#2−1

 陽に焼けて所々白みがかった階段を降り、年季の入った壁を一瞥する。ドアを開けてリビングへと入ると、茶の間のテレビからは朝のニュースが奏でるメロディーが流れてきた。母は馬鹿げた芸能情報やエンターテイメントの類いがとにかく大嫌いで、毎朝流れてくるのは決まってこの真面目な報道番組だけだ。
 小学生の時は、周りの話についていくために『めざましテレビ』が見たくてしょうがなかったのだが朝から母の機嫌を損ねるわけにはいかず無言でそれを受け入れていた。母はキッチンに立ち、フライパンを洗っているようだった。テーブルにはいつものように何の味付けもされていないシンプルな目玉焼きと、それから鮭の切り身と、伏せた状態のご飯茶碗が置かれていた。

「泉水、いるんならちゃんと挨拶しなさい」

 食器が触れ合う音を掻い潜るようにしながら、母の声がこちらの耳に届く。朝食に目を奪われていて、すっかり夢中になっていた。
 テーブルでは既に姉が着席し、コーヒーか或いは紅茶か、取っ手の点いたカップを持ち静かに飲んでいるのが分かった。こんな時、泉水は決まって口答えする事もなく只々黙って席に座る。母の気持ちは汲んでいるつもりだ。……分かっている。誰が悪いわけでもない。みんな色々あるのだ。そう、分かっている。毎朝思う事だったのだが、食欲はなく、食卓というか家全体を流れる湿気だけで腹がいっぱいになりそうだった。

「お母さん、わたし今日帰るの遅いから」

 沈黙を掻い潜るように、姉の声が響いた。

「櫻子、もう行くの?」
「うん。私のクラスの決まりで、今月から朝から掃除があるみたいで。――ごちそうさま」

 姉の櫻子は、泉水よりも三十分程早く起きて行動する。言われなくとも櫻子は食器を手早くまとめると、卒のない仕草でそれをキッチンへと運んだ。スクールバッグを片手に、櫻子はリビングを後にした。こちらには見向きもしなかった。
 容姿端麗、成績優秀、どこからどう見ても完璧な優等生。いい意味で姉を形容する言葉はいくつだって浮かぶ。櫻子は、弟の目から見ても美しくて聡明な女性に映った。だけど同年代の少女達とは、明確な温度差があった。もっと家族と満足なコミュニケーションが取れていれば、自慢の姉として彼女を見せびらかしていたかもしれない。

 入れ替わるよう席に着くと、母が特に何も言わずに椀に味噌汁とご飯をよそってくれた。何か言葉を求めているわけでもないので、同じく黙ったままそれを受ける。櫻子の時とは違い、母が泉水に積極的に質問する事は普段からあまりない。別にそれでも良かった。悪意があるわけじゃないのだろう。

 食欲が沸いてくるでもなく、作業のように食事を終えると泉水も同じくバッグを持って立ち上がった。

「行ってきます」

 母の返答があったかどうかは、あまり重要ですらなかった。母の方はあまり見ないようにして、泉水はリビングの戸を閉めた――、

「おいおい、泉水。お前がそんな態度でどうする? そんなんだからいつまでたってもお前は先に進めないんだ。このままでいいのかい?」
「……そんなの分かってるよ、シーザー」

 たしなめるような声の主は、自分よりもうんと低い背丈のクマのぬいぐるみだ。シーザーは幼い頃からずっと傍にいる。彼は二足歩行で歩き、人間と同じようにものを話し、それから泉水以外の人間には見えない。見えない? 違う、見えないんじゃない。『視覚として認識できない』。これだ、この方がしっくりくる。
 シーザーはいつから自分の傍にいたのだろうか。思い返してみると、シーザーとの記憶はあの日の遊園地で父を……した辺りでぴったりと止まる。それ以来の付き合いという事なんだろう。気付くと彼は自分の隣に寄り添うように、呼吸を合わせるように、いつの間にか存在していたのだ。

 スニーカーの紐靴を結び、玄関を出、マンションの狭い廊下を歩く。

「けどそれが出来ないから今の俺がいるんじゃないか? 俺が君とこうやってお話しできるのは、俺が甲斐性なしだからでもあるんだ」
「まあ、それを言われたら俺ちゃんだってぐうの音も出ないってなもんよ。感謝してるよ、相棒。俺ちゃんを生んでくれてありがとうよ」
「分かればいいよ。……あ、そうだ、ねえシーザー。それよりも俺、最近よく思う事があるんだけどね」
「何だい。唐突に?」
「……、母さんさ、時々だけど……一人で夜、リビングで泣いてるんだ。これまでずっと父さんの事を思い出して泣いているのかと考えていたけど、もしかしたら違うんじゃないか、って……」
「違う? 何で? それは一体どういう意味だい」
「うん――。もしかしたらだけど、俺の事がイヤで泣いてるんじゃないかって……ずっと思ってるんだ。本当は俺の事が邪魔で邪魔でしょうがないのに、そんな事言えるわけもないから苦しんでるんじゃないのかなぁって……あの涙の意味は、ひょっとしてそういう事なんじゃないのかなって……」
「まさか! 何だってまたそんな考えを拾ってきたんだい、相棒? その心を聞かせておくれよ。何かに影響されたんだとしたら俺はそれを全否定するよ」
「ううん、俺の勝手な妄想だから別に決定打とかはないんだけど……何となくだよ。何となく、ね」

 そうやって会話しながらエレベーターの前に来ると、背広姿の男性と目が合った。ええとこの人は確か――、情報を整理する。隣人……彼は隣の部屋の住人だ、最近越してきたばかりの新婚だった筈。名前は、そう、『イトウ』さんといった。奥さんは駅前のパン屋で働いているんじゃなかったかな? あれ、どうだったかな、駅前じゃなくてもっと手前側だったか、いやもしかしたらパン屋って情報そのものが違っているのかも。思い出せない。

「あ、おはようございます」
「!」

 思いがけず会釈され、やんわりと微笑まれ、泉水は大いに戸惑い慌てて目を逸らした。挨拶? 俺は今挨拶されたのか? そうか、そうだよな。だったら普通に返せばいいだけじゃないか。別に何か聞かれたわけじゃないし俺もやましい事とかそんなの全然ないんだから別に別に別に、――……

「お、おはよう、ございま……す……」

 スクールバッグの紐を両手で握り締めながら、泉水が精一杯答えると、向こうもすぐさま前に向き直った。特に訝る様子はなかったが、内心では(さっきからこの子、一体誰と話してるんだ?)と問いかけたい気持ちでいっぱいではあった。
 小首を傾げるのは心の中だけにしておき、彼は気に留めずにエレベーターに乗り込んだ。

「? 乗らないんですか?」
「……、い、いい、です……」

 そう言ったきり、泉水はそそくさと背を向けてしまった。はあ、そうですか……と相槌の声の後にエレベーターの扉が閉まる音が聞こえてきた。――行った。行ってくれたか。

「泉水。先に行ったみたいだぞ、隣人」
「う、うん……そうみたいだね」

 シーザーの声に、泉水が恐る恐るといった具合に振り返る。

「どうする? 次乗るか?」
「――、駄目だ、乗れない……」
「何でだい?」
「だって……いるんだよ、あいつらが」

 恐々とした様子のまま、泉水は言葉を震わせながら言った。幼い頃から――、いや。明確に言って、あの日。
 姉と、真夏の遊園地で、酔いつぶれた父を置き去りにしたあの日からだ。自分の周りには得体のしれない亡霊達がうろついていた。違う、亡霊かどうかは知らないのだ。しかしどう形容すべきなのか分からないし、こう呼ぶのが一番しっくりくる気がした。

「ええ? そんなものどこにいるんだい? なぁ泉水、俺ちゃんのガラスでできた目ん玉には映らないようなんだが」
「と、扉の前に」

 どこからともなく、オルゴールの音が聞こえてくる。それは――あの忌まわしい記憶の残る遊園地で流れていたものと同じだった。首が折れ、頭の割れた父の遺体を見た事をあっという間に思い出した。やめてくれ! 思わず耳を塞いで、壁に背を預ける。泉水はその場に蹲ると、逃れるようにして後ずさったがそれ以上は物理的に不可能だと知った。背中がのけぞる。嫌な汗が出る。途端に冷気に包まれる。ぞっとするような感覚……いつの間にかエレベーターに立っていたのは、見知らぬ少女だった。
 髪の長い少女は半身だけゆっくりと振り返ると、確かにこちらを見ている。何故か彼女は口元を多い隠すよう、片手を当てている。

「……やめてくれよ、俺は――俺はただ――」

 許しを乞うようにして、喘ぎ喘ぎに泉水が言った。呼吸の合間を拭うような声が、自我のない少女に届いたかどうかは知らない。只……祈るようにして泉水は目を閉じ、目の前の恐怖を必死にかき消そうとした。

(何もいない、何もいない、何もいない、何もいない、何もいない、何もいない、何もいない……!)

 あいつらに何が出来るんだ。所詮は実体のない存在なんだ。所詮は――がちがちと歯の音が合わずに震え出した。気付くと謝っていた。エレベーターの止まる音が鳴り響く。泉水にとっては地獄へ案内するための音色に聞こえていた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「――泉水くん、どうしたの?」

 はっ、と顔を上げると同じ階の見慣れた主婦達がそこにいた。二人ともよく見知った顔だ、父が死ぬ前からずっと付き合いのある人達だった。ゴミ捨てに行く途中ででも出会ったのだろう、二人は驚いた顔でこちらを見つめている。

「顔が真っ青よ、具合でも悪いの……?」

 せっかく心配してくれているというのにも関わらず、泉水はその場から立ち上がると「すいません」とろくな挨拶もせずに駆け出していた。エレベーターは使わずに、階段で下まで行く事にした。……はじめっからそうすりゃあこんな思いなんかしなかったのに!

「……変わった子よねえ、泉水君」
「ええ。お姉ちゃんと揃って、成績はいいみたいなんだけどね」
「お姉さんの方はとてもしっかりしていていい子よねぇ〜、櫻子ちゃん。明るくて美人さんだし――」
「まあ、佐竹さんとこは奥さんも綺麗だものねえ。早いうちから結婚したみたいだけどそれが良かったのかしら?」
「櫻子ちゃん、うちの娘の一つ上の学年なんだけど学校が違うのに有名人扱いよ。女優かモデルさんみたいだってみんなに言われてるんだとか。男の子達なんてみーんな夢中だっていう話じゃない、生徒どころか男性教師まで鼻の下伸ばしてるなんていうんだからサ」

 おほほほ、やだぁ、何それぇ。おほほ……彼女達の声は、夢中で駆け抜けてきた泉水の耳には届いていなかったけれど、ともかくまあ自分がこうやって噂されているのは何となく知っていた。
 階段を駆け抜け、ゼイゼイと肩で息を吐く泉水の傍にはシーザーがトコトコと愛らしくその短い手足を動かして二足歩行でついてくるのであった。

「オイオイ泉水、もうこんな時間だぜ。変な化け物なんかにかまけてるから」
「……ほ・本当だ、急がなきゃ。でもシーザー、俺は別にかまけてなんかいないよ。あいつらが場所を選ばずにやってくるのが悪いんだ……」

――そうだ。学校に行かなきゃ。行きたくはないけど、自分に選択肢などない事は知っていたから、行くよりほかないのだ。最低限でも高校くらいは出ておかなきゃ、もっともっと選択できる事が少なくなってしまう。これ以上の地獄にだけは住みたくないし、それに高校を卒業して、自分も家を出たいんだ。だってそうすれば何か変わるかもしれないから。