ハルが午前中は練習だというので、最寄り駅で待ち合わせをすることになった。家を出る頃にどんよりと曇ってきた空は、待ち合わせ時間が近づく頃にはぽつり、ぽつりと雨が降り出した。電車に打ち付ける雨粒をガラス越しに眺めながら、カバンに入れていた折りたたみ傘が役立つなと思い出す。
 慣れない都会、慣れない移ろうような車窓の景色。満員電車に慣れたのはほんの最近のことで、一息つける昼間の時間の電車は平日の朝に比べたらずっと気楽だった。
 無機質なアナウンスを耳に挟みながら電車を降りる。巻き込まれる雑踏はしっかりしていないと、自分がどこにいるのかわからなくなってしまいそうだ。
 腕時計で時間を確認しながら改札を出ると、ハルがすでに待っていた。
「ごめん、待たせちゃった?」
「いや。練習が早く終わったから早めに来た」
「そうなんだ。連絡くれれば良かったのに」
 そうしたら、もう一本早い電車に乗ろうか考えたのに。くすりと笑えば、ハルは目を逸らしてしまう。
「行くんだろ」
「うん」
 差し出された手を当たり前のように重ねる。ハルと付き合い始めた当初は、あまり手を繋ぎたがらないかと思っていたこともあった。実際はそんなことはなく、デートの度に繋ぐのは習慣になっている。
 電車を乗り継いで行く間、ハルも私も黙ったまま。これは付き合うより前からそうだけれど、ずっと会話してなくても困らない。隣同士寄り添って座った電車内は思ったよりも静かだった。
 降車駅を告げるアナウンスが流れると、数分もしないうちに電車は停車した。
 改札を出て駅に降り立つと、小雨だった雨は大粒の本降りに変わっていた。
「ハル傘持ってきた?」
「持ってる。名前は持ってるのか?」
「珍しく天気予報見てきたから持ってきたんだよ」
 カバンに手を入れて取り出そうとしたが、ハルが先に傘を開いて中に入ってと促すので、それに従った。雨音は、街の中の余計な雑踏をかき消してくれる気がした。
 今日はハルの誕生日なのに、私のリクエストで水族館に行くことになっている。駅からさほど歩かず入館すると、すぐに足元が薄暗く、海の底に来たような空間に迎えられた。
「段差あるから気をつけたほうがいい」
「はーい」
 ハルは忠告をしてくれて、私は彼の言う通りに足元を確かめつつ小さな階段を降りる。
「ここってイルカショー見れるんだよ」
 私はチケットを購入した時にもらったパンフレットを広げながらハルに指し示した。ハルは隣からのぞき込んで、それから私のほうを見た。
「見たいのか?」
「うん、ハルが嫌じゃなければ」
 ハルが興味ないものには、本当に反応を示さない。ただ一つ、付き合い始めてから分かったのは、ハルは私の意見を拒否することがあまり無いことだ。私もハルも、言ったら聞かない頑固なところはあれど、出会ってから言うほど衝突がなかった。そういうものだと思っていたけれど、何となく彼は私に合わせてくれる時があるのだ。
「嫌じゃない。名前とならいい」
「良かった。あっ、時間まで少しあるんだね」
 先に回れるところはあるかなと思っていると、ハルに手を引かれた。どうやらお目当ての水槽があるらしい。小さい水槽の数々を通り過ぎて、館内でも一番大きい水槽の前に辿り着いた。
 僅かな光源を残した廊下は薄暗く、水槽の真上から差し込む自然光がまっすぐに刺さっている。雨が降っているはずなのに、それでも他の水槽の前よりはずっと明るい。青白く、海とは異なる色をしていたけれど、きれいだと思った。
 あいにく私は魚の種類には詳しくない。
 隣のハルを横目に見上げれば、いつになく楽しそうな顔をしていて、もしかして楽しみにしていたのは、私よりもハルのほうかもしれないと気がついた。嬉しい時のリアクションがやや薄いのは昔からのことなので、彼に気づかれないようにそっと笑った。
「ハルはこの中の魚分かるの?」
「多少は知ってる……」
「昔からそういうの詳しいよね」
 ハルの横顔は、水槽の明かりを受けて青白く見せていた。一瞬、海の中にいるみたいに感じる。
「水中のハルはこんな感じなのかな」
 思わずこぼれ落ちた声にハルは私のほうを見た。
 ガラス越しにきらきらと映りこんだ景色が私達にも被さって、淡い色に閉じ込められる。きっと、水中に攫われてしまったらこんな感じなのだろう。
「名前も一緒だ」
 すっと伸びてきた手は私の頬へ添えられた。
「光が入ってる」
「え? どの辺?」
「この辺」
 頬に添えられた手のひらは、するりと鼻の頭のあたりを指でとんと示されて、なんだか可笑しくて笑った。
「ハルがそんな風見えるなら、私も一緒だよね」
「そうだな」
 柔らかく微笑んだハルに、私もつられて、再び微笑んだ。

 イルカショーの時間が近づいてきたので、移動すると親子連れやカップルなどたくさんの人が集まっていた。半円を描くように作られた座席は真ん中付近はだいぶ埋め尽くされていて、意外と空いていた前方の席へ座ることになった。
 ショーの進行をするお姉さんが「前のお席の人は濡れるかもしれないので気をつけてくださいね」と元気よくお知らせしてくれる。手渡されたビニールシートに、ハルと顔を見合わせた。
「濡れたらどうしようか」
「タオルあるから大丈夫だ」
 そんな他愛ないことを話しながら開演を待った。
 ショーが始まると、BGMもあるからか観客の声と合わさって賑やかになる。次々と繰り広げられるイルカの巧みな技に驚きながら拍手をした。
「次は何してくれるのかな?」
 ウキウキしながらハルに聞くと「さあな」ってあっさりとした回答だった。けれども、さっきの水槽の前と同じ顔をしていたので、私は何も言わない。
 イルカが水中から飛んで高く上がったところから、今度は数匹のイルカがプールをぐるぐると周回する。時折じゃれつくように空中で一回転しては、外へと水飛沫をはね上げた。
 私があっと思った時には、今日見た中で一番高く、そして壁際で飛んだ。一際大きな水飛沫をあげるのをスローモーションで見ていたけれど、ハルに抱き寄せられて、間一髪びしょ濡れは免れた。
「危なかったな」
「びっくりした……」
 ビニールに被さったままハルは言う。抱き寄せられた力が思ったよりも強くて、ただハルを見上げることしかできなかった。
 あの頃の子供だった自分達とは全然違くて、私もハルも大人になったのだと思い出すのだ。どうしてだか、そんな簡単なことをたまに忘れがちである。ハルは平然とビニールシートを畳んでいて、私は鳴り止まない心臓の音の誤魔化し方を考えていた。
 ショーが終わったあとは、何となくぐるりと館内を一通り見て回った。
 お土産屋さんコーナーに入って一番最初に目に止まったイルカのぬいぐるみを見ていると、ハルに肩を叩かれた。
「どうしたの?」
「これを見ろ……!」
 自慢げに私の目線に突き出したのは、どことなくイワトビちゃんを思い出させるフォルムのペンギンのぬいぐるみだった。あまりかわいいとは言い難い顔をしていたけれど、ハルは嬉しそうだ。
「買うの?」
「キーホルダーがあったから、それを買う」
「そうなんだ。私はこれにしようかなって」
 さっきのショーのイルカが可愛かったので、つられるように手が伸びた。大きすぎないので、部屋に飾ろうと思う。イルカのぬいぐるみの少し澄ました顔がハルに似ていると思ったのは内緒にしておこう。
 レジでお会計を済ませてから、水族館を出ると相変わらず来た時と変わらない本降りだった。
 駅に戻るために再び来た道を戻る。
「今日はハルの誕生日なのに、私のわがままなんかで良かったの?」
「名前と行けるならどこでもいい」
「ほんとに?」
「ああ」
「うん……。ふふ、来年も再来年も、この先もずっとお祝いさせてね」
 ハルの持つ傘の中で二人で寄り添って歩いて。
 打ち付ける雨音は、余計な雑踏をかき消して、私たちの声を通りやすくしてくれる。
「ハル、大好きだよ」
「……俺もだ」
 いつだか誰かが教えてくれたのだ。雨の日に傘の中で聞こえる声はきれいだと。だから、一等好きの気持ちを込めて、普段は恥ずかしくて言えないけれど伝えておきたい。
 ハルが生まれた、素敵な日だから。
「今日はハルがどんだけ鯖をリクエストしても作るよ」
「本当か?」
「だから、スーパーでお買い物して行こう。あとね、この間ハルの家の近くにあったケーキ屋さんが美味しそうだったからケーキも買おうよ」
 慣れない都会にきて迎える初めてのハルの誕生日。変わらないところもあるけれど、二人で過ごす日が大事な日になったら嬉しい。
 家についたら一緒にご飯を作って、それからハルに用意したプレゼントを渡そう。カバンの中に入ったラッピングされた袋に、ハルはまだ気がついていない。
 どんな顔をして受け取ってくれるのか、今から楽しみで仕方なかった。

2018/6/30 Happy Birthday 七瀬遙!!