「焦凍くん、よかった、目が──」

十分か十五分か、そこらだったと思う。彼が地面に倒れ込んでから目を覚ますまでの間は。それでもトラウマを見ているだのとのたまう敵に気が気ではなかった。彼は物心ついてすぐに母親と引き離されてしまったし、その後も兄や姉と隔離された上に個性を伸ばす特訓を日々重ねていたのだから、想像でしかないけれどさぞやひどい幻覚を見ているのだろうと思っていたから。
しかし、私の想像は的外れどころかそれをゆうに越えていたらしい。荒々しい息と共に目を開けた彼は私を見るなりその瞳を揺らして抱き寄せてきたのだ。

「しょ、焦凍くん?」

彼の腕が私を締め付けるかのように背中に回っている。好きな人に触れられれば、ましてや抱きしめられるなど普通は嬉しかったりときめいたりするものなのだろうが、今の私にそんな感情は一切芽生えてこなかった。

「どうしたの……?」

この十年彼のことを見てきた。そんな中で良くも悪くも彼がここまでの感情表現をしたのはただの一度きりだ。彼の母親が病院に入ると決まったあの日以来、年齢による成長もあるだろうが同年代でも感情の起伏は乏しい方に分類される。
それなのに今、彼はあの時を思い起こさせるほどに私を抱き締める腕に力を入れている。それほどまでの悪夢だったということか。そう気づいた時、鼻の奥がツンとした。もうこれ以上彼に悲しい出来事など起きないでほしいのに。家族で遊園地に来たこともない、普通の幸せを享受できなかった彼には今日楽しい思い出だけを持ち帰ってほしかったのに。
どうしたら彼を安心させてあげられるのかがわからなくて、私も彼の背中に手を回した。人の体温というのは安心を得られる効果があると何かの授業で聞いた気がしたからだ。

「轟くん大丈夫かな?これ飲んでゆっくりしてね。先に寮帰っても大丈夫だよ」

彼も落ち着いたのか二人でベンチに座っていると保健医がUSJで襲撃された時のようにココアを持ってきてくれた。紙コップに入ったそれはとても甘くて穏やかな香りがする。直接的な被害はなかった私でさえこの甘い空気で消え切らなかった不安が薄まっていくように感じた。

「……はい」
「秦野さんは?大丈夫?」
「私は平気です。ありがとうございます」

私の飲む分は他の人に渡してあげてほしい。私自身苦しそうな彼を見ているのは辛かったけれど、ただそれだけだ。トラウマを掘り返されたり、身も凍るほどの悪夢から出られない恐怖を味わったわけではないのだ。
担任でありプロヒーローでもある相澤をしてナンバーワンヒーローに最も近い男と言われていた通形も、現時点で全国にその名が知れ渡るほどのプロヒーローであるホークスも、幻覚からさめてすぐにいつも通りとはいかないらしい。ならば爆豪もだが、焦凍の回復にはより時間がかかることだろう。

「……」

さっきまでとは打って変わって表情から感情というものが消え去っている。膝に肘をつき、組んだ手の上に顎を置いて何かを考えているようだ。
楽しい一日になるはずだったのにな。クラスメイトとアトラクションを楽しんで、その辺のワゴンでジャンクフードを食べたりして、皆で写真を撮ったりお土産を見に行ったりして、何もなかった遊園地で遊ぶという経験の一ページが楽しいことだけで埋まるはずだったのに。
『ただの面白半分な愉快犯です』あの占い師はそう言っていた。それに巻き込まれた人がどんな気持ちになるかなどお構いなしに。私にはそれが許せなかった。

「……どうした?」
「え?」
「怒ってる……よな。幻覚見てる間に何かしてたんなら悪い」
「あっ、ううん、違うの」

本調子でない彼に更に気遣いまでさせてどうするのだ。丸まった背中のせいかいつもより目線の低い彼が見上げるように尋ねてきて咄嗟に首を左右に振った。

「今日の遠足……楽しんでもらいたかったんだ」
「……楽しんだぞ。これ以外は」
「ならよかったけど、でも、楽しいって思い出だけにしたかったの。いっぱい遊んで、楽しかったな遊園地って思ってもらいたかったなって」

それなのにあの占い師のせいでそれは叶わなかった。私達からすればたった十分、十五分程度の出来事ではあったけれど、幻覚の個性なら時間の感覚がずれていても何らおかしくはないし、思い出を黒く塗り潰すには十分過ぎるほどの時間と中身であったことは彼の顔色から察するに余りある。

「……好きなんだな」

じっと私を見ていた彼の口が開いた。今の私の言葉にそんな要素はあっただろうか。もし私の気持ちが知られたら親のこともあるし避けられてしまうかもしれない。数ヶ月前は私から彼を遠ざけておいてこんなこと言えた義理ではないが、避けられたくはない。なんとか上手く否定しなくてはと、うるさく鳴る胸の鼓動に急かされながら頭をフル回転させた。

「遊園地」
「あ、ああ、そっち、うん、そうだね……」
「?」

彼の天然ぶりは雄英高校に来てからも嫌というほどわかっていたはずなのに、私ときたらまだ彼のこういうところを理解しきれていなかったらしい。
急ブレーキをかけた鼓動は徐々に穏やかになっていく。私の想いが伝わっていなかったことへの安堵とほんの僅かな残念な気持ちとが入り乱れたまま、彼に気づかれないよう肩の力を抜いた。

「焦凍くん、もしまだ帰らなくても大丈夫ならもう一つ乗っていかない?」

敵の被害に遭った事実は消せない。だけど、唯一の遊園地の思い出がそれで終わりだなんて余りにも悲し過ぎる。「ちょっと待っててね」と告げて従姉妹のもとへ向かった。

「まどかちゃん、私達この後レトロランドに行きたいんだけど……着いてきてもらってもいい?」
「いいよ。轟くんは大丈夫そう?」
「うん。最後にあっちも見てから帰ろっかなって」
「そっか。じゃあホークスはここで待ってて」
「……いや、俺も行くよ。もう平気」

大きな翼を動かしてホークスが立ち上がった。正確に言うと浮いている状態だから立っているとは言い難いかもしれないけれど。
従姉妹の視線にホークスはテレビでよく見る笑顔を見せていた。もう平気という言葉が本当にしろ建前にしろ、プロヒーローとしての強さをひしひしと感じる。

「じゃあ私達ここで待ってるから。いってらっしゃい」

従姉妹とホークスに見送られ私達は観覧車へと乗り込んだ。本当はフューチャーパークの名物である大型観覧車に乗りたいと計画していたのだが、今の彼はあまり多くの目がある所にはいない方がいいなと思って。
ガコン、と扉に鍵が掛かる音がした。言わずもがなこれは密室空間というやつなのだが、そんなことよりも彼がこの夕焼けに染まった遊園地を目に焼き付けてくれるかということだけで頭がいっぱいだった。
人の記憶は嗅覚や視覚や聴覚から成り立っていて、聴覚よりは視覚の方が忘れにくいと聞いたことがある。勿論それらより味覚や触覚、嗅覚の方が記憶に残るとも聞いたのだが、遊園地の思い出づくりで嗅覚を使うのは難易度が高すぎて諦めるしかなかった。だからせめて、この綺麗な風景で悪夢を上書きしてほしい。

「あの時」
「?」
「沙耶とプロヒーローになってた」

何かと思ったけれど幻覚の話か。怖い夢の話は人にすると気が紛れると言うし、彼が話すのを望むなら私も聞きたい。幸い観覧車は動き出したばかりでまだまだ時間もある。

「チームアップで廃墟に行って、皆やられた。触れた瞬間灰になる火に囲まれて……俺達二人しか残らなくて逃げようとした時に沙耶が焼かれた」
「……」
「お互い手を伸ばして、あと少しってところで目の前で灰になるのを見てるしかなかった。何度も何度も同じ場面がループして……最後は沙耶が手も伸ばさなくなって諦めてた」
「そう……なんだ」

彼は幼い頃からずっと自分の個性を嫌っていた。半冷半熱の熱の部分を。私や他の人が同じような個性で殺されていくのを、それも何度も何度も見させられるなんて、どれほどの苦痛だっただろう。
観覧車の窓から外を見る彼の目は穏やかだったけれど、私はそんな彼から目を離せないでいた。

「だけど、沙耶の声が聞こえた」
「……私?」
「目の前の沙耶は灰になってくのに沙耶が俺を呼ぶ声が何回も聞こえて、それで幻覚じゃないかって」

あの占い師が個性を使っている間は結局私は何もできなくて、馬鹿の一つ覚えみたいに彼の名を呼びかけることしかしていなかった。まさか聞こえていたとは思いもよらなかったけれど、それが彼の助けに繋がるなんて。
何だか気恥ずかしいな、と思いながら観覧車の内装に目を向けていると遊園地の景色から目を戻した彼が私を見ていることに気がついた。

「それで気づけて幻覚も消せた。ありがとな」

一瞬だけ、刹那の出来事ではあったけれど彼が笑ってくれたような気がした。無理をしているわけではない、虚勢や強がりなんかではない心からの柔らかな笑顔を見た気がした。

「遊園地も楽しかった。沙耶のおかげだ」
「……ううん、そんなことないよ、でも……良かった」

観覧車が下降を始めた。フューチャーパークと違ってこちらの観覧車は直径が小さめに作られているのだがそれでもまだ後半分あるのか。それに気づいた瞬間急に意識してしまう。彼と狭い場所に二人きりだということを。
さっきまでは彼の思い出を上書きしたいと強く願っていたから気にはならなかったけれど、その願いももう成就した今、彼の一挙手一投足が気になってしまう。

「も、もうすぐ退園時間だね。こっちはともかくフューチャーパークの方は半分くらい乗れたかな」

私の視線の向こうには、つまり彼の背中側にはフューチャーパークが見えている。最新鋭のアトラクションを毎月のように増やしていっているおかげでその数の多さは日本一とも言われていて、とてもではないが一日では回りきれない。毎年遠足がここというわけでもないらしいし、次来れるのはいつになるだろうか。それでも人気の物は割とたくさん乗れたし、彼のことを差し引いても満足できた。

「あれで半分か。広いんだな……残りは次来た時にまた案内頼んでいいか?」
「うん、勿論。……んっ?」

彼がフューチャーパークを見ながら何気なく言った言葉に頷いたけれど、その言葉を噛み砕いて意味を理解した時に疑問が生じた。彼はまた私とここに来てくれるつもりなのだろうか。地元ではデートスポットとしても大人気のこの場所に、私と。

「どうかしたか?」
「え?いや……何も……」

彼のことだからそんな意味はないのだろう。毎年遠足がここだとでも思っているのかもしれない。もしそうなら、また来年一緒に回ろうという意味でもある。
来年のことはその時になってみないとわからないけれど、今唯一わかっているのは来年もその次の年も私は彼のことが好きで、彼と一緒にいられるなら遊園地のガイドでも何でもするということだ。もし来年も一緒に来れたならその時は、その時こそは楽しかった思い出だけを彼が持って帰れるように願った。




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