 いつかの日にあった暑い日がフラッシュバックする。背中を伝う一筋の汗が憎たらしい。炎天下の中で近づいた距離は心臓に悪かった。
「名前、大丈夫か」
「うん。……ごめん、悪ふざけが過ぎたね。私じゃあ、遙の足りないものわかんないな」
 遙にとっての足りないものなんて、私には到底考えつかなかった。ゆっくりと離れようとしたところで、遙の手が私の手首を掴む。
「えっと、これは何でしょう……?」
「名前が逃げないようにするためだ」
 すっと近づいた顔に、いつも何も言わないくせに、なんて心の中で悪態づいた。こんな時ばかり遙のペースに乗せられてしまう。
 でも本当は、こんな展開を期待していたのかもしれない。私の中のズルい気持ちが脳内で囁く。今なら、私だけが知っている、私だけの遙を独占できる。
「……簡単に他の人に言ったらダメだからね」
「ああ、誰にも言わない。……こんなの、名前にしか言わない」
「遙はいつも期待させることばっかり言う」
 ちらりと遙の様子を伺えば、さらに縮まった距離にどうすることも出来なかった。
瞬きさえさせてくれない一瞬に触れた唇。ワンテンポ理解が追いつかず、とても間抜けな 顔をしていたに違いない。
 顔をそっぽ向けた遙は私を見ようとしなかった。
「……ねえ、キスだけじゃわかんない」
 今度は私が遙の手を掴む番だった。
 気まずそうに顔を合わせた遙は、何も言わない。
「ちゃんと声にしてくれなきゃ嫌だよ」
「名前にしかしない」
 そうして再び重なった唇に、ズルい人だと思った。
「やっぱり言ってくれないじゃない」
「言っただけじゃ足りないからな」
 繋ぎ止めたはずの手はいつの間にか、指と指を絡み合わせて包まれていた。誰か来てしまうまであと数分。
 結局、欲しい言葉は言ってくれないくせに、態度だけで絆される私も大概だった。

2018/4/23