うみのうえには、まんまるのおつきさまがぽっかりと、ひとつ、うかんでいました。
 
 昔読んだ絵本の最後にあった一文が忘れられない。最後のページには、真っ黒な海と、藍色の空と、それから本当に一つだけ丸々とした柔らかいクリーム色をした月が描かれていた。幼い頃、そのページを見た感想は「つきはさみしくないのかな」というものだった。
 それを唐突に思い出したのは、梅雨の中休みと言わんばかりに雨が止んでいて、外の空気を入れたくてベランダ側の窓を開けたからだ。窓を開けようとして空を仰いだら、満月だったらしく、絵本みたいな空だった。海は近くないけれど、星が見えにくい都会の空では、月がよく見える。住宅街に落ちる夜空には、煌々とした月があった。きれいなクリーム色をしていて、ミルクを溶かしたような優しい色を空に映しだしていた。
「月が、きれいですね」
 そんな言葉がぴったりな空だった。
 思わず零れた声に、はっとする。今部屋に一人で良かった。彼に聞かれていたら、なんと答えてくれるのだろう。優しく微笑みかけてくれるだけかもしれない。もしくは冗談だとわかっていて、乗ってくれるかもしれない。
 そういえば、これは信憑性の低い逸話だったけか。私にとって月はすこし寂しい存在だ。ミルク色なのは、寂しさを絡めとって包み込んでいるのかもしれない。ぼんやりと見上げた夜空は、ただそこにあるだけだった。
 網戸にして微風が入ってくるようになり、カーテンを閉め直していると、リビングの扉が開いた。
「おかえりなさい、遙」
「ただいま」
 練習から帰ってきた遙にどうしたんだ、と不思議そうに問われた。
「蒸し暑いから窓を開けたら、月がきれいだったからすこし眺めてたの」
「そうだったのか。空を見上げていなかったから知らなかった」
「窓、見てみるといいよ。ごはん準備するね」
 キッチンに立ち、できあがっていたごはんを温め直す。今日は遙の好きなものを用意したいと思って準備をしたけれど、栄養バランスを考えながら作るのは難しかった。コンロの火をつけて、鍋に入った味噌汁を温める。白米は、ちょうどよく炊けている。おかずは複数作っていたので、レンジで温め直す。
 食器棚からお椀と茶碗を取りだそうとしたところで、遙がキッチンスペースへと入ってきた。荷物もあらかた片したようだった。
「そっちよそう」
「ありがとう」
 私からお茶碗を二つ受け取った遙は、炊飯器の蓋を開けている。
「さっき月をみた」
「どうだった?」
「きれいだった」
 静かに言う遙はいつもの調子だった。遙はきれいじゃないものを、きれいとは言わないから、同じように感じてくれたのがちょっと嬉しい。
 すべての用意を全部終えて、向かい合わせに席に座る。並んだ食卓は、いつもとあまり変わらなくて、せっかく遙の誕生日なのに、周りの人からすれば味気ないと言われかねない。それでも私と遙からすれば、このいつもとの変わらなさが私たちらしさでもある。
「さっき月を見てて、昔読んだ絵本を思い出したんだけど」
「絵本?」
「うん。魚が冒険をして色んな海の仲間に出会って、最後はハッピーエンドで仲良く暮らすんだけど、今日みたいな月が最後のページに描いてあったの」
 最後はめでたしめでたしで終わったはずなのに、なぜその一ページが描いてあったのか理解ができない。今でもあの月は寂しいままなのだろうか。
「その絵本、遙ならどう思うのかなって考えたけれど、絵本のタイトルも思い出せなくて」
 苦笑して見せれば、なんだそれ、と、笑われてしまった。
「今度見つけたら教えるね」
「ああ」
 そんなふうに他愛ない会話をして進む、食事の時間が穏やかで好きだ。毎日同じようなことなのに、その毎日が人には必要で、私と遙にも同じようなことが言える。
 寂しさはどこにもない。
 幸せのありかが、ここに存在していた。
 
 食事を終えて、待っていたとばかりに出した小さなホールケーキは、季節のフルーツが上に乗った少しだけ見栄えのするケーキ。
 スポンジはシロップがしっかりと染み込んでいて、軽すぎないしっとりしているのが自慢のお店のケーキを選んだ。
「誕生日おめでとう、遙」
「ありがとう」
 にこりとした遙は嬉しそうで、この後はまだ遙に渡すプレゼントが残っているのだけれど、ビックリしてくれるかな、と不安になる。でも、それはきっと杞憂で、遙は優しい顔をして受け取ってくれるのだろう。
 今日は、私が世界で一番大事にしたい人が産まれてきた日だ。遠く世界へ羽ばたいていく遙の道のりは、今までよりもずっとグローバルで開けた世界だ。私が遙の隣にいられるのは、水泳中心で回っている遙の世界のほんの片隅。それでも、拒否をされたこともないし、自然と受け入れてくれている。どこまでも応援し続けたい、私の大事な人だ。
 きっと今日一日、たくさんの友人に祝われただろう遙を、一日の終わりに独り占めしてお祝いをする。もしかしたら、私が遙と幸せを分かち合いたいと思っていても、実は一番の幸せをもらっているのは私のほうなのかもしれない。
 月もこんなふうに誰かが優しく寄り添ってくれるなら寂しくないのに、と 気がついたのは、遙と一緒に眠りにつく時だった。
 
 Happybirthday!! Nanase Haruka!