*門出
荘厳な部屋で一人の男が机に腰掛けていた。男は2枚の紙を眺めながらその整った唇を三日月の様に歪めている。それぞれの紙に書かれているのは二人の人間について。名前、生年月日、年齢、住所等の要するにプロフィールのようなものだ。だがそれを「プロフィール」と言い表わすには些か情報量が多いように思える。それなりの大きさの紙1枚を全て字で満たす程だ。何故こんなものを彼が持っているのだろうか。その問を男にしたなら、彼ならたった一言で答えるだろう。
「──来たな」
ふと、男は見ていた紙から目を上げた。その視線の先には二つの光。
まるで寄り添うように浮いている双つの──魂。
「いらっしゃい」
腰掛けていた立派な机に紙を置き、男は光に向かって歓迎の言葉を述べる。それを聞いた光はお辞儀をするかのように上下した。その様子に男は思わず噴き出してしまう……礼儀正し過ぎる。しばらく笑いが止まらなかったが、今度は首を傾げる動きをした光を見て男はこほん、と軽く咳払いをした後に「……さて、」と話を切り出した。
「君達は自分が何故此処にいるのか、疑問に思う事だろう。だがまずは聞いて欲しい。これは限りなく…そう、この上なく個人的なものなのだが」
男には昔から趣味があった(趣味、と言うには少々重い内容なのだが、他に言葉が見付からない)。自分の今の「地位」を利用したある趣味が。それは、
「──『転生』だ」
人の世には「輪廻」という「霊魂が、人間、動物或いは場合によって植物等と、1つもしくはそれ以上の存在に次々に生まれ代わっていくとする思想、信仰」がある。その思想に男は興味を抱いた。
「人間の輪廻転生…とても興味深いものだが、それには条件があってな。それを満たす者に転生の権利を与えている」
「輪廻」という思想は普通アジアの宗教や哲学に顕著であるが、原始宗教、古代オリエントの宗教、マニ教、グノーシス主義、更には神智学など現代の宗教運動にも見出される。
「インド古来の生死観ではsam's*raと呼ばれ、例えばウパニシャッドの哲人ヤージュニャバルキヤは「輪廻」を業の思想に結び付け、梵と我の合一…梵我一如による解説を説いた。対して不変の実体霊魂を認めない仏教では、人間行為の結果としての業そのものが「輪廻」すると考える。
……まあつまり、何が言いたいかと言うと、」
男は一旦言葉を切り、それから光に向かってにっこりと笑顔を作った。
「君達は『神』の存在を信じていたか?」
「『神』を信じ、」
「何かを成し遂げた事は?」
にんまりと口角を上げ光を見る男。だが目だけは全てを見透かすように鋭く光っていた。彼は両の手を広げながら光に歩み寄って行く。
双つの魂に手を添え、顔を近付ける。見惚れてしまう程に美しい笑顔を携えて。
つ、と人の頬を撫でるように長い指を滑らせる。その手付きはあくまでも優しく、決して傷付けるようなものではなかった。だがそれでも異論は赦さないという圧力が、場を支配している。光は男の問に答えるように小刻みに揺れた。
「──ないだろう?」
狂気さえ連想出来そうな笑みを男は見せる。
「愉快」。彼は笑顔のみでそれを表わした。
光はその笑みを、ただじっと見ている。
……事実だったのだ。男の言葉全てが。
今まで生きていて一度だって彼らはそんな事しなかった。「神」の存在なんて欠片も信じていなかった。信じてどうにかなる程、彼らの身にあった出来事は簡単な話ではなかった。それに寧ろ「神」という存在を軽蔑していた。そんな彼らが「『神』を信じ、成し遂げた事」など、あるはずもないのだ。
全てを見透かし笑みを浮かべる目の前の男。その正体を彼らは知っていた。
「人間風情が、我々『神』を信じないとはな」
───なんと厚かましい。
愉快を嘲笑に変え、男…「神」は囁いた。
「人間は皆神を信じ、それを生きる糧としている。……そう思っていたんだがな。君達は違うようだ。それどころか寧ろ軽蔑している」
神を信じるからこそ生まれたのが輪廻という思想だと思っていた。だが目の前の光は一度だって神を信じた事はない。光に添えていた長い指を自分の顎に持って行く神。その姿はまるで1枚の絵画のように美しく、そしてどこか冷たかった。
「『Ask, and it shall be given you.』という言葉を知らないのか?」
神は鼻で笑う。だがその言葉を聞いた光は弾かれたように彼を見た。
「……何か言いたそうだな?」
反応した光に、神はにやり、と今度は意地悪く笑いながら目を向ける。それはどこか期待しているようにも見えた。ずっと待ち望んでいたものを手に入れられるかもしれない。そんな期待を。
彼は光に耳を傾けた。声なき声を聞く為に。
光は神に答えた。神を信じない者としての答えを。
「──そうだ。それでいい」
光の答えは正しく、神が待ち望んでいたものだった。先程まで浮かべていた様々な笑みの残骸を全て消し去り、彼はうっとりと目を細める。
「その通り。俺が望む答えは正しくそれだ。今まで色々な人間に同じ質問をしたが…誰一人としてその答えを述べた者はいなかった」
「だから嫌なんだ、人間は」
「この言葉の意味を履き違える者に、用はない」
嫌な事を思い出した、と顔を歪める神。顰められた柳眉がその時の彼の心情を表わしている。明らかに見下した目をして神は吐き捨てた。今までの者達は皆この言葉の意味を勘違いしていたのだ。
Ask, and it shall be given you.
「『ひたすら神に祈るなら、神は必ず正しい心と正しい信仰を下さるという事』。間違いではない。だがそれは所詮は全て神任せ」
神の望む答えはそれではなかった。
「『転じて、何事もただ待つのではなく自ら積極的に求める態度が必要であるという事』。俺が望むのは此方だ」
元々は信仰には主体的な決断が必要である事を説いたイエスの言葉。
「『信じれば救われる』?莫迦莫迦しい。信じるだけで何もしない奴に救いなどあるはずがない。それはただの怠惰だ」
「だがそれに比べ君達は初っ端から神の存在を否定し、そして『叶わぬ時の神頼み』もせず全てを真っ向から立ち向かうという行動を起こした」
「──そう、それでいい」
「俺の望む答えを出す、行動を起こす、」
「これらこそが、輪廻転生の条件だ」
合格だ、おめでとう。
神は双つの魂に向かって手を差し伸べた。まるで新しい世界へと誘うかのように。
「君達に転生の権利を与えよう。……え?神を信じる云々の話は何だったのか?それはあれだ、我々を信じる信じないは『些細な問題に過ぎない』というやつだ。信じるか信じないかで条件もまた変わって来るが…まあ所詮は『その程度の問題』という事だ。宗教の勧誘文句みたいで笑わないよう我慢するのが大変だったよまったく。輪廻の話とか特にな。因みに神云々の話が関係ないという事は思想に於ける輪廻の話も勿論関係ないという事なので悪しからず。ああ、嘲笑については謝ろう。申し訳ない」
先程までの雰囲気を一掃し、茶化すような、それでいて優しげな笑みを浮かべて訊いてもいない事をぺらぺらと話し出す神。光は彼の突然な変化に戸惑うものの、しっかりと神の話に耳を傾ける。その様子を微笑ましげに見、彼は光を撫でた。
「君達は現世で天寿を全うした訳ではない、が」
「それもまた『些細な問題に過ぎない』のだ」
神に導かれるままにやって来た豪奢な扉の前。彼の身長の何倍もあるその扉は堅く閉ざされている。
「この扉を潜れば、其処はもう君達の新しい居場所だ」
「安心し給え。苦しみなど何もない」
「ただ少し、眩しいだけだ」
柔らかく微笑む神に光は安心したようにその手に擦り寄る。ありがとうと言わんばかりに頻りに上下する双つの魂。彼は「礼には及ばない」と笑った。やがて閉ざされていた扉が開き、それに誘われるように光は神の手から離れて行く。魂の温もりを失う感覚を名残惜しく思いながら、彼は歌うように囁いた。
「君達の新たな門出を祝福しよう」
「今度は手に出来る事を願っているよ」
また会おう、俺の愛しい子達。
願わくばその時は。
───「幸せ」でありますように。
扉はまた、堅く閉ざされた。
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門出……新しい生活に向けて出発する事