「……うん、いい感じ」

どれもこれも美味しく作れたのではないだろうか。ここ最近ではいつになく気分が晴れやかというか落ち着いている。焦凍と少しすれ違いが続いていたせいで日に日に心が削られていったけれど、高校時代からの友人による励ましを受けて今日こそは彼と時間をかけてゆっくりと話すと、そう決められたからだろう。

「えっゴミ袋買い置きないんだ……?」

朝も掃除をして二枚ほど使ったとはいえ、彼の部屋には残り一枚しかゴミ袋が残っていなかった。料理下手とはいえ生活力が皆無というわけではない彼にしては珍しい。でもこうした抜けてるところも可愛いんだけど、なんて一人で口元を緩めながら最後の一枚に料理で出たゴミをまとめ、コンビニでゴミ袋を買い足しておこうとバッグを肩にかけた。
鍵を閉めて彼の部屋を出る。七階の廊下からちらりと見えた街はもうすっかりライトアップされていて自動車ですら煌めいて見えた。一階のゴミ置き場でゴミを捨て、入れ違いにならないようにコンビニへ行ってくることを連絡しようと携帯を取り出すと既にメッセージが一件届いていた。

『もうすぐ着く』

なんといいタイミング。どうせならロビーで彼におかえりと伝えてから外に行こうかな。ロビーに設置されたソファーに腰掛けてぼんやりとオートロックの向こうを眺めていた。
数分経過した頃、マンションに住む人が帰ってきてオートロックが開く。そろそろ彼も帰ってくるだろうか、と外を伺ったところで女性の声が耳に届いた。

「もう少しだけ、ダメかな?」

もしかしてそういういい雰囲気になっている男女二人なのか、と何故か気恥ずかしくなって外からは見えないようにオートロックの陰に隠れた。別に隠れる必要性はなかったのだが、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて云々ともよく言うし。
ああでもこれじゃ入ってきた時に怪しまれてしまう、移動しなければ。そう思って様子を確認した時に私の瞳に映ったのは眩いフラッシュとそれに照らし出される男女二人。女性の方は綺麗な黒髪をさらりと夜風に靡かせていて男性と手を繋いでいる。絵になる人達だな、なんて呑気なことを考えていられたのはここまでだった。その手の先は私が帰りを待つ相手、轟焦凍その人だったのだから。

「……」

思わずキュッと唇を噛んだ。一瞬のことでよくわからなかったけれどあれは確かに焦凍だった。私の知らない女性と手を繋いで帰ってきたのも、居合わせるのが気まずいほどに雰囲気がある会話をしていたのも、彼だったのだ。
唇を噛む歯が震える。その人は誰なのかと今この扉の向こうに出て行って聞く勇気が私にはない。
ついさっきだって五歳からの付き合いがある幼馴染であり高校在学から長年付き合っている私ではなく、高校時代からの友人に今の事務所を出て独立する話を相談していたと知った。彼の中で私はそんなに大きな存在ではないのかも、なんてよくない考えがぐるぐると回り出して途端に動けなくなる。自分の将来をしっかり見据えて動き始めている彼と違って、学生時代から私は全然成長できていないのだ。

「沙耶?どうした?」

地面を見つめていた私に声をかけてくれたのも、やはり焦凍だった。こんな変な所で突っ立っていたのだ、さぞ変に思われていることだろう。慌てて顔を上げると普段と同じ彼がそこにいて、先程まで隣にいた女性は消えていた。それなのにふわりと漂うココナッツの香りが確かに彼女は長時間彼の隣にいたのだと教えてくる。
彼が優しいのはいつものことで、きっとあの黒髪美人とて彼はそういうつもりでここまで連れてきたわけではないだろう。『もうすぐ着く』と私に帰りを知らせているのだから。彼は十中八九何も悪くない。甘くて濃厚な印象を植え付けるココナッツの香りを身に纏っている事以外は。

「ごめん焦凍くん、明日の朝かなり早い集合になっちゃったからもう帰ろうと思って」

明日の仕事の連絡なんて何も来ていない。だけどこのまま部屋に帰り、あれこれと話をする気にはどうしてもなれなかった。ついさっきまでの穏やかな気持ちはどこに消えてしまったのだろう。

「そうか。じゃあ家まで送る」
「ううんここで大丈夫。焦凍くん一日仕事で疲れてるでしょ?たくさん作り置きして冷蔵庫入れといたから好きなの食べてね」
「ああ、ありがとう。いつも悪いな……もう少しちゃんとしねえととは思ってんだけど」

家庭科の授業では教師を恐れさせ、実家の台所も今の家のキッチンも何度となく破壊した彼が自炊できるようになるとは思えない。大量に作っておいてよかった。これで暫くは私が作りに来なくても大丈夫だろう。
話さなければいけない事があるから近い内に顔を合わせたいとは思うものの、彼に気取られない程度まで精神衛生が回復するのには時間を要しそうだから。

「いいよ、焦凍くんはそのままで。あっゴミ袋使い切っちゃったから今度買い足しておいてね」
「わかった。帰り道気をつけろよ」
「うん、それじゃあまたね」

見送ろうとしてくれる彼をエレベーターホールに留めたのは正解だった。マンションを出てすぐの角にはカメラを構えた記者がいたから。

「!」
「プロヒーローのレイズですよね?今出てきたのはショートのマンションからですか?」

わかってるなら聞かないでほしい。何故こういう人はわざわざ傷を抉りたがるのだ。
昔、彼がメディアの前で交際宣言をしてから無名に近かった私もクローズアップされ、ヒーローとしてではなくプロヒーローのショートが付き合っている人として少しばかり名が売れたらしく、こういう手合いの人に捕まるのは初めてのことではない。数年前にエンデヴァーから教わった『ああいう手合いは一を話すと百にして書かれる。言いたいことがあっても何も言うな』との方針に従い一言たりとも発さずに道を進んでタクシーを拾った。

「同じプロヒーローのスノーホワイトのことはどう思ってらっしゃいますか?!」

タクシーの窓越しに届いた名前。きっとそれが先程の彼女の名前なのだろう。自傷癖などないのだが自宅に着くまでの間することもなく、手が勝手にスノーホワイトを検索していた。
スノーホワイトという名前は聞いたことがある。氷雪系の個性を持った女性プロヒーローで、一見モデルかと見間違うほどの美貌とスタイルだと。フラッシュに照らされて見えた艶めかしく綺麗に伸びた黒髪だけとっても、私のそれとはえらい違いだ。睡眠時間の確保を優先してドライヤー使用時に増幅の個性を使っている私なんて、自分のケアにかける時間なんてたかが知れている。それに比べて彼女は──

「……はあ」

私と彼女を比べて悲観したところで何も変わらない。私が彼女のような人に今から変わることはできないし、そもそも彼だって彼女の誘いを断ったからマンションに一人で入ってきたのだ。気にすることはないはずだ。

「レイズ、近々雑誌に記事が出るらしいよ」
「記事ですか?」
「そう。さっき出版社から連絡あってね。うちじゃ止められないから……」

申し訳なさそうにするサイドキックの先輩にピンと来た。そうか、昨日撮られた写真がもう出るのか。仕事の速さだけは見習う所があるのかもしれない。
「わかりました、事務所に迷惑かけてしまったらすみません」メディアが騒ぎ立てるのはエンデヴァー事務所の方なのだろうが、こちらに一人も来ないわけもないだろう。頭を下げると先輩は気にしなくていいよと肩を叩いてパトロールに誘ってくれた。

「今日はお手柄だったね、報告書出しておくから上がっていいよ」
「ありがとうございます、お疲れ様です」

沈んでいた気持ちに反比例するかのように仕事はやる事なす事うまくいった。これで仕事でまで失敗していたら立ち直れなくなっているところだった。
更衣室でコスチュームから私服に着替えながらあと数日して落ち着いたら彼と話をしよう、と考えている矢先に彼から連絡が入った。

『今日仕事終わったら会えるか?』

なんとなく予想はつく。きっと昨日のアレが雑誌に載るとエンデヴァー事務所にも連絡が入ったのだろう。こうなっては話さないわけにもいかないか。

『着替えたらすぐ行くね、どこ行けばいい?』

彼が悪くないことはわかっている。それだけに、たとえこの後私を気遣って謝ったとしてもそんな事に意味はない。別に謝罪がほしいわけでもないのだ。じゃあ何をどうすれば私の気持ちが落ち着くかといわれると解決策が見当たらない。一体彼と何を話せばこの心は落ち着くのだろうか。

「焦凍くん?」
「早く終わったから、来た」

事務所を出てすぐのベンチで彼は待っていてくれていた。もしかして連絡をくれる前からここにいたのか。これで私が今日は会いたくない、なんて答えていたらどうするつもりだったのだろう。やっぱりちょっと抜けた所があるんだよなあ、なんて笑っていると彼は不思議そうに首を傾げていた。

「何か良いことでもあったのか?」
「うん、今日パトロールでね──」
「お話中すみません、プロヒーローのショートとレイズですよね、本日報道された二股報道は事実ですか!?」
「報道を受けてレイズの心境はいかがですか?」

楽しい時間にしようとしていたのに一瞬で空気が変わった。カメラを持つ記者、手帳を広げている取材陣、他にもマイクをこちらに向けている人達。どの人も私達のこと以外に今日報道するニュースがないのかと思うくらいには何とかコメントを取ろうと必死になっている。
こういう時のマスコミは相手にするなとエンデヴァーに教わったものの、ベンチを囲むように立たれては逃げることもできない。これがヒーローに囲まれた敵の気持ちなのかもしれないと考えながらどうすべきか迷っていると、彼が私を庇うように一歩前へと進み出た。

「質問なら俺が受けます」
「では二、三伺います。昨夜スノーホワイトと連れ立って歩いてましたよね?自宅に連れ帰ったのは本当ですか?」
「個性の使い方について相談を受けただけです」
「自宅には?」
「俺一人で帰りました」
「レイズと交際宣言を出されて久しいですが……スノーホワイトとの関係はどうなんですか?レイズには話されましたか?」
「……」

矢継ぎ早に質問されている彼が振り向いて私を見た。何を言おうとしているのだろう。彼がスノーホワイトと関係を持っただとか、そんなことあるはずわけもないけれど、なら何故すぐにないと答えてくれないのか。耳の奥で血の流れる音がいやに大きく聞こえる。初夏だというのに指先がひどく冷たい。早く、早くそんなものはないと言って否定してほしい。
ここで不安そうな顔をしてはマスコミの思う壺だ。それはわかっているのに私一人の力では虚勢を張ることもできやしない。カメラから逃げるように視線を落とすと、彼の手が私の手を取るのが見えた。

「俺には、沙耶以外ありえません」

言うや否や何度も何度もカメラのシャッター音が聞こえた。思わず顔を上げて彼を見つめる私の抜けた表情も映っているのかもしれないが、そんなことはどうだってよかった。
繋いだ手には力が込められていて、彼の言葉にも力強さを感じた。不安に駆られて喧しく騒ぎ立てていた鼓動も元に戻り、彼が握ってくれている手からじんわりと温かさが身体に広がっていく。

「焦凍くん、もう行こう」

彼が私を大事に思ってくれている事は前々から理解していたものの、やはりこうも直接的に言葉にしてもらえると改めてそれを実感できた。
事務所を離れる話を私より先に友人にしていただとか、美人と連れ立って歩いてる所を記事にされただとか、そんな事で一々不安になっている暇があるなら彼ときちんと言葉を交わそう。そして二人でゆっくり過ごして、昨日見れなかった映画を見て、もしどこかで勇気を出せたなら私も言うのだ。私にも彼しかいないと。




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