トントントントン 意識の外で軽やかな音がする。 パンの焼ける香ばしい匂い。 どこからか鳥の鳴き声が聞こえて、柔らかな日差しと爽やかな風が体を撫でていく。 ああ、なんて気持ちのいい。このままずっと眠っていたいな。 ……けどだめだ、起きなければ。早く起きて、君におはようって。 だって今日は、 「ハックシュ」 ヴィクトルは目を覚ます。そのままムクッと起き上がり、子どものように目をこすった。 「ほら、だから言ったのに。もう夏じゃないんだから裸で寝たら風邪引くよって」 「ンン……勇利……お腹空いた……ハングリー……」 「今つくってるからとにかく服! 着たらご飯の前に洗濯! オーケー?!」 「オーケーオーケー。勇利は相変わらず朝から元気だなあ」 履き慣れたデニムに薄手のシャツ。靴下は履かない。邪魔だから。 食事の準備や部屋の掃除など、ほんとんどの家事は勇利がこなす。朝の洗濯はヴィクトルにあてられた唯一の仕事だ。 ヴィクトルは脱衣室に行く前に、勇利のいるキッチンへと向かう。 「おはよう勇利」 「はいはい、うん。おはようヴィクトル」 おはよう。 たった4文字がどうしてもむず痒くて、たまらなく愛しくて慣れやしない。たまらずヴィクトルは水仕事中の勇利を抱き締めるが「洗濯は?」とたった一言で拒まれる。 彼らの1日が今日も始まる。 銀杏並木の突き当たり、白を基調としたアパルトマンはふたりにとっての小さな城だ。 他のアパルトマンと比べると華美な装飾は少なく、年季が入っている分落ち着いた雰囲気の1DKだが、庭では四季折々の草木が揺れ、辺り一面が野花で溢れるその様子にまるで丘の上の花畑のようだとヴィクトルは喜んだ。今はちょうどコスモスが花開いていて、それに負けず劣らず、色づいた銀杏がアパルトマンから伸びる道を金色に染めている。 「勇利ー! 洗濯物ー! あるなら今のうちだよー!」 「大丈夫ー」 「えー! なにー! 聞こえないー!」 「だー! いー! じょー! ぶー!」 2つのグラスを用意しながら勇利は声を張った。 ミントにタイムにローズマリー。 庭から拝借したハーブでつくる、勇利特製のハーブウォーターだ。その日の朝に収穫したハーブをブレンドするため味は毎回異なるが、ヴィクトルにはそれが面白いらしく毎朝「ワォ…!」と楽しそうに飲んでいる。 今日は特別な朝だから、ヴィクトルの好きなアップルミントとレモングラスで。洗濯機を回し終えたヴィクトルが、そろそろお腹を空かせてやってくる。 「レモングラスとアップルミント?」 「あ、正解」 「ワォ! 初めて当たった!」 ぺろっと朝食を食べ終えたヴィクトルは、「最初で最後だ」と嬉々と言い残して再び脱衣室へ向かった。 勇利はグラスを傾けながら窓の外に目を向ける。 目が眩むほど一面の黄色。時間が経つのは早いなと、どこか他人事のようにも思ってしまう。 1年前はこの銀杏並木もたくさんの人で溢れていた。鳥の声も草花の彩りも、差し込む日差しも部屋を横切っていく風も。今日だって、何も変わっていないのだ。何一つ変わらない。 それなのに、この世界にはもう誰もいない。ヴィクトルと勇利を残して。 それはちょうど1年前、どこかの国のなにかの発表で世界中に激震が走った。 『1年後、この世界は消滅します』 それはいとも容易くこの平和な世界に混乱を与えた。 突拍子もないアナウンスだ。最初のうちこそまともに信じる者など少数だったが、時間が経つにつれて人々は気づく。「こんなこと、冗談でも言わないよ」と。そう、こんな大それたこと、冗談なんかでは言わないのだ。 人々は即座に行動をとった。そのほとんどが空を越え、宇宙を飛び、他の星へ移住。世界のムーブとしてそれが推薦された。 そして今日、まるでシナリオのようなその発表から364日が経つ。 明日、この星は消える。 ヴィクトルのいないダイニングは物音ひとつしなくて、のどかな秋晴れも、麗かな朝の匂いさえもひどく息苦しい。 いつからかテレビは黒を映したまま、不快なノイズを流すようになり、ラジオの電波なんてとっくの昔からつかまらない。家族も友人も皆、この星を出ていった。再び彼らと会うことは万に一つもないのだろう。それでも勇利はヴィクトルを選んだ。 「今日もいい天気だね。洗濯物が早く乾きそうだ」 「昨日洗濯サボったから、ヴィクトル。溜まってたでしょ」 「わかってないな。洗濯物はちょっと溜めておくくらいが丁度良いんだよ」 いつもと変わらぬ朝。明日のために洗濯をして、「今日はこっちのルート、明日はあっちね」と散歩に出向く。僕らは明日があることを疑わない。だが理解はしている。 明日、この星は消える。 報われない恋、なんて言ったらかなり聞こえがいい気もするが、まあとにかく勇利とヴィクトルはそういう恋をしていた。簡潔に言えば身分の差。同性同士という偏見。自由恋愛を主とするこの世界にも、やはり抗えないものはあった。 1年前のあの日、勇利のアパルトマンに駆け込んで来たのはヴィクトルで、少なからず混乱していた勇利は慌ててヴィクトルを部屋にあげて何かを確かめるように抱きしめあったけれど、気づけばその日からヴィクトルと勇利の共同生活は始まっていた。そうしていつの間にかふたりの関係に水を差すものも消えていて、晴れてこの世界はふたりの味方となった。 ひどく短命な世界だけれど。 「勇利〜!今日から俺はお前のフィアンセになる、そして世界で1番の幸せ者にしてやるぞ」 「全裸で何言ってんの、ヴィクトル」 黄金色の道を歩き、銀杏の葉のシャワーを浴びせ合う。秋の深まりを感じつつふたりが帰宅する頃には、もうすっかり日が暮れていた。 夕食を済ませ、ともに入浴。今度はお湯のシャワーを浴びせ合って子供のようにはしゃぎ回り、我に返ってまた笑う。 長風呂の恋人を放置して先にあがった勇利の前に、全裸で現れ珍妙な発言を残す。いろんな意味で危うげなこのアクションは、いわゆるヴィクトルのルーティンみたいなものだ。 その露出癖、結局最後まで治らなかったな。勇利は読んでいた本を閉じて一足先にベッドに入った。数分後、壁を向く勇利を後ろから抱き包むようにしてヴィクトルがやってくる。 天井の出窓からは星がふたりを見下ろして、あ、流れ星。だがふたりがそれに気づくことはないのだ。 “星に願いを” だなんてナンセンス。 「ユリオ元気かな」 最後の夜だというのに、突然出てきた自分以外の人間の名前で、ヴィクトルは少々面食らってしまった。 「ワォ、懐かしい名前だね。急にどうしたんだい?」 「久しぶりに会いたいなと思って。ユリオ、ちゃんとやってるかな。どこにいるんだろう」 「ユリオのことだからね、心配いらないさ。きっと楽しくやってるよ。今頃月にでもいるんじゃないか?」 その声音はふたりだけに聞こえるよう、ヴィクトルによって計算された囁きで。だがそれに報いない勇利は声を大きくして言った。 「つ、月? ハハハ、なんだそれ」 「案外わからないだろ? だってほら、見てごらん。今日の月だってユリオの髪の色にそっくりだ」 「……ヴィクトル、今さらだけどそういう台詞って脳みそのどの部分を使って考えてるの?」 「でも勇利と一緒なら、月もいいかもしれないな」 月でも、どこでも。 後ろから伸びるヴィクトルの手が、勇利の手に重なった。勇利のつむじにヴィクトルの唇が触れる。 最後の夜だから。言葉にしたら自分が崩れてしまいそうで、口には出せないけれど。 ふたりは目を合わせないまま、重なり合ったそのぬくもりだけで語り合う。 本当は伝えたいことも、伝えきれなかったことも、星の数ほどあるんだ。 ねえヴィクトル、明日の朝食は何がいい? 勇利、明日はどこへ出かけようか。 ヴィクトル、実は庭のフェンスを壊してしまって……。勇利、犬を飼いたいとか思わない? ヴィクトル、その露出癖いい加減治してよ。勇利、お風呂は100まで数えるってママに教わらなかったのかい? ヴィクトル、僕はあなたのことをちゃんと愛せていたかな? 勇利、俺はお前のことをきちんと愛せていただろうか。 「……ヴィクトル」 「うん?」 「僕たち、また会えるかな」 「会えるさ」 「……なんだよ、妙に自信満々だな」 「あたり前だろう? どうしたって俺はまた、お前を見つけにいくんだ」 ヴィクトルの目が見たい。深い深い青の色。いつか何かの本で読んだ、どこかの星の “海” とかいう湖の色にそっくりなんだ。 ヴィクトルの背中が見たい。その大きな背中を。触れなくてもわかるあたたかな背中を。不安とかそういうのが全部吹っ飛んで無性に泣きたくなる、その背中を。 きっと僕が振り向いたらヴィクトルは笑ってくれる。僕が抱き締めたらヴィクトルはより強く抱き締めてくれるし、僕の涙を見たらヴィクトルは優しくキスをしてくれる。 わかってるんだ。だから僕は彼に背を向ける。またいつか、ヴィクトルと会う日の僕のためにとっておいてやるんだ。 祈ることは何もない。 「うん、わかった。じゃあ、」 待ってるよ。 そして世界は終わりを告げた。 バタバタバタバタ 意識の外で落ち着きのない音がする。 いつもと違うアルコールの匂い。どこからか機械的なノイズが聞こえてきて、生ぬるい空気と人々の気配が体を包み込んでいく。 ーーロシアじゃニュースになってるわよ!……雷のようなイマジネーションを受けて……………は、勇利を選んでここに来た、あんたが………… なんだかうるさいな。 でもここは妙に心地がいい。このままずっと眠っていたいな。 ……けどだめだ、起きなければ。早く君におはようって。 だって今日から、 「ハックシュ」 ヴィクトルは目を覚ます。はだけた服はそのままに周りを見渡した。 あれ、ここはどこだっけ? 見慣れない風景。聞き慣れない言葉。 俺、多分今寝ぼけてる。変な夢を見ていたような気もする。 「わっ起きた」 「お腹空いた……ハングリー……」 「え!?」 「まだ食べるの」 「えっ、えーと! ヴィクトルは何食べたい?」 勝生勇利。彼は慌てふためいて俺の名前を呼んだ。 「……コーチとしては、」 『今日から俺はお前のコーチになる、そしてグランプリファイナルで優勝させるぞ』 それはたしかに、懐かしく響く約束で それはどこか、身に覚えのある約束で 「コーチとしては、まず勇利が1番好きな食べ物を知りたいな」 「え…」 ヴィクトルニキフォロフ。彼はまるで慣れた口振りで僕の名前を呼んだ。 刹那、頭の中の奥深くがハレーションする。 ヴィクトルニキフォロフ。リビングレジェンド。僕の憧れの人。ついさっきまであれほど遠くにいた人物が、どうして僕の隣にいるんだ? ミナコ先生の台詞がよみがえる。『ヴィクトルはあんたを選んでここに来た』……僕が引き寄せた? そんなまさか。 ずっと憧れていた。幼少期、僕はこの人に魅せられてスケートを始めた。 どうしても貴方に追いつきたかった、貴方のことが知りたかった、貴方の隣にいきたかった、今までずっと。 自分でも上手く説明できないけれど、そこに理由は存在しなくて、きっとそれはリビドーにも似た本能的な何か。 ヴィクトルは真っ直ぐ僕を見つめてくる。 近くで見るヴィクトルの瞳は深い深い青色だった。月の光に照らされる長谷津の海のようで、濃密に煌めいている。はだけた背中は広くて、ああ僕はこのぬくもりを探していたんだと、不思議なノスタルジーに泣きたくなった。 また一瞬、頭のどこかがハレーションした。 僕は彼を待っていたのかもしれない。 ← |