#1-4

 目の前にいるその少女のような容姿をした人物に、記憶は全くない。というか、自分自身が誰なのかもよく分からないのだけど。名前さえも思い出せそうになかった。渡された名刺を見るに、彼は表向き記者を営んでいるようだが、その本当の姿は密偵なのだという。まるでよくある荒唐無稽な設定の映画か、或いは三流の小説にでも出てきそうな設定だなと思った。
 名刺を病衣にしまいつつ、再びアーノルドを見た。

「――俺は何なんだ? 一体」
「……、それはちょいと難しい質問だねぇ」

 少女――否、青年、アーノルドは考え込むようにしてから、その顔を持ち上げた。そもそもこのアーノルドという青年にも、何の覚えもないのだから話は難航だった。どこから尋ねるべきなのか悩み、結局どこから切り崩すべきか分からずため息を吐いた。

「じゃあ質問を変える。俺は、死んだのか?」
「多分。俺もアンタも――本体はもう、死んでるんだと思う」

 こちらが考え込んだ割に、アーノルドの方は幾分か即答だった。少なくとも、自分よりはこの状況について把握していて、且つ飲み込んでいるという事か。

「……なるほど。なら、ここは天国なのか?」
「――むしろ反対だ。ていうか地獄かもね」

 地獄――、半ば苦笑に近い形で笑うアーノルドの顔を見て、ふと思い浮かべたのは先程の見た事も聞いた事もないような化け物の存在だった。……記憶の抜け落ちた自分を信じるのは、もしかしたら間違いなのかもしれないが。

「さっきの化け物は何だ? 俺とお前が倒した、あの物体」

 それから、立ち止まり、少しだけ振り返った。あまりまじまじと見返すのも気が引けて、横たわったままの遺体を顎でぞんざいにしゃくった。アーノルドは何故か、一人納得するように「ふぅん」と呟いた。少々大袈裟な感じで、いささか芝居がかった言い方に感じた。

「アンタには化け物に見えるんだ?」

 続けざまに吐かれた意味深な言葉に肩を竦めた。どういう――と喉にまで込みあげた声を飲み込んだ。アーノルドの目が先程戦っていた時のそれに変わっていた。

「……あれは全部ここの『住人』達だよ」
「住人?」
「そう。完全に正気を失くしてる」

 何がそう思わせるのか決定打はなかったのだが、直感的に『アーノルドは何かを隠している』のだと思った。そしてそんなこちらの疑いを察知したように、アーノルドはすかさず言った。勿

「正直に言って、俺にも分からない事の方が多いんだ。……だからあんまり答えにならないと思う、頼りになんなくてごめん」

 露骨な怪しさなどは抱かせず、アーノルドはついこちらが気を許しそうになるくらい極々自然と返してくる。彼自身の持っている雰囲気がそういうものなのか、それも彼の計算のうちであるのかまでは未だ分析出来そうにない。
 ふと、アーノルドが抱え持っていたショットガンをこちらに向かって差し出してくる。改めて見ても、小柄な彼の腕には余るものだった。

「運び屋さん、アンタもいるだろう? 武器」

 言いながら差し出されたショットガンを見つめ、ようやく聞きたかった事をまず一つ思い出した。差し出されるままに受け取ったショットガンは、先程の発砲のせいか熱を持ったままでまだ随分と温かかった。

「その運び屋さん――ってのは何だ。俺の名前か?」
「ありゃま、それも覚えてないの。……あ、ちょっと待って。弾詰めるよ」

 ちょっと苦笑いに近いような感じで口を緩め、アーノルドは肩を竦めた。アーノルドはスカートのポケットをあさり、弾丸をひとつかみすると慣れた動作で銃身に込めていくのだった。無造作な感じでそれを再び押し付けると、魅せられたようにそれを手にした。

「何かおかしな話だけどさ、そういや俺もアンタの本当の名前を聞いた事がなかった。長年一緒に仕事してたにも関わらずにね。それにアンタ、しょっちゅう言ってたもの。『俺は誰でもない』、ってね」
「……誰でもない」
 
 自分がかつて吐いたらしい言葉。それも勿論思い出せない。口に出して反芻してみたところで何の感情も沸かなかったし、何一つアテになりそうにもなかった。

「そう。名無しの権兵衛、ネームレス」

 アーノルドが何故か勝ち誇ったように言うのが気になったがともかくとして。自分は――そう、名前がないらしい。なら素直にそう名乗るのが一番良さそうだ。今の自分はきっと『誰でもない』のだ。何故かとてもしっくりとくる気がしたし、ちょうどいいと思った。いい意味でも悪い意味でも、ひどくお似合いだった。

「お前の事は?……アーノルド、でいいのか」
「運び屋さんの好きに呼んでくれていいよ。でもまあ、出来れば本名は避けてくれた方が面倒にならなさそうでありがたいけど――」

 言い置いて、アーノルドはややあってから再びその口を開いた。何か閃いたような表情と共に。
 
「あ、そうだ。アンタさっき言ったよね、俺を見た時。魔法少女なんたら〜って。何だっけ」

 興味深そうに聞いて来るアーノルドの仕草や見た目など、もはや完璧に少女のものでしかない。あまりにも隙のない動作に、ついじろじろと観察するような視線を向けてしまう。モルモットを検分するような目つきで彼を見た。変な下心は抜きに、興味本位からであった。

「あっ、何か目つきイヤラしーよ、スケベオヤジめ。ちなみにこの身体も男だから、変な事しようとしてもちょっと待った〜だからね?」

 目ざとく見抜いたかと思えば、そんな風に釘を刺して来たので何故か無性に負かされたような気になる。

「……、じゃあ何でわざわざそんな女のような格好をしている。間違われても仕方ないだろう」
「それだよ、それー。だって女の子に見えたら誰だってちょっとは油断するだろ?」

 ね、と同意を求められて頷くより他ないのだった。それは確かにその通りだ。よもやこんな可憐な少女が、未知の化け物相手に立ち回り物騒なショットガンをぶっ放すなどと誰も予想だにしない。
 先程の幼児向けのアニメーションが、脳内をキラキラと過った。

「『魔法少女ベイビードール』。さっき、病室から出る時に目にしたんだ。……なあ、全く覚えていないんだが、まさか俺はそのアニメにはまっているようなオタクだったのか? 部屋にDVDやアニメの雑誌が置いてあったのを見たんだが」

 その真相を知るのは少し恐ろしい気もするが、少しでも思い出すキッカケになるならと口にしてみる。アーノルドはしばらくきょとんとしていたし、笑い飛ばされでもするかと思ったが、案外真剣に考え込んでくれたようだった。

「え……、いやぁー、それは聞いた事ないけどなぁ? どうなんだろね。アンタ、本当にほとんど自分の事を話してくれなかったからね」

 心なしか少ししんみりとした口調で語り、それからアーノルドは昔を思い出しているのか目を伏せた。そんな風に言われたところで全くピンと来ないのが歯がゆく、もどかしかった。

「でも、それならちょうどいいや。この姿の時はベイビードール、そう名乗らせてもらう事にするよ。――ネームレスとベイビードール、って何かめちゃくちゃクールじゃない? これから二人で何か始められそうだよ。ヒーローってのは大体コンビでいる事が多いからさ、俺はアンタのサイドキックって事で一つ。どう? ここを出てからもまた仕事しようよ、一緒に」
「……一体何を始める気だ、ただでさえ何も分からないんだ。益々混乱させるような事は言わないでくれ」

 クールかどうかはさておきにして、呼び名がある方が何かと融通が利くだろう。全てを思い出すにはまだもう少し、情報が足りないような気がするが。





 無線がまた新たな警報作動を知らせたようだった。一番近くにいた中年上司がうんざりした様子でマイクを取って、了承を伝える。
……私はというと、そんな中でついうとうととしてしまったけれど、けたたましいコール音のせいでぱっちり目が冴えてしまった。大体、台風や強風なんかでの誤作動や、犬猫の侵入なんかが多いから本当に何かが起きている事は実は過去に数えられる程しか直面していなかったりする。勿論、何も起きないに越した事はないんだけどさ。

 で、大儀そうにそれに応じた上司は細野と言う。ひょろりとした背格好で、キノコでも生えてそうなジメジメした風貌。痩せ躯の体つきから大よそ想像できないけど、鋼鉄のような胃袋と下品としか言いようのない肝臓を持ってるんだとか。
 私はなーんか生理的に嫌で、飲みの席でもこの人の近くに座る事はないけれど、一緒に食べ飲みした人は『ザルを超えたワクってのは、ああいうのを言うのね』とか言って笑ってたような。
 そんな細野さんからはいつもアルコールの臭いがぷんぷんとしていた。匂うとか漂うとか、そんな生易しい表現ではなく『垂れている』といった方がしっくりとくるレベルで。

「……病棟の方で何かあったの?」
「さあね、どうせまた誤報じゃない?」

 黙々と事務作業をしている中、ひときわ目を惹く青年がいる。私は彼に気付かれないよう、チラリと視線を送った。

「おい、木崎」
「何ですか」

 細野さんに絡まれて返事する彼の姿を見て、私はまたため息を漏らしていた。
 こんなに完璧な人を初めて見た、というくらい彼の存在は私にとってはひどく美しかった。本社から派遣されてきたという木崎さんは、初めて見た時、私と同い年くらいだと思ったのに何と五つも年上だった。今年三十になるらしいけど、もっとうんと若く見えた。それは決して幼稚だとか子どもっぽいという意味ではなくて、見目がいいんだろうという話だ。きっちりアイロンが行き届いた制服はいつも綺麗で清潔感に溢れていたし、セットされた黒髪も無造作な感じでオシャレだった。

「ちょっとお前見てこい、どうにも一筋縄じゃいかない異常事態みてぇだからな。……それとも管轄外だからと放棄するか、警らってのはぁ?」

 で、細野さんはこの木崎さんが気に食わないらしい。本社にいた人員ってのも好きじゃないらしいし、何より木崎さんのこの性格が合わないんだろう。木崎さんはよく周りの人から『あいつは何考えてっかよくわかんねえなー』なんて言われてるけど、私は毎日観察しているのもあってか、大体分かってきた。彼は女に興味がない。むしろ、人間に興味がない。飲みの席でもそうだし、上司らが「今日は俺のオゴリでキャバクラいくぞ〜」なんて提案したらさっさと断って帰ってしまう事で有名だった。家に帰って何してんの? ゲームでもすんの? オタクなの? 
 初めは不思議だったけど、なんにも不思議じゃなかった。木崎さんは別に、誰とも触れ合いを求めていないし、興味のない事には深入りしないだけなんだろう。こっちが心配になるくらい、彼は人というものに興味を持たない。少なくとも、ここに存在している人間には誰一人として興味を示さない。なんていうか、世間というか社会というか、会社や組織、そして仕事そのものを馬鹿にしていたり軽蔑している人はたまにいる。けど、彼の場合はもっと大きな尺度で目に見える世界そのものを見下している。

 って、いやいや。いやいやいや。上司相手に、そんな見下した目ぇしてていいんかい? ようわかんないけど出世とかさ、大丈夫なの? けど、そういった疑問はいつしか興味へと変わり、私が木崎さんへ恋慕の情を抱くのも早かったように思う。

「ああ、はい。分かりました。行ってきますね」

 いつものように唇の端を持ち上げて、細野さんの嫌味をやり過ごす木崎さんを見て私はまた胸が高鳴った。なんて素敵なんだろう。この人。どうしてこの人はこんなにも強くいられるんだろう、そして私は何でこんなつまらない男に惹かれるんだろう。特に反論するでもなく、動じた様子もなく、木崎さんは書類を一旦まとめると椅子から立ち上がった。

 このように、彼はいつも何をしても応えないのだから見ている方もいっそ痛快だ。計算なのか天然なのか、いや天然なんだろうなぁ。
 
「おい木崎」
「ん?」

 事務所を出かけた木崎さんを呼び止めたかと思うと、細野さんは声を潜めながらその足を進めてゆく。背丈としては細野さんの方が劣るものの、持ち前の威圧感のせいなのかさほど身長差を感じさせないのが不思議だった。

(何て言ってるんだろう、聞こえないなぁ)

 私は持てる限りの聴力を持ち寄って、頑張って耳を澄ませたのだけど全然ダメだった。気になる。気になる。気になる。木崎さんがどんな顔をしているのかも、見たかったのに。

「……お前、ちょろちょろと何嗅ぎまわってんのか知らねぇけどな。変な考えは起こすもんじゃねえぞ」
「……?」

 細野さんは何だかそこでイラきしたように、一歩踏み出しているのが分かった。

「テメェの叔父みてぇになりたくなけりゃあな、大人しくしとけってんだよ」

 声を荒げたみたいだったけれど、具体的に何と言ったのかは定かではなかった。なかったけれど、木崎さんはやっぱり怒鳴られてもまたいつもの調子で「はあ」とか「そうですね」とか今一つピンと来ていないような調子で返すだけだ。

 そもそも木崎さんは、この細野さんと同じ土俵に立っていない。立っている場所が全く違う。彼はこれからもずっとそうやって、細野さんや私たちのいる場所には降りて来る事はないんだろう。