黄昏時のバスタイム



「ロマーン、お風呂が冷たい」

 午後6時17分、夏空はまだ黄金色。
 浴室からの声にレタスをちぎる手を止める。

「冷たい?」

 ドタバタドスンと音がして、浴室のドアがあいた。

「ロマン」

 ドアの後ろからうまい具合に顔だけにょきっとのぞかせる。こら、と声が出そうになったが一度のみ込んだ。

「冷たいってどういうこと?」
「水なんです。湯船もシャワーも」
「水? だってさっき、きらきら星鳴ってたよね?」
「鳴ってた。『お風呂ができました』って言ってたし」

 試してみると、どうやらシンクの蛇口からもお湯は出ない。どうしたものかと二人して首をひねる。

「弱ったな」
「弱りましたね」
「少し考えるよ。とりあえず立香ちゃんは服。着てきなさい」
「あ、バレてた」

 バレるもなにも。
 立香ちゃんは何故だかキャッキャと笑いながら、また脱衣室に戻っていった。
 ちぎりかけのレタスを冷水に戻して受話器をとるが、今夜のうちにどうこうなるものでもないのだろう。
 ……そういや近所に銭湯があったけど。





「あなたは〜もう〜忘れたかしら〜」

 立香ちゃんには悪い癖が二つある。

「赤い〜手ぬぐい〜マフラーにして〜」

 一つが長風呂なところ。
 まあ女の子ってみんなそんなもんなんだろうけど、彼女の場合は平気で1時間や2時間浴室から出てこないし、一緒に入ったときなんかこちらがのぼせ倒れるまであがらせてくれなかった。
 まあ女の子ってみんなそんなもんなんだろうけれど。

「二人で〜行った〜横丁の風呂屋〜」

 僕だって彼女がいつ茹で蛸になってしまうか気が気じゃない。
 当の彼女はそんな心配、泡と一緒に洗い流してしまっているようで、それがさらに気が気じゃない。

「一緒に〜出ようねって言ったのに〜」

 あともう一つの悪癖がところ構わず歌いだすところなんだけど、なんかもうそれは割愛。
 神田川が3周目にさしかかる頃には、古きよき木造の銭湯に到着した。感化されやすい彼女は、ケロリンの桶に石鹸と赤いタオルを入れてフル装備だ。
 お風呂好きの立香ちゃんはこの調子である。対して僕はというと、気が乗らないというか気が気じゃない。
 カウンター内にいる初老の男性が「大人300円、子供100円」と手書きのパネルを指差しながら言った。600円払った。

「それじゃあロマン、あがったら入り口のベンチに集合ね」
「丸太のやつ?」
「ううん、大理石のほうのベンチ」
「あまり遅かったら先に帰るからね」

 「え〜〜」とかなんとか言いながら、立香ちゃんはアルプスの少女にも負けないスキップで紅色の暖簾をくぐっていった。それを見届けてから、僕は藍色のほうの暖簾をくぐる。

 せっかくなので広い湯船を満喫して、大きな富士に見下ろされたりもして、なんだかとっても健康で文化的な生活なんじゃないの? と、心もさっぱりして更衣室をでた。
 きっと彼女はまだ大浴場を満喫中なのであろう。時間つぶしにとコーヒー牛乳を買ってから待ち合わせのベンチへ向かったのだが。

「あ、おかえりロマン」

 ほんのりと頬を染めた彼女が、丸太のベンチに座っていた。

「……え? なに?」
「えっ、なにが?」

 「この大理石のベンチ、絶対場違いだよねえ」とケラケラ笑う君のほうが場違いだよと言いたくなるようなあのアホの子は、間違いなく藤丸立香。
 三度の飯より長風呂の藤丸立香だ。

「……もう出たの?」
「うん出た」
「いつ出たの?」
「いま出た」

 隣に腰かけると濡れたままの髪はとうに冷たくなっていた。自分の愚かな安易さを自覚した途端、隣の洗い髪と同じくらいヒヤッとした。
 きっと彼女は1分待たされても1日待たされても同じ台詞を言うのだろう。

「いや、待ったろう? こっち向いて立香ちゃん」
「へへ、待ってないですよ。心配性だなあ」
「寒くない? 銭湯はお気に召さなかった?」
「んー、うん。なんか」
「なんか?」
「なんか、ロマーンって呼んでも、ロマン来てくれないんだなあと思ったら、なんか……」

 彼女の髪から飴色のしずくが、僕の太ももに落ちていった。それは綿生地のズボンにじわりと染みを残し、広がっていく。消えずに、決して消えずに。
 色っぽく湿った肌、「ロマン」と僕を呼ぶ執拗に甘い響き。
 きっと彼女は、何万年だって僕を待ちつづけるんだ。僕が来ればそれだけで、「待ってないよ」と無邪気に笑うんだ。

「立香ちゃん」
「はい?」
「キスしてもいいですか」
「……だめ、です」
「ダメなの? イヤ、ではなく?」

 耳元で吐息混じりにささやくと、彼女はシャッと両手を上げ、威嚇中のカマキリみたいな姿勢をとった。可愛い。
 謝りつつ離れると、カマキリから一変して照れ臭そうに「家に帰ったら、お好きにどうぞ」だなんて言うもんだからもうなんだって許す。

「じゃあ帰ろうか」

 早々と家路につこうとするのは完全に僕の下心だ。

「早く帰って髪乾かさないと風邪引いちゃうから」

 と、もっともそうなことを言ってはいるが、髪なんてハグとかキスとかしてるうちに乾くし、結局また汗だくになってしまうんだから。
 外に出ると、立香ちゃんの匂いが風に運ばれて香ってきた。せっけんの甘い果実臭ではなく、うまれたままの彼女のにおい。
 いつからか彼女はオンナの香りをまとうようになった。考えるにまとわせる原因となったのは僕。……おいおい、そういうのホントやめてくれよ。ギリギリなんだから。

「あ、ロマン。それ」
「ん? ああ、コーヒー牛乳。飲むかい?」
「えー、いちご牛乳がいいです。ミルク感たっぷりの」

 なんかもうそれ、僕のミルクでよくない?
 そんなことをうっかりでも言ったもんなら腹パンは不可避だろう。結局道中の自販機でいちごオレを買った。

「家のお風呂、早く直るといいですね」
「すぐ直るよ、きっと」
「せっかく一緒に住んでるんだし、わたしたち。だから一緒にお風呂入って、ごはん食べて、歯磨きして、眠ってってしたいですよね。何時間でも、何回でもそうしたい」
「……立香ちゃんって、時々大胆なこと言うよな」
「大胆ついでにもう一ついいですか?」
「どうぞ?」
「やっぱり今、チューしませんか?」

 小さな石鹸、カタカタ鳴った。