「今日の名字さん、可愛い格好してますよね。もしかして彼氏出来たんですか?」
クライアントからのメールに返信をしていると、隣の後輩に話しかけられた。
午後三時も過ぎれば、一日のノルマにも目処がつく。次の案件にとりかかる前でもあったので、業務が慌ただしくなることもなく、のんびりと優雅にコーヒーを飲みながら、苦笑した。
彼女からすれば、今日の格好はいつもより気合いが入っているように見えるらしい。
「同級生に会うんだよ」
「なんだ、彼氏じゃないんですね。あっ、男の人ですか、女の人ですか」
「内緒」
適当にはぐらかすと、後輩からブーイングがあがる。教えてくれてもいいじゃないですか、そんなことを言いながら、隣の彼女はパソコンへとデータを打ち込んでいた。
今日は、先月空港で偶然再開したハルと会う約束をしている。
まさか、仕事終わりに会うのが競泳日本代表の七瀬遙だとは言いにくい。私からすれば、同級生だけれどそのことを話したことはない。ましてや、この間久々に再会したばかりで、何か面白いエピソードがあるわけでもなかった。
服装もそこまでおめかしをしたつもりではなかったのだ。
外回りも来客もない、内勤だけの日でいつもよりはラフな格好を意識はしていた。それでも、仕事終わりに何かしらの約束をしているとなれば、適当な服装をするわけにもいかず。
ライトグレーのAラインワンピースにゴールドのシンプルなパールの飾りがついただけのネックレスとお気に入りの腕時計を合わせてきただけだった。それでも、後輩に目敏く見られるということは私はそれなりに彼を意識している証拠なのだろう。
そもそも今更可愛らしくしたところで、再会した時はかっちりとスーツに身を包んでいたのだから、そのままでも良かったわけだが。
「名字さん、今日のリップいつもより優しいピンクですよ。いいなあ、私が男だったら名字さん絶対好きになっちゃいます!」
「会うの男の人とは言ってないんだけど」
「でも、こんな名字さんすごーく久々に見ましたよ。あとで素敵な報告お待ちしてますね」
「はいはい。さっきクライアントからの修正点のメール送ったから見ておいてね」
はしゃぐ後輩を横目に、返信を打ち終えた私はコーヒーを淹れ直すために席を立った。
給湯室でコーヒーを淹れ直していると、今度は別部署の同期が入ってくる。
「ねえねえ、同級生ってもしかして前に言ってた初恋の人?」
私の隣にやってきた同期は同じようにドリップコーヒーの袋を開ける。
「さっきの聞いてたの? 悪趣味。……あと、もっとトーン落としてよ……」
コポコポとポットからお湯を注ぐ。蒸れたコーヒーから、香りが立ち上る。ゆらゆら揺れる湯気をぼんやりと眺めた。
これ以上、他の人に勘ぐられてはたまったものではない。
「やっぱりそうなんだ。あとで話聞かせてね」
「何もないって……」
ドリップし終わったパックを三角コーナーに捨てる。
同期が気にするのも仕方ない自覚は多少あった。彼氏やらそんな話で色めきたっていたのは、新卒で入社した最初の頃くらいだ。当時お付き合いをしていた人はいたけれど、仕事とプライベートの時間の違いから、自然消滅。その時の人が今どうしているかなんて、女友達伝いに時々耳に入る程度のことだった。
久しぶりに同期に春が来るかもしれないとなれば、聞きたくなる気持ちもわからないでもない。
「……この格好、大丈夫だと思う?」
「似合ってるよ。……なあんだ、やっぱり例の人じゃん。大丈夫、可愛く見えるよ」
同期の笑顔に、私も連られて笑った。
ハルとの約束は十九時。
定時にきっかり仕事を上がった私は、トイレで化粧を直して待ち合わせ場所に向かう。
いつもより物を減らして小さい鞄できたので、人混みの駅構内でも歩きやすい。
最初は、会社の最寄り駅まで迎えにくると言っていたハルだが、誰かにみられるほうが嫌だった。丁重にお断りをして、何とか自宅方面に変更してもらった。
ハルは昔から、自分がどう見られているのかを気にしないところがあり、それは今も健在らしい。なんとも彼らしいと思った。
駅の改札を出てすぐのお店が待ち合わせ場所で、お店に入って店員に確認するとすでにお待ちですよと教えてくれた。店員の案内に従ってついていくと、半個室のテーブル席にはすでに彼が待っていた。
「お疲れさま。ハル、早かったんだね」
「少しだけ早い電車に乗れたんだ」
「そっか」
上着を脱いで、後ろの壁に引っかかっているハンガーにかけてから座るとようやく落ち着けた。
「ハルは何飲む?」
メニューを広げながら尋ねる。
「……名前と同じのでいい」
「好きなもの飲もうよ。ビール? カクテル? サワー?」
そこまで聞いたところで、もしかしてと気がつく。
「ハル、あんまりお酒飲まない?」
「普段は飲まないな。誘われれば飲む」
「そっかあ。じゃあ好きなお酒の系統言ってもらえれば、選ぼうかな」
そんな風に言えば、焼酎がいいと言うのでサワー系をいくつか言うとようやく決まる。私も気になったカクテルを注文して、それから食べ物の注文をする。
「鯖はあるのか」
「この間も思ったけど、相変わらず鯖好きなんだね」
空港で会った時も、ハルは鯖定食を頼んでいた。真琴もそれを普通に受け入れていたし、よく教室で食べていたなと懐かしく思う。
「鯖はおいしい」
「ここ塩鯖あったけかな」
一品もののページをめくっていると、だし巻きたまごや茶碗蒸しと並んで焼き魚が複数ありそこに載っていた。
今日指定したお店は、私の家から近いこともあり土地勘のある私が選んだお店だった。ご飯の種類が豊富でお酒もたくさん置いている。値段も高すぎず、この近辺の相場通りで誰と来ても楽しく過ごせるお店だ。
普段は塩鯖を注文することはないけれど、好きなものを頼んで食べたほうがいいに決まっている。私も好きなので断る理由なんてなかった。
その他にサラダやら揚げ物を選んで店員に注文をする。そこまでしてからふと気になったのは、果たして何でも良かったのだろうかということだった。
仮にもアスリート。食事は普段から気にしているから、わざわざ私から聞くことでもないかと思うが、気になってしまう。
「適当に注文したけど、駄目なものとかあった?」
「一食くらい食べ過ぎても消費するから問題ない」
「……ああ、なるほど」
「名前は気にしないのか」
「気にしてたら、誰かとご飯いけないよ」
全然気にしていないと言ったら嘘になるけれど。昔よりは気にしないとお腹のお肉とか気になるし、体重計に乗って凹む時もあるけれど、今はその時ではない。
久しぶりにゆっくり話す機会のある人といるのに、気にしていたらもったいない。こういう時は、多少目を瞑っておく。
先にきた飲み物でグラスを控えめにコツンと合わせて乾杯をする。お互いを労うと、ようやく一息つけた。
「あのあと、ちゃんと帰れたか?」
お通しを口に運んでいるとハルに聞かれた。
空港で会ったあと、到着の連絡と再び東京に戻ってきた時に連絡したきりである。今日、会おうと約束をしたのも帰ってきた日なので、ほとんど連絡をとっていなかった。
「ちゃんと帰れたよ。だからここにいるし……そうだ、お土産持てきたんだ」
鞄から小さい袋を取り出してハルに渡す。
「ありがとう」
「普段はあんまりお土産買わないけど、良かったら。確か日持ちするから賞味期限は大丈夫」
「まだ平気だな。あとで食べてみる」
ご当地のクッキーには、ゆるキャラがプリントされている。ハルがそういったものが好きなのは変わっていなくて安心した。嬉しそうな表情を滲ませていた。
「ハルってあんまり変わってないんだね」
テレビで見たハルは全然違う顔をしていたなと思っていたのに、空港で会った時も、今ここにいるハルも、私がよく見知っているハルだった。
「名前は変わったな」
「そうかな?」
周りからは、あまり変わってないと言われるはずなのにな。
「きれいになった」
くすりと微笑む姿に、年甲斐もなく動揺した。異性に褒められる機会は多くはないけれど、仮にも初恋の人に言われるのは嬉しくもあるし、気恥ずかしさもある。
ハルの口からはごく自然に出てきた言葉みたいで、涼しい顔をして言うから、動揺する私が可笑しいみたい。
「……え、えっと、お世辞でもありがとう」
「お世辞じゃない」
しっかりと前を見て言われてしまい、下手に視線を逸らすことができなかった。胸の奥深くにそっとしまい込んだはずの想いがぶり返しそうになる。ずっと言えないまま、何にも昇華されなかった幼い頃のきらきらした欠片。きっと、誰にも拾われる機会もないはずだった。
それを今になって、張本人の手によって掘り返されるとは思いもしないし、あくまで私の問題であって、ハルのせいではない。
「どうして、そんなこと言うの」
薄い水色をしたカクテルの入ったグラスを持ったまま問いかける。尻すぼみになった声は、情けないくらい震えてしまう。
「言いたかったから」
「そんなにサラッと言わないでよ」
段々と目線を合わせていることもできず、運ばれてきた料理に視線を落とす。
「そういうことは、もっと大事な人に言いなよ」
我ながら可愛くない言い回しだ。昔よりもずっと大人になったのだから、いくらだって言葉を選ぶことはできるはずなのに。
嬉しい。ありがとう。好き。
簡単に伝えることができたら、今の私はいないのだ。だって、最後のチャンスはきっと高校の卒業式だったから。成人式で再会した時は、言う暇もなかったし、その時は別の人とお付き合いをしていた。
「俺には、名前が大事な人だから言いたい」
「……本当に?」
ようやく視線を合わせれば、困った顔をしたハルがいた。
突然差し伸べられた手を、掴み取る勇気も若さもないと思っていた。それは自分が少しだけ大人になって、封じ込めた想いはそのまま風化していくと感じていたからだ。
「嘘言ってもしょうがないだろ」
「そうだけど」
信じられないと言ったほうが事態を飲み込むのには一番早かった。絶対に叶えるつもりもなかったからだ。何年も前に、想いを告げるのは諦めた。憧れのまま、優しい記憶のままにするつもりだった。
「うん。……あのね、ハル」
どっちが先だったとは聞かない。
「前からずっと好きだったよ」
やっとの思いで声に出す。何年分の想いを声にしたのだろう。初々しいというには年齢を重ねているのに、どうしてあの頃のままの気持ちになるのか。
「そんなの俺だって」
そっぽ向いてしまうハルは私を横目に一言漏らす。
それだけで、どうしようもなく嬉しいと思ってしまう。
たくさん言わなくてもちゃんと彼に伝わっていると理解したのは、お店を出る時のことだった。