テレビ画面に映った彼のインタビュー姿を見て、久しぶりだなと思った。
 確か、最後に会ったのは成人式の時だったか。彼はその頃にはすでにお茶の間で見るような大きな大会に出ていたから、一言二言話すだけで終わってしまった記憶がある。
 それからさらに数年も経てば、引退も間近かと噂されながらも好タイムをたたき出すニュースを最近みかけたばかりだ。
 午後八時を回った今、夕食をちょうど焼き鯖にして、懇意にしてもらっているお取引先の方からもらった日本酒をあけたところだった。最近ハマっているきゅうりのぬか漬けも小鉢に用意して、知り合いに見られたら呆れられそうな状態だが、それでも良かった。
 やりたい仕事に就いて、多少忙しい日もあったが担当案件が落ち着いたこともあり、テレビをゆっくりと見ること自体が久々のことだった。
 画面の向こうでは、キャスターにインタビューされる同級生の姿。少し前に、地元の友人から大会を見に行かないかと誘われたけれど、その日は仕事の打ち上げで断ってしまったことがあった。
 本当は行きたい気持ち半分、行きたくない気持ち半分で、中途半端なまま行く自分が嫌だったのだ。
 ハルは小学校から高校まで一緒だった同級生で、彼が東京へ上京してからのことはあまりよく知らなかった。
 私も彼と同じように大学進学に合わせて上京したけれど、学校も違い、元々付き合いがあったほうではない。たまたま連絡先を知っていただけで、今は彼が競泳に打ち込む一方で、私も仕事が忙しい。
 アドレス帳に残っている電話番号が変わっていないかどうかさえわからない。
 唯一、メッセージアプリに彼が登録されているので、恐らく連絡をとることが可能かもしれないが、連絡をする勇気も、勢いも持ち合わせていなかった。
 連絡をとるには、彼との間に時間が経ちすぎている。
 ハルは人とのコミュニケーションがあまり得意なほうではなかったと記憶していたが、インタビューの受け答えは落ち着いている。
 二言、三言答えてからインタビューコーナーから出ていくハルの姿は、遠くで戦う人そのものだった。
 テレビはハイライト映像を映し出し、フリー100Mの試合が流れる。一斉にプールへ飛び込む選手達。ハルがスターティングブロックからきれいに飛び込む姿は昔から変わらない。あっという間に終わる試合映像に、一度くらいは見に行っても良かったかもと思い直す。
「……この人が初恋だって言っても誰も信用してくれないだろうなあ」
 焼き鯖を口に放り込む。
 ハルは私の初恋だ。
 クールな性格をしているけれど、基本的に優しい人だ。困っていると、何も言わずに手を差し伸べてくれるところがあって、知っている人は知っている優しさだった。
 正確に自覚したのはいつかは覚えてないけれど、恐らく小学生の頃だと記憶している。兎にも角にも、気がついた時にはそれが恋というものに膨れ上がっていて、誤魔化しがききようもなかったのだ。
 懐かしい昔の話。今でこそ地元の友人らに笑って話せるけれど、当時は何となく言うこともできなかった。想いを伝えたら、付き合いの長い知り合いの枠ですらなくなってしまう。そんな気がして、自分から踏み出せないまま高校まで持ち越してしまった。
 卒業して、全然違う人とお付き合いをしてから、ゆっくりと溶けていった初恋は、心の奥底のアルバムに綴じ込むようにしまい込んだ。
 ハルは私に対しては、恋愛感情なんて微塵もなかっただろう。それで良かったのだ。

 テレビ画面に映っていたハルは、あの頃の孤独なハルではない。

 きっと、未来のメダリストが憧れるような存在になっている。

 いつの間にか初恋の同級生は、私の知らない顔で受け答えをする大人になってしまっていた。


 ◇ ◇ ◇


 東京の雑踏は上京した頃に比べて慣れたとはいえ、相変らず忙しない。人が行き交う構内は、急ぎ足の人からマイペースにのんびりと歩く人まで様々だ。人口が過密度に集中した街にいると時折、年に一度帰れるかわからない岩鳶町の実家が恋しくなる。出張で岩鳶の近くに行くことはあれど、実家に寄り道をする時間はなかった。今年こそは帰りたいと思いつつ、年末年始に何も予定をいれないほうが難しい。
 通勤ラッシュを抜けた駅構内を闊歩し、電車を乗り継いで揺られること数十分。
 空港ターミナル駅から空港へと入る。
 荷物を預け入れるには時間の余裕があり、フライト時間も長くはない。お昼ご飯を食べてしまおうとお店を探すことにした。
 出張や行楽の利用客が混ぜごせになっているので、ピリッとしているようでゆったりとした時間が流れる空港はいつも不思議な気持ちになる。少しだけ日常からはみ出た先っぽみたいだった。
 何度か立ち寄ったことのある定食を扱っているお店に入る。賑やかな空港とは思えないほど店内は落ち着いた雰囲気で、大事な商談が絡む出張の時に使用したりしている。
 今日は、何となく和食が食べたい気分で入った。店員に案内されながら、店内を歩いているとつい最近聞いたばかりの声が耳に飛び込んできた。
「ハルは何にする?」
「鯖定食」
「いつもそれだよね」
「日本に帰ってきたから、鯖に米、味噌汁が飲みたい」
 ふと声のしたほうへ顔を向けると、見知った顔が勢揃いしていて、私の足はその場で止まってしまった。店員のお客様、と呼ぶ声は随分と遠くに聞こえた。
 見知った姿を今更見間違えるはずがない。一体何年、同じ地元で過ごしてきたのだ。ちょっとやそっとの変化で、分からなくなるはずがない。それは向こうも同じだった。
「……名前?」
「ほんとだ、久しぶりだね」
「えっと、すごい偶然だね」
「そうだな。一緒に座るか」
 ハルの提案に、私は店員に一言断りを入れてから、ハルの隣に座った。よりにもよって、真琴とハルがいるとは思いもしない。何よりも、ハルに至ってはこの間テレビ中継でテレビ画面の向こうから見たばかりなのだ。
 時間があまりないことを伝えると、一通り注文をする流れになった。少し落ち着いてからみんなの話を聞けば、この間の大会から岩鳶を経由して帰ってきたところだという。
「この間の大会、テレビで見たよ。すごかったね」
「見てたのか」
「うん。ハル、メダルおめでとう」
「ありがとう」
「名前はこれから出張なんだっけ」
「うん。少し長めの出張だから、次帰ってくるのは来週だけどね」
「忙しいんだな」
「でも、あちこち行けて楽しいよ」
 運ばれてきた定食をハルに渡し、自分のもとにも定食のお盆が置かれた。控えめにいただきますと言って始まる食事は、穏やかな時間だった。
 久々に偶然会っただけなのに、すぐ話ができるのは地元で過ごした時間の長さなのか、彼らの人の良さなのか。
 頻繁に空港を利用するようになってから、知り合いに会うことは殆どないにも関わらず、このタイミングで出くわすほうが難しい。世間は意外と狭いものである。
「真琴ってトレーナーしてるんだっけ?」
「うん。今は代表の専属トレーナーをしていて、ハルが岩鳶に寄りたいって言ったから、一緒に帰省したんだ」
「大人になっても一緒にいるところは、二人らしいよね」
 思わず笑みが零れる。いつだって、ハルと真琴は一緒にいたけれど、まさかずっと近い場所で仕事を見つけたり、世界で戦ったりするなんて。誰かにとっての天職は、自分の一番近い場所に転がっているのかもしれない。
「名前、時間大丈夫なのか」
「もう少ししたら行かないとかな」
 腕時計で時間を確認すると、保安検査を通る時間もやや迫っていた。元々、昼食を摂るだけの為に立ち寄ったのだ。長話をするほどの余裕はなかった。
 個別のお会計を済ませてお店を出る。
 出発ロビーのところまで二人が見送ってくれるということで、一緒に歩いていく。
 久々に会った同級生に見送られて出張に行くだなんて、生まれて初めての出来事だ。もしかしたら、これが最初で最後かもしれないけれど。
 でも、誰かに見送られながら旅立つのは悪くない。一人で慣れた出張とはいえ、手助けがない空間というのはどこか不安が付きまとう。
「二人ともわざわざ、ありがとう。帰るの気をつけてね」
「名前もな」
「事故だけは気をつけてね」
「うん。じゃあ、私はこっち行くから」
 ひらり、手を振って別れようとした時だった。不意に掴まれた腕に前につんのめりそうになった。辛うじて立ち止まることは出来たけれど、後ろを振り返ってさらに驚いてしまう。
「は、ハル? どうしたの?」
「無事に着いたら連絡が欲しい」
 なんで、という言葉は喉の奥に押しやった。多分、彼なりの心配と気遣いなのだ。そんなの、直接聞かなくても彼を想っていた時分から知っていた。
「連絡先、変わってない?」
「変わってない」
「そっか……誰かに心配されるなんて久しぶりだなあ」
「出張長いのに、誰も聞かないのか」
「仕事関連での報告くらいだから、知り合いになんて言わないでしょ。着いたら連絡する」
 今度こそ、二人と別れ保安検査場の列に並ぶ。
 搭乗までの待ち時間の間に、スマートフォンに通知が入っていて、仕事用のスマートフォンからのものを優先に返事をしていく。個人用のスマートフォンには友人からの溜まっているメッセージが並んでいる。日頃から返信の時間がまちまちなので、野放しにしてくと、とんでもない通知数になっていた。今日はあまり多くもなく、お誘いの連絡などにスケジュールを確認して返信をした。
 ふと、ハルとのやりとりを思い出しながら、電話帳を久々に開いた。連絡先を交換した頃から変わらないメールアドレスに、電話番号。
 何故今になって、会ってしまったのだろうか。
 神様のいらずらか、因果か何かなのか。
 考えても仕方の無いことは明白だった。
 搭乗ロビーに響き渡る、搭乗開始のアナウンスを聞きながら私は出張へと旅立つ。
 ロビーから見える空は真っ青で、プールと同じ青色をしていた。ハルと真琴に会ったのは偶然だったにしても、出来すぎていて少し怖いくらい。
 飛び立つには十分すぎるくらいの出来事だった。


「ハル、あれだけで良かったの」
彼女と別れてから、真琴はやや納得がいっていない様子だった。
「真琴には関係ない」
「俺まで巻き込んでおいて?」
「……いつ会えるかわらないんだから、これくらいでちょうどいい」
 本当にただの偶然だった。成人式に会場で会ったきりで、連絡をとる理由もないまま時だけが経っていた。
 別れる間際、何もなかったように過ぎ去っていこうとする彼女を離したくなかった。昔から、どこか一線を引いて、立ち入らせないようにするところは何一つ変わっていない。
 それどころか、昔よりも上手になっていた。会わない時間の分だけ、彼女は知らない女の人になっている。
当たり前のことなのに、悔しいと思ったのだ。自分の知らない間の彼女のことを、他の誰かが知っていることに。
「連絡くらいすれば、名前は返してくれると思うよ」
 真琴のそっと言う一言は遙の耳には届いていない。
 じっと見つめた先に、彼女の姿はすでに見えなくなっていた。
 珍しくスマートフォンを開いた遙は電話帳を開く。高校の時に交換した連絡はそのまま登録され続けている。
 メッセージアプリにも、連絡先の一覧には彼女のアイコンがいるので問題が無ければ何かしらの手段で連絡がくるだろう。

 二時間後に、少しだけ上機嫌だった遙が真琴の隣にいたのはほんの少しだけ未来の話。


2018/10/07