#6-6

 猛攻にすっかりへたり込むメルティングマンだったが、頭部を掴まれ無理やりにその場に立ち上がらせられたのが分かった。殴られた顔面は、元より判別がつかなかったが更に崩壊しており、殊更酷いものに映った。
 片方の眼球はせり出しており、顔半分は掻きまわされた残飯のようにクチャクチャにされていた。

「笑えよ、畜生っ!!」

 何かが飛び散る粘着質な音を聞いた。汁気を多く含んだ何かを潰した時特有の、実に嫌な音だった。

「や、……めてください、アンネ……」

 返り討ちにされる覚悟で、背後から彼の身体にしがみついた。アンネの荒い呼吸がこちらにまで伝わってきた。ヒイ、ヒイ……とメルティングマンが泣き伏せる声と、アンネの息遣いが重なってこちらの耳に流れ込んできた。

「もう十分です。そいつはとっくに戦意も殺意も喪失しています……それ以上殴り続ければ殺してしまう。我々の目的は殺害ではありません」
「ッ……!」

 メルティングマンはさっきまでの威勢は消え失せ、頭を抱えて亀のようになり震えていた。もはや何の力も持たぬその姿は、哀れを誘った。自分の声がきちんと届いたのか、アンネはしばしあってから、やがて追撃の為に挙げていた拳を静かに戻した。
 だが、その息遣いは未だに激しく乱れており、一度きちんと落ち着かせる必要がありそうだった。

「――、戻りましょう、アンネ。本部には俺が連絡を入れます、アンネはこいつの見張りをお願いします……」

 スミルノフが彼から離れ、落ちていた刀を拾いアンネに差し出した。アンネは、怒りとも悲しみともつかぬ表情と、極端なまでに震える指先でそれを受け取った。

――いや。大丈夫だろう、アンネがこいつの首を撥ねる事はない筈だ……

 スミルノフは刀を手渡した後、スマートフォンを操作する。自分の指先も微かに震えを帯びているのに気付いたが、果たしてこれが『どちら』に対する感情なのか今一つ掴めず眉をしかめた。……いや。恐らく、どちらも、か。




「相手が死ななかったのは幸運だったわね、今回」

 スカーレットは怒鳴りこそしなかったが、恐らくその内心では腸煮えくり返っている、といった具合なのだろう。彼女は毎回そうで、ヒステリックに怒鳴りつけたり汚い言葉で罵るような真似はあまりしない。陰では何を言われているか、たまったものではないが。

「一体、何故命令を忘れてそんな真似を? 貴方らしくないわねアンネ。つゆだくちゃんが生きていたから良かったようなものの、コレで殺していたとしたら……どうなっていたと思う?」
「……申し訳ありませんでした。言い訳をするつもりはありませんが、先に仲間の死を目撃してしまった矢先に相手から挑発をされ、僕も混乱して――僕自身、自分の力に過失していたんです。知略も技もない相手に負かされる筈がないと……」

 敗北を認めるかのようにアンネが述べると、スカーレットは更に深いため息をこれ見よがしに吐いて見せた。

「そうね。そもそも我を忘れて素手で向かっていくとは何事? もし、これで貴方の手が骨折でもしてみなさい。武器も持てなくなり、痛くて仕事が出来ませぇん……なんて寝言でも言うところだったの?」 
「その、スカーレット様……今回の件につきましては俺にも過失があります。傍で見ていた俺も咄嗟に動くべきだったんです、しかしまさかあのような強烈な見た目だとは思わずに後れを取ってしまい……」
「言い訳は一度聞けば十分よ。何にも動じないように、今日まで貴方達柴犬くんどもをしっかり教育してきたつもりだったんだけれども」

 この柴犬くん、というのは護衛達に対するスカーレットによる総称だった。どうでもいい事だが、これが女性の場合は柴犬ちゃん、に変わる。

「……もういいわ、下がりなさい。ハッキリ言って今日の柴犬くんには失望しました。挽回のチャンスがあればしがみついてでもこの汚名を返上する事ね……」

 アンネもスミルノフも、それ以上何か言い訳する気力さえも沸かなかった。
 部屋を後にした後も、しばし沈黙が続いた。アンネは暗い表情のままで、その廊下を歩き続けていた。何か言葉でもかけてやるべきなのかしばし悩んでいると、アンネがその歩行を一度止めた。

「……アンネ?」
「――恐ろしかったんだよ、あの時……」
「?」

 視線を俯けたまま、刀を持つアンネの手が隠す事もせずにはっきりと震えていた。だが、何故なのかそんな彼の姿に妙な居心地の悪さを覚える。庇ってやりたい、何か言葉をかけてやりたい、そう思うのだが同時にアンネが『恐ろしい』などと言葉に出すのは違うと反論したくなる。嘘をつくな、とも思う。

「一刻も早く戦いを終わらせたかった。とにかく怖くて悔しくて……」

 何故だろうか。彼の言う『恐ろしい』には狂気が混ざっているようにしか思えない。彼の言う恐怖というのが、自分が抱く怖さや世間一般の者が思う怖さと違うものに感じるのだ。
 いつかアンネは自分をどういう形かは分からないが、殺してしまう気がする。
 多分彼は殺すという意味もよく理解できない、あやふやなまま、相手の苦痛も理解できないままで、えっと、うん、そうだね、そうだった、とか何とか言いながら、自分を刺すか斬るかそれともさっきのように顔が変形するまで殴られるか――

「……分かっています、とにかく部屋に行ってその手を治療しましょう」

 外は激しく荒れていた。雨の日は、必然的に館を訪れる客も減る。よって、この時間帯は既に娼婦達も部屋にこもっている事が多いと聞いた。
 自室に連れて帰ると、雨の音に紛れて何か歌声のようなものが聞こえてきた。が、気のせいかと思い直し、それよりもと救急キットの仕舞われた棚を探した。

(ああ、疲れているんだな、俺は……)

 あんな事が立て続けに起きたせいで、少し神経が昂っているんだろう。よくある事だ。精神的に疲弊すると、正しい判断もできなくなるし、おかしな声を聴いたりもする。幻を見たり、夢と現実が曖昧になったりもする。
 それらを打ち消すには、大量の薬が一時の自分には必要だった。
 刑務所に入り、それらを強制的に止める事にはなったけれどあの時の感覚は今でも身体がハッキリと覚えている。

「――雨が酷いですね……」

 何となく呟いた言葉に、アンネはベッドに腰かけたままで小さく相槌を打った。彼の前にしゃがみこみ、腫れたその両手を許可なしに自身の手に取った。武骨な男のそれとは違う、ささくれ一つない綺麗な指先だ。そんな手に、痛々しい痕跡がいくつも残っている。

「僕は……僕は時々自分の事が分からなくなるんだ」
「え?」

 その手に包帯を施してやると、アンネがそんな風に話し始めた。ともすれば、独り言のような調子にも聞こえる口ぶりだった。

「自分が誰なのか自信がないんだよ。僕は……そう、僕だ。僕でしかない。アンネ=フィッツジェラルドでしかない筈なのに、僕は……」
「その……、色々あったせいで疲れているんですよ。今日は早めに休まれた方が――」

 歌声は消える事なく、流れ続けていた。
 雨が窓を叩く音と、遠くで響く雷雨と、歌詞のない鼻歌が辺りを支配していた。この歌声はアンネの耳にも聞こえているのか少し気になった。

「君はそんな不安を感じる事ってないのかい? 自分が本当に自分なのか、そういう……、類いの……」
 
 彼の言っている事自体は理解できるのに、何故か今の自分にはアンネがとてつもなく狂った言葉を吐いているように感じられた。

「とにかく今夜はもう、」
「スミルノフ、いつから君は僕に敬語を使うようになった?」
「え?」

 アンネはこちらを見上げながら、スミルノフの手をそっと取った。彼が本当に心の底から不安そうな顔をするものだから、スミルノフも何も言えなくなってしまった。アンネの指先は、やはり依然として震えたままだったから、突き放す事も出来なくなった。

「……君の……、本当の名前が知りたい」
「あ、アンネ……?」

 彼にどこか悍ましいものを覚えながら、同時に酷く安堵して解放されたような気に陥っている自分もいた。スミルノフはこの気持ちが何なのか、何か実態の持たない亡霊めいた気持ちの悪さが引っかかって、しかしアンネの手を振りほどく事も出来なかった。

――あの日。あの時から。初めて彼に出会った時の事を思い起こしながら、スミルノフはアンネの腕に爪を食い込ませていた。互いに血の匂いが染みついたまま、何をしているんだと思ったが、けれどそれが却って心地よく感じられた。
 アンネがどう感じていたのかは分からないが、スミルノフは久しぶりに性欲の匂いのしない接吻を交わした気がした。自分を悶えさせたり、興奮させたり、狂わせたりするようなキスとは少し違っていた。




「……しゃぼん玉、飛んだ」

 スミルノフが聞いていた歌声というのが彼女のものであるかは定かではない。
 しかし、キティーは部屋の中で一人、歌を口ずさみながらぬいぐるみの破れた腹を縫っていた。ガタガタの縫い目、ヘタクソな刺繍。閉じきらなかった布地からはみ出る綿が、何か一瞬だけ零れ落ちた肉片のように見えた。 

「……壊れて……消えた……」

 キティーの哀し気な歌声は、一晩中止む事なく続けられた。