「せっかくの海でしょげた顔してどうしたの?」
聞きなれた母国語にはっとして俯いていた顔を上げた。同い歳くらいだろうか。しゃがみこむ俺と同じ目線に合わせるようにして腰を下ろした。
「別にしょげた顔なんか……」
「してるよ。海で泳ぐ?」
にこりと笑った彼女は、この国を満喫しているようだった。
「でも水着ないか。私、タオルあるから、波打ち際でもどう?」
彼女に誘われるままについていく。どうして、見知らぬ女の言うままにと思ったが、この海は嫌いじゃない。日本のあの海に似てるから。
「名前、教えてよ」
足をバシャバシャと海水にくぐらせながら、彼女はなんてことないように聞いてくる。
「なんでお前になんか……」
面倒くさがっていると、彼女は自分の名前を言う。これでどうだと言われてるみたいだった。
「私も教えたからいいでしょ?」
「……松岡凛だ」
「凛って呼ぶね」
「はあ? なんでお前だけでポンポン勝手に決めてんだよ」
「じゃあ凛も私のこと好きに呼べばいいじゃない」
ぴしゃりと言い放つ彼女は、自信に満ち溢れていた。自分とは、正反対だ。一人、海を超えてきた国で藻掻くことしかできない。
「……凛?」
「なんでもねえよ」
波打ち際に手を浸けるとやや冷たい海水がまとわりつく。ぱさりと頭にかけられたタオルが、視界を覆う。
「ちょっとだけ元気でたでしょ」
「なんだよそれ」
「私、よくここにいるからたまにおいでよ。話し相手になってあげる」
「お前、厚かましいな」
「お前じゃなくて、名前。名前って呼んでよ凛」
「わかったよ。気が向いたらな」
俺の言葉に満足したのかにこりとした名前は、俺にかけたタオルをあげると言って立ち去ってしまった。
これが、俺と名前の初めての出会いだった。
日本に帰国する前、名前に帰国する理由を言うことができなかった。
水泳の為にこの国にきて、挫折して、*き足掻き、どうしようもなくなって。
あの海にいけば、天気の良い日に大抵名前はいた。ある日は私服姿で、波打ち際を日がな一日中眺めていた。別の日はサーフボード片手に海へと潜っていく。
俺が話そうとしなくても彼女はただ隣に座っていて、喋ればすぐ軽口を叩いてくる、そんな関係だった。
だから、この国で出会った日本人は彼女だけで、そんな彼女に何も言えずにいた。本当は連絡先くらい聞こうと思ったのだが、結局聞けずじまいで、逆に彼女が俺の日本の住所を知っているだけだった。
彼女は俺がいつのまにか帰国したことをどこからか知ったのか、エアメールが高二の夏の終わりに届いた。手紙の内容は、何も言わず帰ったことを怒った文章だった。帰るなら一言くらい言うのが友達じゃないのと綴られた文章に苦笑した。
この時、追伸に書かれた文章に気がつかなかった俺は、翌年に驚く羽目になった。
***
「あの、松岡凛はここにいますでしょうか」
凛に手紙を出してから、彼の居場所を知ったのは去年の夏のことだ。日本に帰国して、また水泳漬けの日々を送っているのだと、手紙には書かれていた。凛は鮫柄学園の水泳部に所属しているということで、短い休みを利用してやってきた。
寮の窓口で管理人と話していると、賑やかな声が後方から聞こえてきて、呆れたような声が混じっているなかに聞き慣れた声が耳に入る。
思わず振り返った私は、最後に会った日から文字でしかやりとりをしていなかった友人の姿に驚いたのだ。
「あ……凛、久しぶり」
「名前!? なんでここにいんだよ!」
「あれ、前に出した手紙に書いたんだけど忘れてた?」
「そんなの、いや……書いてあったか?」
凛の近くにいた人たちは私達のやりとりに目を丸くしている。
「凛ちゃーん、その子彼女?」
「ば、渚! 名前はそんなんじゃねえよ! オーストラリアでの知り合いだ」
「わざわざ凛に会いにきたの?遠くからお疲れ様」
「へえ、凛にも友達いたんだな」
「宗介までそう言うのかよ」
「日頃の行いのせいだろ」
「ハル、てめえはあとでフリーで勝負すっからな」
「臨むところだ」
目の前で繰り広げられる目まぐるしい展開に声が出なかった。
手紙で、凛の様子は度々聞いてはいたけれど、あの頃の凛とははっきりと違うのだとわかる。
凛のすぐ横の背の高い人が、親友だって話していた宗介で、やや細身ではあるが、アイツはすげえって話していたのがハルだ。
「そんなことより、来るならちゃんと直前に連絡しろよな。もしも俺がいなかったらどうするつもりだったんだよ」
「学校にいなかったら家にいくつもりだったよ。凛、メールしても返信返してこなそうだし」
「さすがに大事な要件だったら返信するだろ。そういうところ前から変わんねえよな」
「結果的に会えたからいいでしょ? それに、凛が手紙で言ってたお友達って、みんなのことでしょ」
興味津々といった様子の後ろの面々はそれぞれ凛を見守っていた。
よくよく話を聞けば、宗介以外は別の学校だそうだが、たまたま遊びに来ていたとのことで、せっかくだからと外でご飯を食べることになった。
「本当、よく来たよな」
私の持っていたキャリーケースを持ってくれた凛は呆れていた。凜の友人らは私達の前を歩いて行く。
「久しぶりに日本に来てみたかったから、ちょうどいいと思って。あとは……凛、元気かなあって心配してたんだけど、私の取り越し苦労だったみたい。こんなことなら、写真の一枚くらい送ってくれたらよかったのに」
「恥ずかしくて、入れられるかよ」
こうやって話すのも久々だ。少し恥ずかしがるところは変わっていない。
みんなでぞろぞろとファミレスに入ると、渚からの質問攻めだった。オーストラリアの友人達にでさえここまで言われたことがなかったので、意外だった。
「凛ちゃんってば、向こうでのこと全然教えてくれないからさ、ごめんね?」
「いいよ。私は、だいたい宗介とハルの話しか聞いてないよ」
「そういえば、凛。俺とオーストラリア行った時には名前とは会わなかったな」
「え、凛来てたの?」
「ああ」
ハルの話だと、夏に行ったばかりということで、意外だった。
「あの時は、急だったから連絡する時間なかったんだよ」
「……ふーん」
「なんだよ」
「いや? 日本にいる凛はいい顔してるなあって思っただけ」
これだけ元気ならば、色々うまくいっているのだろう。私の知っている凛は、どこか気持ちが塞いでいたことが多かったから。
みんなとご飯を終えたあと、凛に誘われて海へやってきた。
日暮れ間際の、オレンジ色に染まった海。
漣の音はゆっくりと唸っている。
なるほど、ここの海はオーストラリアの海とよく似ていた。凛が少し待ってろというので、大人しく海を眺めて待つ。
「ほら、これ返すぜ」
「……これって」
渡されたタオルは、一番最初に出会った時に私があげたタオルだ。たかがタオル一枚くらいあげてもいいと思っていたのに、案外律儀な人だ。
「まあ、その、向こうでは色々と助かった」
「ふふ、どういたしまして。今日の凛は面白かったよ。結構面倒見がいいことも知れた」
「それ褒めてるのか?」
「褒めてる、褒めてる。来てよかったな。凛のふるさとはいい場所だね」
「名前、あとどれくらい日本いるんだよ」
「どうしようかな? 一応、一週間くらいの予定で、おばあちゃんの家寄って帰るつもり。だから明日にはここ出なきゃかな」
「そうか。遠くから来てくれたのに悪いな」
「じゃあ、今度はエアメールじゃなくて、ちゃんと普通のメール送ってよ。連絡も早いし、写真もすぐ送れるよ」
「ああ」
お互いに海を見たまま、太陽が沈んでいく姿を眺め続けた。
いつかの日のような静かな空間で、私たちはいる場所が異なっても同じ絆で繋がっているのだと知った。
2018/5/2