無花果のはなし



 別に言い訳のつもりではないのだけれど、こう見えても育ち盛りなのでレイシフト帰りは決まって空腹を感じる。育ち盛りなので。

「帰ったかマスター」

 食堂に行くと褐色の男がキッチンから顔を覗かせた。

「ただいま。……あのー、お腹空いちゃって」
「だろうと思ったよ。食欲だけは一人前だからな、君」
「む」

 男は風のようにふとわらって、なにやらきゃっきゃとはしゃいでいるテーブルに視線を向けた。
 アルテミスとマリーだ。
 異色の組み合わせではあるが、なにより “異色” とかこれっぽちも気にしないふたりであるため特別不思議はない。

「行ってみるといい。彼女たちも小腹が空いたと言ってな。マスターが来たら分け与えるように伝えてある」

 男はまた縄張りへと戻っていった。
 うーん、こうかな? と試行錯誤しながら、それじゃあダメよ女神さま! そんなの、ほら! とまたケラケラ笑い声。その鈴の音のような軽やかさにこちらの足取りも踊るけれど、アルテミスの手にあるものを目にすればその歩みは止まることになる。
 それは見覚えのある錆色だった。


 思えば彼は、よく困ったようにわらっていた。








 2016年9月X日

 ちょっとした訓練にと行ったレイシフトで、ちょっとしたハプニングが起きた。それは小なりとも異空間にとんだ戦闘員一行に、カルデアからの物資が届かなくなるというもの。つまり物資提供機能のエラー。
 と言っても実害は少なく、精々わたしの空腹が懸念される程度だったためレイシフトは続行……いや、わたしにとってはなかなか大問題なんだけどと訴えると、エルキドゥは「それじゃあまずは食糧の確保からだね、もちろんわかるとも」と言った。
 本日のメンバーはエルキドゥ、マーリン、ロビン、そしてランスロットの(おおよそ)男所帯。飾り気のない鎧を纏った英霊もいれば、辺り構わず花を撒き散らしながら進む英霊もいる。
 そんな感じで今日もわたしたちカルデア一行は、個性という凶器を振り回しつつ進むのであった。


「マスター、君は確か牛の身が好きだったね?」
「言い方が生々しいな。牛肉ね。うん、好き」
「もしもの場合は少し余分に魔力を回してほしい。牛の真似事くらいなら僕にだってできるからね」
「生々しいな〜〜」
「いやはや、この際声を大にして言わせてもらうけれどね! つくづくカルデアはサービスが悪い!」
「また突然何を」
「まったく、グランドキャスターもなめられたものだよ。これでも私、わざわざ重い体を起こして遠路遥々出張してきているのだけど」
「はあ」
「物資提供がなんちゃらではなくてだね、 “カルデアからの魔力供給が途切れた…!” ってやつ。よく見かけるじゃあないか! お決まりのアレだよアレ! いいなあ、魔力供給!」
「メタっぽい発言はよしてくださいよ!」
「いやだね〜〜! 私もマスターに魔力供給されたい〜〜!」
「ランスロット」
「Arrrrrrrrr!」
「ちょ、待って待って、冗談だってばランスロットくん! あいたっ! 痛い! とても痛い!」
「まあまあ、落ち着きましょうやお二方。とにかく行きましょう。このマスター、空腹になるとす〜〜〜〜ぐ機嫌損ねますんで」
「こんなに悪意しか感じられない言い方ある?」
「ロビンくん! 助けてくれ! 頼む! 死んじゃう私!」

 ちんどん屋も恐れをなす騒がしさで進んで行くと、開けた平地に小さな集落が見えた。幸か不幸か無人の廃屋が集まったそこを拠点とし、とにかく食料確保へと洒落込むことにする。

 働かざる者食うべからず。
 果実や木の実を探しに小山へ登ったのはわたしとランスロット。案外穏やかな芝生の一本道を進み、たどり着いた山頂には横広がりの木が3本並んでいた。どれもまだお世辞にも立派とは言えなくて、どこか心もとなく風に吹かれている。
 木になりた実はどれも錆色に染まっていた。

「なんの実だろう、これ。食べれそうな感じもするけど」
「Ur…?」
「うん、試しにひとつ採ってみよう」

 ランスロットはそう高くない位置にある実をひとつもいだ。わたされたそれは思ったよりも柔い。実に鼻を近づける。無臭。
 つづいてピピーっと場違いの機械音は、案の定荒い映像のドクターが現れた合図だった。

「やあ立香ちゃん、調子はどうだい?」

 手があいたから覗きにきたぞうとにへら笑い。しかしこの男、現時点でカルデアの最高責任者である。「ボクだってやるときはやる男だぞう!」と豪語するけれど、今のところその兆候は見られない。むしろ、いつもここぞというとき限って頼りにならない感じがする。これからに期待である。
 ドクターはわたしの手元にズームしたようだ。

「おや? どうしたんだい、それ」
「とりあえず食料を確保しようってことになってね。エルキドゥとロビンは川に行ってて、マーリンは留守番してる。これ食べれるかなあ。ドクターのほうでわかったりします?」
「わかるもなにも。無花果だよ、キミが持っているそれ」

 いちじく。
 馴染みのあるものではないけれど、もちろん聞いたことくらいはある。
 わたしは「いちじく」をまじまじと見下ろす。見るのも触れるのも初めてだったけれど、果物というには少し毒々しい感じもする。

「とにかく食べても平気ってわけね」
「もちろん。ヘルシーだし、医者としてもおすすめできるよ。無論好き嫌いはあるけどね」
「もいでいこう。ランス、手伝ってくれる?」
「Urr」

 そうと決まればと唸るように返事をして、ランスロットは兜を脱いだ。

「お! 急にどうした!」
「………」

 輪郭の不透明な本体が現れる。辛うじて藤色の残像のようなものは確認できるが、それだけだ。
 わざわざご丁寧に全身を鎧で囲っているくらいなので、そう見られたくない何かしらがあるのやもと思っていたが、彼はわりとすぐ脱ぐ。
 どうやら暑いのが苦手なのらしい。
 最初こそ困惑したけれど、慣れればどうってことはない。
 ランスロットは開口部分を上にして兜を抱えた。

「……もしかしてだけど、ここに採った無花果、入れてもいいよってことだったりする?」
「……!(ぐっと親指を上げる仕草)」

 わたしたちは手分けをして無花果の収穫を始めた。わたしは低いところになりる無花果を。その上をランスロットが。

「ふたりとも、あまり熟していないのはだめだよ。若い無花果は結構青臭いからね。無花果は熟してれば熟してるほどいいんだ」
「だってさ、ランス」
「……」
「わかったって」
「不安だなあ」

 兜はすぐに一杯になり、血溜まり色が溢れた。
 木の上の方にはまだ少し取りそこねている実がある。あといくつかならまだ兜にも余りがあるし、わたしが手で持って戻ったっていい。

「ランスロット、あと少し。上の方にもなりてるから採ってくれる?」

 ランスロットは首を振った。縦ではなく、横に。

「え、だめ? どうして?」
「……我々………お尋ね者……根こそぎ……不可………」

 ランスロットの物々しい肩部分に小鳥が止まった。
 なるほど。「お尋ね者の自分たちが丸取りしてしまっては悪いだろう」、というわけか。そのうちここの住人たちがつつきに来るからと。

「うん、ありがとうランス」

 君は確かにいい騎士だ。



 ランスロットは無花果が並々入った兜をわたしに託し、「自分はもう少し周辺を探索してくるから、あなたは無花果と一緒にここで待っていてくれ」と言った。多分。
 了解の意を伝えると、ランスロットはキレ良く踵を返し、木の茂る方面へと走って行った。わたしはその場の芝生に腰を下ろし、一息つく。
 幸い頂上には無花果の木以外に目立ったものはなく視界は良好、下の集落も見通せる。
 兜から、無花果の実がひとつこぼれた。

「おっと」

 掴んだそれを改めてながめる。
 やっぱり見かけよりもずっと柔い。どっちが頭でどっちが尻なのかもわからない。ツルツルはしていない、かといってザラザラもしていない。そういうところが自然物なのだろう。

「無花果は不老長寿の果物としても知られていてね」

 映像の中でドクターはずずっとお茶をすすった。
 随分とおくつろぎのようだが、また茶菓子にゴマ饅頭とか食べてたりしたら末代まで恨む。

「不老長寿?」
「単なる言い伝えだよ。栄養価が高いってこと。だけど大昔から食べられてきたってのは事実だ。実際、神話にもよく出てくるよ」
「神話?これが?」

 何度も言うが、お世辞にも花のある見てくれはしていない果実だ。

「例えばそうだなあ。うん、創世記とか。旧約聖書の。アダムとイブって言えば思い当たるかい?」
「聞いたことある。1番最初のヒトでしたっけ」
「そう。古代イスラエルの唯一神、ヤハウェによって生み出されて、エデンの園で何のしがらみもなく暮らしていたアダムとイブは、なんやかんやで禁断の果実を食べてしまう。結局それが人類史幕開けのきっかけとなるわけだが、その禁断の果実というのが、」
「これなの?」
「まあ諸説あるけどね。無花果っていう説もあるんだって話さ」

 相変わらず、間抜け顔でお茶をすする男にしては、知識の引き出しがいい仕事をする。
 確かに、言われてみれば何処と無く貫禄のある雰囲気を漂わせる果物だ。おそらく、世の果物にとって貫禄なんてものは、最も必要でないもののひとつなのだろうけれど。
 だが考えようによっては無花果だって、特異点のひとつと言えるのかもしれない。

「もしかして立香ちゃん、食べたことない?」
「うん。見るのも初めて」
「うわー怖い! これだから現代っ子は! いやまあ、とにかく食べてごらん。ひとつくらい頂いたってバチは当たらないだろう」
「ドクターは食べたことある?」

 ドクターは突拍子もないことを訊かれたかのように目を丸くした。
 頭上で鳥が鳴いた。
 なにか変なことを尋ねただろうか。

「は、ハハハ……え? ボクかい?」
「えっと、うん」

 やっぱり狼狽えるように言うドクターは、少し考えてから、困ったようにわらった。

「ボクはどうだったかな。よく覚えてないけど、そりゃちょっとは食べたんじゃないかな、多分。きっと。でもここに来てからは思い出したこともなかったから、特別好物ってわけでもないよ」
「ふーん?」
「つ、つまらない話だったね! ごめん! いや、忘れてくれ。無花果のことはエルキドゥくんの方が詳しいんじゃないかな? ウルクでは常備されていたらしいから」

 ドクターはまた茶をずずっとすする。
 この人はたまに、自分の主観による発言をいやに卑下することがあって、それがなんとなく不思議だ。
 とにかく食べてみてからだとドクターにうながされるまま、わたしは無花果を持ち直した。

「無花果の皮を剥くには少しコツが必要でね」

 確かに柔らかいので安定感こそないが、それでも血溜まり色の皮はゆるゆると剥かれ、中から出てきたのは凡そ食べ物とは思えない質感をした白。皮が剥がれて余計に脆くなったその実は、気をつけて持っていないとすぐに崩れてしまいそうだ。

「じゃあ、いただきます」

 ある程度観察をした結果、周りの白を見ただけでわかることはないと決断。横から大きくかじりつく。

「いつ見ても清々しい食べっぷりだなあ。初めて食べるものをこうも大胆に。もはや才能だよ、立香ちゃん」

 なぜかドクターが喜んでいる。
 チクチクとした歯ごたえ。甘い、だけではない。酸っぱくもない。辛くもない。苦くもないし、しょっぱくもない。だから多分、甘いんだろうけど。

「どうだい?」
「……なるほど」

 そうか、これが自然の味なのか。
 押しつけのないほのかな甘さがやさしい。周りにある緑が、山が、空が、風が、その気配が急に主張を強め、近づいてきた気がする。

「美味しい?」
「うん、とても美味しい」
「そうか、うん。それは良かった」

 ドクターがわらったので、わたしもわらった。
 中の実はまた、信じられないほど鮮やかな朱をしているんだなあ。目がチカチカするほど赤いのに、瑞々しくて、すぐにふわっと消えてしまう。
 わたしはまた実を口に含み、空を見上げた。
 終わりのみえない、あまりにも広い空だった。そのまま眼下には例の集落をはじめ、わたしたちの住む世界が広がっている。
 上の方からは、先ほど採り残した無花果をつついている小鳥の鳴き声が聞こえた。
 風が横に勢いよく駆けていって、わたしは息を飲む。
 この壮大な景色に、なぜ今の今まで気づかなかったのだろう。
 それは果てしなく続く、途方もない世界。どうしようもない世界。
 きっとだから世界なのだ。

「いい景色だなあ。見える? ドクター」
「ん?どれどれ。……ああ本当。いつも見てる雪景色とはまた違った爽快感があるね。風の心地がこちらにまで伝わってくるよ」

 向かいの映像に映るドクターは、わたしの後ろの方を見ていた。わたしの見ている世界が、別のモニターに映し出されているのだろう。

「ナーサリーたちも連れてくればよかった。一昨日、子供たちとも○のけ姫を観てね」
「また渋いね」
「今ごろアステリオスが捕まってるよ。白いもふもふがモロに似てるんだってさ」
「ハハ、お気の毒に。これで1週間はべったりだぞ」

 ドクターは言葉とは別に柔らかくわらって、何故か頬を淡く染めた。その頬が無性に愛しくなってどうしようもなく触れたくなったけれど、いま彼とわたしの間には物理では説明できないほどの距離がある。

「広いなあ、なにもかも。なんだか自分がとても小さいものに感じてしまいますね。いま見てる景色とか、今朝食べたコロッケのこととか、一昨日なくしちゃったシュシュのこととか、そういうもの全部。この世界と比べたら、本当にちっぽけなものなんだなあって」

 腕を伸ばして空を掴んだ。手は空気を切った。案の定掴めたものはなにもなかった。
 ドクターは一瞬あからさまにむっとしたけれど、でもすぐに「やっぱりキミはキミだなあ」と困ったようにわらった。

「立香ちゃんはさ、朝から結構しっかりしたもの食べるよね。感心するよ」
「わたし、コロッケはジャガイモ感たっぷりのやつが好きなんです」
「オーケー、データに書き加えておく。けどそう自分に自嘲的になるのはよくないぞ」

「そもそも、偉大な大自然様なんかと比べようとするのが、すでにお門違いなんだ」とドクターはつけ加えた。ドクターにしては的を射たことを言うなと思う。
 視線を山の麓に落とすと、かすかにエルキドゥの翠が見えた。その隣にはきっと、しっかりと木々に溶け込んでいるロビンフッド。村の廃屋ではマーリンが待っていて、そろそろ火の下準備の煙が上がってくる頃だ。
 あそこがわたしの世界。

「ありきたりな人生だけどさ、でも、この世界でキミに会えて本当によかった」
「うん?」
「ってボクはいま思ってるけど、やっぱりそれだけじゃダメかな」

 あ、また。
 ドクターは眉を八の字にして、やっぱり困ったようにわらった。聞いてるこちらが泣きたくなるくらいに、途方もなく優しい声音で。
 そんなことないよ。そんなことない。むしろそれ以上のものなんてわたしにはないのに。
 ドクターはたまにずるい。
 ドクターとわたしは今、時空をも越えた限りなく遠い場所で、 “まったく同じ景色” を見ているんだと思った。
 いまわたしの隣には確かにドクターがいる。同じ景色を、きっと同じ温度で、願わくば同じ風に吹かれながら。*
 だから、もうこれで充分だなあとか思ったりするわけだ。
 ちょっぴり潤んだ瞳をふっ切りたいのもあって、思いっきり首を振った。ぶんぶんと音が鳴った。
 ドクターはいつものように首の後ろに手をあてて、結局また困ったようにわらうのだ。

「コダマの真似かい?」

 違うに決まってる。








「例えばの話だけどね。もし聖杯を手に入れたとして、立香ちゃんならどうする?」

「聖杯? また急だなあ。想像もできないです」

「まあ確かに。 “なんでも叶う” っていうのは考えものだよな。いきすぎた自由は拘束と同義だ。うーん、それじゃあ、願い事はあるかい?」

「願い事。たとえば?」

「そうだな。今のキミだったら “世界を救いたい”、とか? ……いいや、ごめん。忘れてくれ。本当に例えばの話だから」

「う〜〜ん、いや〜〜。申し訳ないけどわたし、ドクターが思ってるほどできた人間じゃないですよ。別に世界を救うために戦ってるわけじゃないし…」

「ボク、キミのそういうところ嫌いじゃないけどね! うん! このデータは極秘情報扱い!」

「ヒヒッ、どうも助かります」

「(ヒヒ?)うむ。でもそれじゃあ、キミはどうしてこの計画に協力してくれたんだい? あの状況で、なぜこの選択を?」

「強いて言うなら死にたくなかったからです」

「わかる〜〜」

「あの時は本能が死にたくないって叫んでたから……でもそれは結局きっかけじゃないですか。今わたしが戦う理由はみんなと生きたくなったからだよ。みんなと生きようとしたら、世界を救うことになっちゃった。ハハッ」

「うん。ハハ」

「落ち着いたら、次はドクターも一緒に無花果食べよう。一緒に食べたら、今度は忘れないよ。忘れられないくらい美味しいよ」

「そっか、そうだな。楽しみだ」

「で、ちなみにドクターの願い事はなんですか?」

「ボクかい? ボク…ボクは……、僕の願いは──」









 思えば彼は、よく困ったようにわらっていた。


「あ、おかえりマスター!」
「帰っていたのね! お疲れでしょ? ほらほら、こちらへお掛けになって」

 アルテミスとマリーにうながされ、ふたりの向かいに腰かけた。
 やはりふたりは無花果に四苦八苦しているようだ。マリーが「無花果が無理ならプラムを食べればいいわ」と言って、アルテミスはケラケラ笑った。

「無花果の皮を剥くのには少しコツが必要でね」
「通りでうまくいかないわけだわ」
「もうイヤー! マスターやって!」

 ギリシャの女神様が無花果ごときに音を上げている様子にはいささか目を細めるが(弟子たちにでも剥かせてきたのだろう)、麗しの王妃様がお預けを食らっている様は情に訴えるものがある。
 わたしは彼女らに無花果のノウハウを伝え、自室に戻ろうと椅子を引いた。

「お待ちになってマスター。あなたの分もあるのよ」
「あ、そうだったー。はいマスター、もういっこ」

 両手に無花果を持たされる。
 相も変わらず毒々しい見た目に、今にも崩れてしまいそうな柔さ。脆く、脆く、どこまでも自然物のくせにあの時となにも変わらない。
 思い出すのは青い空と広い世界と、困ったようにわらうあの男。

 目の焦点が合わなくなって、どこを見ればいいのかもわからなくなって、それでも血溜まりの色だけが視界に滲んだ。





 その様子をひっそりとうかがっていたのは、かつて湖の騎士と呼ばれたランスロットであった。
いつも通り藤色の靄を発生させて、食堂の隅にたたずんでいる。

「気になるのかい?」

 声をかけたのは、なにかと縁のある魔術師マーリン。
嘘っぽさを倍増させるペテン師のようなマントを浮遊させながら、いつの間にかランスロットの横に立っていた。必要以上に濃厚な香りが漂う。

「ふーん、そう。君、見ていたのだね、あのとき」
 
 魔術師は細めた横目で騎士を見た。

「盗み見は感心しないなあ。なんて、私の言える台詞ではないか。まあそうだね。ある意味では君も、アダムとイブの軌跡に巻き込まれたひとりであるわけだし」
「………」
「無論、あのふたりが “最初のアダムとイブ” 改め “最後のアダムとイブ” になる可能性はゼロではなかった。事実、遥か彼方の世界線には、彼女たちが “人類の最期” となる結末も存在するようにね」

 いつものことだが、この男の言うことはよくわからない。
 今度は騎士が横目で魔術師を見る番だった。すべての運命を見続けてきた魔術師は遠い目をしていた。
 なにを、見ているのだろうか。

「……うん? 気に入らないかい? それとも、哀しい?」
「………」
「人間とはつくづく難儀な生き物だ。幸せなバッドエンドでも、悲しいハッピーエンドでも、性懲りもなく涙を流す」
「………………Urrrr……………」
「まあまあ! そんなに難しい顔をすることはないじゃないか!」

 簡単なことだよ。あのろくでなしは少女を信じた。それだけの話さ。
 魔術師は消えていった。








「マスター? ねえねえ、マスター」
「まあ、気分が悪いのかしら」

 ふたりは無花果を貪りながらこちらを見ていた。一度大きく息を吸って、吐く息とともに平気だと伝えると、ふたりはまた無花果からこぼれる果汁に注意を移した。
 いまは行き場のない感情でも、いつかはやさしい記憶になるのだろうか。

「あ、わかった! もしかしてマスター、無花果苦手なんだ!」
「あら! そうならそうとおっしゃってくれればいいのに、マスターったら」

 手も口もベタベタにさせて、立派に気遣ってくれる美女ふたり。あくまでその食べっぷりに免じて、ふたりから与えられた両手の無花果をそれぞれの皿に戻してやる。

「うん、ありがとう。ごめんね。わたし無花果食べれないの」

 けれどもし、聖杯があったとしたら、杯いっぱいの無花果を願います。きっと。
 わたしは困ったようにわらった。



(それが、世界を救ったわたしの願い)